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 | 蟻 地 獄 |  |
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★ 眠れぬ夜の繰り言 ★
- 受験勉強は、自己の心に或る緊張をもたらすという意味で、結果はどうあれ、いいものと思う。僕の転機をこれは作り出してくれるかも知れない。その為には、全力でぶつかることだ。
- 先生を訪ねる。僕の来るのを待ってくれている。週に一度は会いに行くことにしよう。わしに弟子入りし、わしの家で勉強しろ、大学に行くことなし……と言っているような気がする。僕に作家としての才能があるとは思えない、自信もない。
深い不安感に包まれるだけだ。それで、これから三ヶ月間、受験勉強に取り組んでみる。結果は問題ではない。かなり拡散してしまっている現在の自分の意識を一点に集中させる力を取り戻す為だ。肩に負った重い過去をひとまず降ろして、整頓することだ。
- 兄貴と親父の口論に僕も割って入り、親父と言い合いになってしまった。大学を中退したことについて、親戚の者や近所の人達から、どうしてやめたの、惜しい…等と盛んに言われた。それについて親父は僕に対して直接に一言も愚痴はこぼさなかった。
3年前、勤めを辞め受験のため図書館通いを始めた時も何も言わなかった。その父が今日の言い争いの中で、妙に僕の心に引っかかることを口からすべらせた。
「おまえはあの先生のところへ行くようになってから変わった。そいであの先生はええとは
ちっとも思ってないんや」
確かこのような言葉だった。母もこのようなことを言ったことがあった。確かに僕は変わった。空恐ろしさも感じる。もし先生がいなければ耐えてゆけるだろうか。僕は永遠の孤児。家庭が何だと云うんだ!
- テレビの素浪人月影兵庫の好物はおから。先生もおからに興味を覚えたらしく、おから料理をご馳走しようと手紙にあった。今日先生を訪ねると、おから料理で僕をもてなしてくれた。
今日は悲しかった。二人の間で言葉が交わされない間は、
僕は自分の過去を思い返して、この世で一番可哀想な奴だと憐れんでいた。未来を想えば涙が出そうになり、こらえるのに苦労した。割腹自殺した三島のことが少し話題になった。どうにでもなれ!という声が僕の内部で反響していた。
- ここ三四日、受験勉強は全く手につかない。不安の渦の中。脱け出すことは出来なかった。昨夜、床についてからどうしようもなく唸なされた。意識的に唸ってみたりした。声を出さずにはいられなかった。兄貴が、静かに寝ろ!と命じる。
僕は一人、全くの独りぽっち。それは分かりきったことなのだ。僕の宿命がこれなのかと思うと、空恐ろしくなって身震いがする。眠れない夜はいつも架空の女性が現れて僕を慰めてくれるのだが、昨夜は誰一人として現れては来なかった。僕の孤独感は
生来のものだろうか。やはり僕の道は、英文学を通じて文学の世界に入って行くしかないようだ。心をひとつにして、心をひとつにすることが大切だ。淋しくなっても家へは入るな。心を蝕まれないようにしろ。この部屋こそ僕の城。
- ♪※♪ ♪※♪ ♪※♪
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★ 散文詩ふうに ★
- 僕はこの鳥を不連続鳥と呼ぼう
- おお!鳥よ 寒い北風に声帯は凍結し 鳴くにも鳴けず ただ梢から梢へと 或いは灰白色の空へ一つの黒点を不連続的に落下させることにより おお!鳥よ おまえはかろうじて鳥としてのおまえの生存を認めさせているのか!
- おまえのその哀れな姿を眺めていると 鳥よ 僕のこのあたたかい部屋に入れ 「さぁ昔のように美しい声で愉快な歌を聞かせておくれ」と言ってみたい―とは決して思わないのだ! すべて徒労に帰す! 虚しい!
- 鳥よ 悪く思うな! 僕の右の瞳は慈愛の泪に潤みはしているけれど 左の眼は冷酷な光を放射しているのだ! 泪は群から離れた鳥よ! おまえにとって無意味に等しく 結局 北風が鳥よ! おまえを殺してしまうか ああ
鳥よ! おまえはそれに耐えられるか 二つに一つ それ以外には決してないのだ!
- 僕はこの部屋に慥かに存在すると思われる小宇宙を 自らの忍耐力と想像力によって拡大しなければならない 孤独が僕をこの世界から追放し テレビの前で 僕の近親憎悪がまた僕をこの部屋に帰らせる こんな悪循環は即座に
断ち切らなければならない!
- 僕は自らの意志により一つの回路を切断する するとそこに僕の孤独がある! 眼を閉じてはいけない! 凝視し続けろ! 冬の風景の中で僕は僕の孤独を完全に涸渇させなければならない 僕は僕の孤独が僕の眼前に現れ出でた時 僕はグッと
下腹をこらえ 両眼を大きく見開いて この魔物を徹底的に凝視め倒さなければならない これこそ僕が採るべき絶対命題だ! 孤独の出現により意識の集中を!
- 鳥よ 哀れな姿の不連続鳥よ! 「僕の現在の魂の最大の苦悩は 当初の あの頃だ! 知識欲を生活苦により極限極まりない形態で抑えつけられていた少年が ふとした機会に未知の とても難解と思われる完全なる世界に遭遇した時に感じる
欣喜雀躍とした魂の純な震えは もはやこの僕には戻ってこないのだと絶望的に懊悩する精神の暗澹たる淵に息絶えざえに存在しているのだ」と僕は言わない! そこからは何も生まれはしないのだから!
- しかし鳥よ 僕の大好きな不連続鳥よ!
僕の祈る声が聞こえるだろうか……
……どうかこの小鳥だけは 北風よ……
……どうかこのけなげに飛ぶ 小鳥だけは……
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★ 先生と私(1) ★
- 先生はアメリカのK先輩への手紙に僕のことを書いたのだそうだ。どのように書いたのかは知らないが、僕がK先輩を頼ってアメリカ行きを言い出すかも知れない、その可能性を考慮してくれているのかもしれない。それなのにこの僕は何を
思っていたのか。僕は自分の過去のことばかりを思い、目は未来に向いてはいないのだ。
- 今日で四度目。天王寺公園内で「兄ちゃん、仕事いらんか」と声をかけられた。今日は別段屈辱を感じたわけではなかった。自分というのは、浪人とは見られないらしいですね、と笑って先生に話せるだろうと思っていたが、そんな話しが出来る
気分には到底なれなかった。
- 僕の頭は混乱して纏まりがつかない。僕は先生に憎しみを感じているのだろうか。しかし、僕は先生を師として敬っているではないか。僕は先生に師以上のものを感じているではないか。先生のためなら自分はどうでもという気持ちがあるではないか。
それなのに僕は先生に憎しみを抱いているというのか?……いやいや、この憎しみは僕の社会に対する、高校の時の教師に対する憎しみが転化されたものなのだ。そんなこと位、僕だって分かる。しかしそれでは、そのように転化させているものは何によるのだろうか。
- 今は受験どころではない。大学はすべる。間違いない。しかし僕はそれを承知で受験する。これは必然なのか、そうならば仕方がないという僕の積極的な破滅への意志によるのか。大学は間違いなくすべる。この過程において、自分がどれだけ耐えられるか、
自分がどれ程卑小な醜態を晒すか、僕は自分の姿をはっきりと見定めなければならない。この過程において自分の精神を強靱なものにしたいという願望も秘められている。また自分の純粋な魂をどれだけ守れるか。僕の人性上の問題がいくつも隠されているのだ。
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★ 先生と私(2) ★
- 今日で確か五度目のように思う。先生の心は、はがゆく苛立ち、悲しそうだった。先生は烈しく現在の大学制度を批判する心の奥に僕は何を見ていたのか。僕の未来は大学以外の場に見いだすべきなのだ。しかし僕の心は大学にこだわっている。
先生はたいそう落胆されたことだろう。結局僕の決心が問題なのだ。僕は心を決めなければならない。いや、心は決まっているのだ。しかし曖昧にしようとする気持ちが今もなお僕の心の中に存在しており、僕はそれに決然と立ち向かえないでいるのだ。
僕の心は決まっている。それなのにあれやこれやと、優柔不断の薄い雲のような心をふわふわ漂わせている。僕は先生にあまりに接近しすぎてかえってよけいに、何かある安心感がある為なのか甘えによるのか、心を決められずにいるのだ。いや、まだ自分の才能云々を
問題にしているのか。それとも急に燃え上がらない自分を意識する故に、かえって青年らしく反応出来ないのか。
お前、よく考えてみろ。お前の道は、どう考えても英文学以外にはないぞ。先生のお前に注いでくれる温かい愛情と期待を振り切って、お前は人間としてお前自身を
立たせることが出来るのか。答えは明らかだ。先生がどういう気持ちでお前に辞書を与えてくださったと思っているのか。お前は将来何になるにしろ、まず、先生の塾の門を敲くべきだ。お前は先生の気持ちをよく思い直してみろ。
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★ 僕の将来、たとえば・・・ ★
- 僕は自分の将来の道を選択しなければならない時期に直面している。今、僕の心は恐ろしく平静なのだ。本当なのか、波乱万丈の人生の幕が上がる前の静けさなのか、動揺からまた新たな動揺へと転換する一瞬の心の凪ではないのか、少し不安な気もする。
- よく考えてみろ、お前は平々凡々としたサラリーマン生活に満足出来るのか、―出来ない。以前だったら、そのことを想像しただけで凄く不安になった。しかし、今は不思議と何も感じない。これはどのように解釈すればいいのだろうか。一般人の生活感情まで僕の心が降下
した為であろうか。いや、そうではあるまい。この平静さは、僕には英語を勉強するしかないという確かな確信がそうさせているのだと思う。それならば、再度受験するというのは一体何の意味があるのだ! いつも迂回ばかりしている僕、そうならざるを得なかった僕。
この僕が今さら一般人と同じ道を歩んだとて、またそうしようと努力したとて、僕には全く血となり肉にはならないのではあるまいか。これまで迂回ばかりしてきたのだし、迂回した人生を送る方が僕らしいのでないか! 日本の大学の本質は、一昨年の大学紛争を通じて僕なりに見てきたではないか!
- 広く世界を眺めながら勉強する、例えば、アメリカの大学で英文学を勉強する。素晴らしいではないか。要は、僕が本当に文学の道を歩む覚悟があるかどうかなのだ。文学は個人の個性の表現。僕の心の中に純粋な心、正義を求める心、真実を求める心、美を求める心などがあれば、そして
それらを現実の中で実現しようとすれば自然と文学が生まれるのだ。いつも妥協的になる心を排する高い心があれば、それを持ち続けようとする強い心さえあれば、文学は自ずとその姿を現してくるものなのではないか。はたしてこの僕が現実の中を生き抜いていくことが出来るのだろうか。恐らく醜悪な
ものを見らざるを得ないだろう。僕のか細い神経は乱れた響きを放つだろう。そこで悔恨してもはじまらないのだ。いやいや、観点を変えよう。僕には青春があったか、―否。それでは失われた青春を取り戻そうではないか。渡米する。自分を試してみる。残り少ない青春を大いに謳歌するのだ。
自分を異国の地に賭けてみようではないか!
- 現在のこの静けさは、人生の荒海に向かって正に漕ぎいでんとする前の精神の厳かな凪だと僕は信ずる。
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★ 先生と私(3) ★
- 先生の時事放談を聴いていると全く圧倒されてしまい、僕の気の弱さなのか、性質の悪さなのか、自分が責め立てられているような錯覚に陥ってしまうことがこれ迄何回かあったが、こんなことではいけないと思う。これは僕の知性の問題なのだ。知性が低いから変な感情に支配されてしまうのだ。
自分独自の確かな考えは今の僕は何も持っていない。
- 今日の先生は烈しかった。現在の社会風俗から、教育問題、政治問題、三島事件にからめての憲法問題等々に痛烈な批判をあびせていた。教育については、制度と教師の倫理観と学力、これら三つが三位一体となってそろわなければよい教育は出来ないというところなど、全くそうだと思わず拍手を
送りたい気持ちになった。先生は三島事件から特に憲法問題を引き出しているようだ。「民主主義は現在の国民の知性から判断して健全には育たない。現憲法の精神を生かすにはまだ国民の知的水準がそこまで到達していない。それで何十年後には現憲法に戻すという前提のもとに、憲法を改正しなければならない。
何かと云うとすぐ人権擁護委員会がどうのと口を出す。現在の日本は、全く低俗なヤンキーズムで充ち満ちているね。正に放蕩息子に金を持たしたようなものだ、勿論精神的にはね。そういう意味でわしは憲法改正論者だ」と言っていた。先生の憲法改正論は以前にも何度か聞いたことがあるが、今日は特に激烈であった。
- 先生の厳しい批判の口調も最後になるにしたがい次第に緩やかになっていった。先生は日本に絶望しているのだ。憂国の士であるが同時に諦観も有している。結局、自分の大切なものを守るために殻の中へ閉じ籠もってしまうのだ。しかし、現在の社会風俗は先生にとって耐え切れないようだ。
先生の批判の鋭利さは現実の耐え難さを測る尺度とも言える。
- 僕はすぐいとまごいをするつもりであったが、なかなか言い出せなかった。話が一段落すると先生は紅茶を入れてくれた。もうすぐ夕食時だ。今日は豆腐屋は休みらしく戸が閉まっていたよと言ったとき、僕はすかさず、今日はすぐ帰ります、勉強しなければいけませんから……と返した。
僕の気持ちとしては、2時頃から用もないのに押しかけて、遅く迄いることに何か言い様のない苦痛を感じるのだ。先生はきっと、君は気にかけすぎる、そんなことちっとも気にかけていないよとおっしゃるに違いないのだが…。
- 帰る時、眼と眼で話をした。・・・先生の親切な申し出を拒否して、自分でも否定している大学教育を再度受ける為に僕は勉強しています。先生という立派な教えを乞える人がそこにいながら、僕は先生を無視している。こんな僕を許して下さい。僕は今、自分が解らないのです。心の底を探れば、
自分に対する自信喪失が原因なのかも知れません。このままでは僕は、巷の片隅で飢え死にする哀れな一人の浮浪者になってしまうかも知れないという恐ろしい不安感を抱いているのです。昨夜も、床に就くや、これに襲われ、どうしようもなかったのです。それなのに僕は先生に心を開かず、
素直になれないで、十中八九合格出来ないと恐々としながら毎日を過ごしているのです。先生からご覧になれば、僕など笑い飛ばして目も触れたくないような型の男なのでしょう。打てど響かない、見ているだけで苛々してくる男なのでしょう。しかし、僕は自分で自分を扱いかねているのです。どうか宥して
下さい・・・と目で訴えたつもりだが、先生は何と思っていたのだろうか…。僕がドアを出た時、先生は「まあ、頑張ってやりなさい。すべったっていいじゃないか」と言われた。
- 帰りの電車の中で、よし、頑張ろう、血を吐く覚悟でやってみようと思っていた。試験が終わった後、昨年一年間の日記を読み返して「或る愚か者の手記」という形で纏めてみよう。その人物は結局自殺してしまうのだ。僕はそれをひっさげて先生に教えを乞おう。古い自己は死ぬのだ。
それからの僕は新しい人生を歩むのだ。そんなことを思っていた時の僕の心は頗る純真であった。その思いに心が慰められるようであった。
- しかし、電車を降りて、自転車をこいでいた時の僕の思いは何であったか。先生は「電気科の生徒はみんな裏と表がある」と言った。この言葉は、先生が一昨年電気科の生徒を教えていた頃のことを追想した話の中に出てきたのであるが、僕には妙にその言葉だけが脳裡にこびり付いていた。
僕は今迄に先生にそういう態度を見せただろうか。不安になってきた。先生は僕などもう見捨ててしまっているのではないだろうか……。不安だ。僕は生きられない。ああ、やりきれない。どうしよう。いや、もしそうだったとしてもまだ生きられる。何処か遠いところ、北海道の牧場へでも逃げようか。
そうだ、そうしよう。少し心が安らいだ。
- しかしよく考えてみると、僕には裏と表があるんだ。心は屈折していて素直でない。「ドデスカデン」を観に行ったことは先日先生に話したが、昨年の十二月、何回も会っているのにその話はしなかった。しかしそのことよりも、大学に入学した年の夏休みのことが気にかかっている。
その夏先生を訪ねた時、いつか一緒に野球観戦に行こうと誘われたが、結局僕はその夏休み期間中、先生を訪ねることはしなかった。先生と一緒に行けば、先生が料金を出してくれるだろう。であるから僕から行きましょうとは言えないのだ。全く素直じゃない、変な性格なのだ。先生はこんな僕の
気持ちは解ってくれるだろうか。
- このようにこんな文章を書いていて、僕の気持ちはあの悪魔から救われたようだ。今の僕の気持ちは正常である。先生は別に僕を見限ったわけではないのだ。「君の才能を信じる」と、一昨日も言ってくれた。僕は先生を信じよう。信頼から新しいものが生まれるのだ。頑張って
先生をアッと言わせてやろう。絶対に合格するんだ。
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★ 脳裡に点滅するミジメナオモイ ★
- 僕は逃げることばかり考えている。受験に失敗したら、自分の能力はこれだけだと見限り、平凡な生活者として平和な家庭を築き一生を送る。そんなことを夢想すれば心は不思議と落ち着く。勿論、厳しい現実から受ける疎外感やむごたらしい孤独感に目を覆ってのことだが……。
- こんな時、中学時代の友情が思い浮かぶ。転校してきた彼に対して抱いたあの感覚、甘美さを伴ったあの不思議な感覚を味わった自分の姿が目の前に現れてくる。その頃、未来は僕の掌中にあった。雲の切れ間に顔を覗かせる青空に、心雀躍とした。友情のこと、将来のこと、
それに異性に対する淡い感情もあった。未知なるものに対する大いなる期待と憧れがあった。広い世界をもっとよく知りたい、日本は、世界は、何故世の中はこんなにも苦しいことがたくさんあるのだろうか、学問とは一体どういうものであろうか、高校へ行ってもっと勉強したい、等々―。
彼とだったら何でも話せるように思われた。彼は僕の心の支えであった。彼に新しい友人ができたら、僕はどうなるだろうか、不安でならなかった。あの気持ちは一体何だったんだろう、今でも不思議だ。それ程、あの頃の自分は、ひとりぼっちで孤独であったのだろうか……。
- 高校へ願書を届ける日、彼と僕は一緒に出かけた。彼の進む高校の前で彼と別れて、僕はバスに乗るため停留所まで歩いて行った。その時、その別れを僕がどのように思っていたのかはよく覚えていない。恐らく僕は立派な電気技術者になるんだという気持ちで自分を納得
させていたのだろう……。その日は朝から雨が降っていた。彼と別れた頃、既に雨は止んでいたが、空はまだ鈍よりと重く、道はかなりぬかるんでいた。傘をたたんでいたのがいけなかった! 前方から猛スピードで突進してくるダンプカーを避ける場所がない、アッという間に身体半分、
頭の先から足の先まで、赤茶色の泥水をかぶった。腹立ちが鎮まるにしたがい、みじめさが襲ってきた。そのみじめさが、今日のみじめさに繋がるとは、その時、夢にも思わなかった。
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★ 先生と私(4) ★
- 今朝10時頃、先生から電話があり僕の将来について相談したいから、とのことであった。先生の意図は分からなかった。
- 先生はふわふわしている僕を見て大変心配して下さっているのだ。僕の復学のことについて、大学へ問い合わせの手紙を出したところ、昨日その返事があったそうで、復学の方向で話を進める前に僕の気持ちを確かめておかないといけないという訳で、僕を呼び出したとのこと。
手紙にそのことを書いたのだそうだが、一刻も早くとの思いで、手紙は出さず直接電話したとのことであった。
- 僕が復学する―、そんな思いは脳裡をかすめたこともなかった。僕は第一志望で合格したのではなかった。そのことに僕はこだわっていた。別に不正なことをして入ったわけではないのに、どこか後ろめたい気持ちがあった。受験勉強に取り組んでいた時の自分の気持ちを裏切った
という思いが、常に罪の意識のように心を暗くしていたのだ。そんな僕が復学、そして転部―、それは出来ない。僕はその気持ちのないことを告げた。先生はそうかと頷くと、それ以上何も言わなかった。
- フルブライト留学生は、今は高卒を対象としていない、大卒でないといけないことが分かったので、それなら復学できれば、文科へ転部する道を、と言う訳だ。僕の家庭の事情などを考え合わせて、一年でも早い方がよいと考えて、骨を折って下さったのだと想う。先生の心遣い、
胸が締めつけられる思いであった。しかし、僕は断った。どうして僕が復学なんか出来よう!
- 僕はどうすればよいか分からない。とても苦しい………。
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★ 馬鹿の見本 ★
- 強固な意志は僕の何処にあるというのだ。ふらふらして弱い人間だ、この僕は……。
- 昨日、先生の前で馬鹿の見本を演じてしまった。あれでは先生を苦しめているだけではないか! ねちねちとみみっちい態度で拗ねているのと全く同じことではないか! 「今度こそわしを失望させないでくれ」―この先生の言葉に僕はくしゅんとなるしかなかった。僕は莫迦の莫迦の大莫迦野郎だ!
- 喉元まで言葉が出かかっておりながら、言えない。燃え上がらない。煮え切らない。自分の信念は何処にある! 目標は何だ! 何もかもあきらめ切っているのではないのか!
- 僕の心の中には頑として動かない冷ややかなものがある。これが恐ろしい。僕はこれから逃げようとしているのだ。逃げたい逃げたいと願う心が、もうどうなってもいいんだと投げやり方向へ自分を導いていく。しかし、僕には逃亡の出口はない。
- 自己の消極性を意識しているが故に、積極的に振る舞うことを暗々裏に諭されたりすると、かえって逆に自己の消極的でみじめな姿が想いやられ、益々消極的にならざるを得ないという人間もいるものだ。人の言いなりになるとは、少年の頃の忍辱の姿と不可分に結びついているが故に、しかもそれが
父親の或るイメージを伴うが故に、たとえ純粋に人を気遣う気持ちから発せられていることが解っていたとしても、受け容れることが出来なく、益々迷路へ陥って行かざるを得ない人間もこの世にはいる筈だ。それではどうすればいいのか。
- ハッキリセヨ! はっきりと。粘着的にあれやこれや思っていても何にもならない。もう願書を郵送したのだ。僕は莫迦の見本を演じよう。莫迦は莫迦らしく頑張ろう。このままではすべてがダメになる。後1ヶ月もないが、死にもの狂いでやってみよう。全力でぶつかってみれば、何とか突破出来るかもしれない。
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★ 不 安 ★
- この不安は何処から来るのか。急に襲われる。もがけばもがくほど、恐ろしいとしか形容のしようがない不安に捕らえられる。僕の置かれている状況を直視すればするほど、空恐ろしくなる。そしてそんな不安に兢々としている自分をしばらくじっと視ていると、いつしか不安は消えて行く。
別世界へ放りやられたような、ただ空しい自分を意識する。
- どうなるのだろうか……。しずまりかえって波ひとつ立たない大海原に一人、嵐の予兆に内心恐々としている。ここでは一切のものは虚無と見なされる。
ああ自然よ! 天よ! あなた様は一体、この哀れなわたくしをどうなさるおつもりなのでしょうか。
ああお願いでございます。どうか、
どうかわたくしに、この渇ききった喉元に、愛の一滴をお恵み下さいませ。薄氷の孤独の中で妖しく明滅する悪魔の青白い光線からわたくしをお救い下さいませ。
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★ あ せ り ★
- 何たる失態! 今10時10分前だぞ。昨夜は11時頃床に就いた筈。眠り過ぎだ。
- 体裁を取り繕うのではなく、そんなことじゃなくて、残された2週間そこそこを、精一杯頑張ってみよ! それが現在の苦しみを救う唯一の道なのだ、分かったか!
- 3年前の発表の日、僕は祝杯のコーヒーに間違って塩を入れて飲んだらしい。その味には夢の欺瞞性を悉く摘出するには十分すぎるほど、奇妙に陶酔を伴った苦さがあった。
- 夜10時40分。蛍光灯の雑音が耳から脳の奥の奥へしみ込む。「ギャー、ヒュー」と叫び出したい気持ちを抑える。焦燥感。
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★ 混乱した自己を発狂させない為の試み ★
- 何ということだ! 五日の日から僕は何をやってきたというのか!
僕は先生の好意を拒否した。だから当然、愚かしいと半分思っている
何が半分思っているだ! 将来
に何の信念も持っていないお前がそんなこと言えるのか!
受験勉強をしていなければならない筈だ。それがどうだ! 何故なのだ!
先生の好意を冷淡にも突っぱねているでは
ないか! それでもお前は人間か! さあ、どうなんだ!
- ああ。何も言わないでくれ。どうして僕を苦しめるのだ。よしてくれ。一体どうすればいいのだ。僕に何が出来る。苦しい。重い。そんなに圧迫しないでくれ。どうすればいいのだ。
僕に、僕に何が出来る。何が出来るんだ! どうすればいいのだ。苦しい。そんなに責めないでくれ。僕のどこが悪い。いや、僕は人間的ではない。人の好意に素直に反応できない者は非人間だ。
しかし、ぼくは、ぼくは、このぼくは……。いや、明日からちゃんとしよう。今このぼくに一番大切なのは、自分を信じることなのだ。自信を持つことなのだ。俺には我がない等とふてくされない
ことなのだ。意識を集中することなのだ。集中させなければ決してこの僕は、ぼくは、救われないのだ。何も視えてこない。こんな僕に何が出来るんだ。僕は何をすればいいんだ。僕に出来る
ことがあるのか。何なのだ、教えてくれよ。実は僕は恐れているのだ。実際、すべると判っている受験を、当日、僕は一体どんな気持ちで家を出ていくだろうか? 僕は一体何の為に受けるのだ。
・・・・・〜〜/〆‐ζ〆∫ヾ仝ヾ\Ψ〃〜〜◎★!・・・ああ!
- いいかい。落ち着き給え。冷静に考え給え。心を沈めて、混乱した糸を解きほぐしていこうではないか。君は何故大学を退いたのか?
- どうしても化学を続けていけなかった。自分の厭なことを無理してやる必要はどこにもないからね。僕は自分が化学という学問(?)を極めるということと、それを社会へ如何に還元
するかということの接点をどうしても見つけることが出来なかった。いや、そうではなく、やはり僕は試験官を振るということは出来なかったんだ。試験官を振るということは、僕の場合、あの
高校での忌まわしい数々な体験の象徴を意味するのだ。僕は工業高校で、自然科学一般に対するある種の嫌悪感を身につけてしまったらしい。………。苦しい。考えることが苦しい………
- しかし、問題を曖昧にしておけば、君はいつまで経っても今の苦痛から抜けだせはしないぞ。さあ、歯をくいしばって、考えろよ。
- そうだ、そうなんだ。僕はこの苦しみから一刻も早く抜け出したい、解放されたいんだ。この気持ち解ってくれ。……考えるよ。今先、接点云々と言ったけれど、そんなことは問題
ではないんだ。その問題が真に問題となり得るには一つ前提がいるんだ。つまり化学という学問に対して、僕が知的好奇心を持っているということなんだ。それが前提されなければ、今言った
接点云々は無意味に等しい。さて、僕の場合、知的好奇心、いや、化学に対するロマンティクな夢でもかまわない、そんなものは一回生の夏休みに全て吹っ飛んでしまっちゃった。あの頃が、
今考えてみると、一番危険な時期だったんだなあ、あれよあれよという間に、こんなみじめな状態さ。
- とすると化学に対しては何の未練もないわけだ。数学についてはどうなんだ。
- 数学か……、ないね。今更やる気も起こらないよ。実は、僕が一生涯数学研究者として身を立てて行こうと堅く心に誓っていたかというと、頗る疑問なんだ。苦し紛れに掴んだと
云った方が当たっているね。ほら、諺に云うじゃないか、溺れる者はわらをも掴むてね、あれさ、数学はわらなのさ。わら程度の意味しかなかったんだよ。そりゃそうだろう、何でもそうだろう
けれど、学者として身を立てて行くには、優れた才能とそれを熟成させる環境が絶対必要なんだ。僕の場合どうであったか?………へへへ、それこそわらわせるじゃないか!
- 君! そんなに自虐的になるのはよせよ。僕は信じている。君は決してそんな人間じゃないということをね。
- 何が俺を狂わせたか―というわけだ。いや、止そう。拗ねても始まらない。この苦しみから逃れることが先決問題だ。
- そうだよ、拗ねてみたって始まらないんだ。益々泥沼にはまっていくだけだよ。しかしさ、もし君が数学科で合格していたら、どうだったんだ。
- うーん、数学科ね。素直に考え直してみて、……僕は数学を真面目に、それこそ真剣に勉強していた筈だ。自分で、この自分の脳味噌で選んだ道だからね。そりゃ、入学した当初は、
ひどいコンプレックスに悩まされていただろうさ、なにしろ工業学校出だからね。しかし、それは寧ろプラスに働いていたんじゃないかと想像するね。こりゃ大変だ、こうしてはいられない、
それこそ馬車馬のように。先生は僕を見るとくちぐせのように馬車馬、馬車馬のようにと僕を励ましてくれたなあ。そうしたらさ、僕と先生の関係ももっと前向きになっていただろうさ。
もっと英語を勉強していただろうさ。もっと英文学に興味をそそられていたかもしれない。クラブへ出かけて行って、後輩達と一緒に、英語劇をやったかもしれないね。劇は出来なかったとし
ても、一緒に勉強していただろうさ。
- おいおい、あんまり寂しくさせるなよ。元気を出せよ。泪なんか流したりしてさ、みっともないぞ。男がそんなことで泣くなんて!
- いや、すまん、すまん。どうしようもないな。くそっ! 急に胸に込み上げてくることがあるんだ。丁度あるムードになるとね。共鳴してしまうんだな。所謂ナルシズム的
レゾナンスていうやつだ。何を話していたっけ?
- 君は数学を学んで将来どうする心算だったんだ?……いや失礼、世界に名を轟かす大数学者!
- やめろ! ひやかすなよ。そんなんじゃないさ。恥ずかしいが、そうじゃない。自分の才能はうすうす感じていたよ、受験勉強の最中で。少し自信を失いかけていたことも事実だ。
君の言うような人物は、模擬テストで六割を取るのにエンヤコラサなんてことはないからね。いや、試験の結果だけで数学の才能を推し量ることは無論出来ないことくらい承知している。数学
の才能なんてやつは、そんなちゃちな試験で絶対測れないんだ。しかし、がしかしだ。偉大な数学者になる素質を持っている奴ならば、その気になって勉強すれば、あんな試験、ケアレスミス
を除けば楽々満点は取れると思う。そういう意味で俺は少々自信をなくしていた。無意識的にね。いや、意識していたが、また別な意識がその意識を押し殺していた。受験は闘争だ。生きるか
死ぬかだ。あの頃の僕は少なくともそうだった。あの頃はニーチェなんか少しかじってさ、感情のポテンシャリティは今に比べてずっとずっと高かったんだ。高かったが故に。落っこちた時の
衝撃も相当ひどかったらしい。しかし、その傷はぬるま湯の中にひたされていて、そして僕の一番弱い、いや弱かったところを、今でも弱いかもしれないが、つかれていたが故に、明確には意識
出来なかったんだ。今にして思えばそれが一番残念でならない。そんな愚かな過ちは将来二度と繰り返さないように注意しようと思う。自分が一度決めた目標は、誰が何と言おうと笑おうと、
絶対手放してはいけない。とことんまでやり通すべきだ。愚者でも一念を貫き通せば、立派な愚者だ。が、それを放してしまってさ、打算的な賢者のいい見本が、ここに冬の冷たい風に吹かれて
いる。全くいい見本だよ。
- また始まった。そこが君の悪いところだ。逃げるというか、肩すかしをくわせるというか、諦めて悲しそうな顔をする。悲しいんなら徹底的に悲しめばいい。しかし、君はそうじゃない。
すぐ無表情を装う。内部に鬱屈したものを秘めながら、何故か他人事かなんかのような顔をする。甘えているのか拗ねているのか知らんが、いい加減にしろよ!
- ♪※♪ ♪※♪ ♪※♪
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