二度目の浪人生活の始まり

苦悩という名の遊戯

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★ 詩の鑑賞文 ★

 未来の不確定性にこそ人生があり生命があり、人間が人間として生きようと欲すれば、それを積極的に受容し、敢然と奮い立つ姿こそ、我々の心を捉えては離さないものです。 フォイエルバッハは「理性と愛と意志の力とは完全性であり、最高の力であり、人間そのものの絶対的本質であり、人間の現存在の目的である」と云っています。僕達が、勇壮な態度で 進んでいく人間に強く心を惹かれるのは、そこに人間の理想の姿、人間の本質を見いだすからに他ならないからだと思います。恐らく彼は深く思惟し、かつ彼の内部では何かに対する心情の 力と、それを求めんとする意志の力とが、強靱かつ密接に結び合わさっているのでしょう。いや、心情の力が、意志の力を誘発し、時には理性を抑えるものなのだという方が、不完全性としての 個なる人間の本来の姿をより明確に表わしているのではないでしょうか。
 悲しいかな、個なる人間は不完全であり、強靱なる意志を持続させることは至難の業です。人間の魂は孤独に耐えきれなくなり、そんな時、意志力の緊張は弛緩するもの―、 そうした精神の隙間から、ふと周囲を見渡せば、自分が現在歩みを進めている道は、小さな小川と十字を切り、古綿を引き延ばしたような空の彼方へ吸い込まれるように、一路坦々と続いている。 小川のせせらぎも、小鳥の鳴き声も聞こえてこないし、野辺によく見かける草花も咲いていない。周囲一帯、ただ寂寞として、草が生い茂っているだけである。聞こえて来るものといえば、 奇妙に頭の中にのめり込んでくる私の足音だけ。
 ふと斜め前方を眺めれば、荒廃した丘の上に朽ちた墓地がポツンと一つ立っている。あれは一体何を凝視めているのだろうか? 全ての夢が崩れ去り、精神的には全く死人同様のこの私―。 とすれば、彼の墓地は、現在の私そのものではあるまいか。墓地の中にいる私。でも私は墓地の中にはいない。私は何かを求めている。自らの手で自らの命を絶ち切れないことがそれを証明しているではないか・・・。
 私は小石を拾って投げた。それは見事な放物線を描いて飛んでいった。噫、あるがままの美しさ! 即自存在は即自存在の世界の中でこそ、かくも美しくその姿を保持し得るものなのか。 しかし私は石ではない。石になりたいとも思わない。石であることの美しさは私の美しさではないのだ。それなのに何故に私は、石が空に描いた放物線の美しさに心を惹かれたのであろうか? それは、私の心の中に、 いつまでも谺となって残っている謎なのだ。
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★ 作詩への関心 ★

 僕はまだ少年時代から抜け出せないでいるようだ。「君は冬のオーバー持っているのか」と先生に訊かれて、「ええ、……、はい、持っています……」 それからしばらく二人の間で沈黙が続いた。僕は痩せ我慢の 片意地を身にまとっていた。僕は後で思った。顔を上げて微笑めばよかった、と。
 詩は、最後の「母ちゃんお寝小のお洗濯」という一行は気分を完全に壊していると批評された。そして、童謡なら童謡にあった詩形があるはず、やはりそれも考えねばならんと言われた。全くその通りだと思った。 もっと早くから活字の世界に親しんでいたら、おくてだった中学時代を思い起こして、内心悲しくなった。
 先生が僕の素材を使って、きれいに童謡詩に纏めてくれた。先生の作品と言うべきだ。
          坊やの父ちゃん、どこなの、ね?
          とうちゃん、会社でお仕事よ
          坊やの姉ちゃん、どこなの、ね?
          ねえちゃん、学校でおべんきょう。
          坊やはひとりで日向ぼこ
          お庭にコスモス咲いてます
          蜻蛉に、蝶々に、蜂ぶんぶん
          ときどき来ますよ、─青い空。
          坊やはひとりでさみしかない?
          ないない、仲善しおひい様
          立ったり座ったり影法師
          坊やはちっとも、さみしかない。
 やはりその道の達人、うまいと思った。僕も先生のような詩人になりたいと思った。先生は詩形や詩語をもっとたくさん知らなければと言っていた。本当に詩を作ることを願うなら、もっと勉強しなければいけないと思った。
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 目標の定まらぬ中で ★

 先生から「君は苦しみの中で遊んでいるような感じがする」と言われた。以前頂いた手紙の中に、自分をもっと大切にしなければならない、とあった。「苦しみの中で遊んでいる」とは、目標の欠如を意味する。 目標が定まっていないから苦しみの堂々巡りが遊んでいるように映るのだ。
 僕の心の中には打算的なものがある。第一、もう一度大学を受験するとはどういうことか? 肩書きが欲しいからではないのか。僕は何を決意したのか? 自分の生涯を人間探求に捧げようとしたのではなかったか。 大学受験とはその為の一手段ではないか。この点をハッキリしておかなければならない。僕は人間を研究しようと思っている。これを僕がしっかりと自覚しているかいないかが問題なのであって、自分が現在不安に取り憑かれるのは、 早く安定した生活方法を探したいと思っているからなのだ。僕は自分の生命を何に捧げようとしているのか、この点をはっきりさせておかなければならないのだ。
 自分の打算的な感情とそれに反撥する感情との無意味な争闘に疲れ果てるのみの毎日・・・。これではいけないと思う。自己に忠実に生きようではないか!
 僕は文学のことを考える。そしたら、すぐに作家或いは詩人を思い浮かべる。そして結論を下す、とても僕にはなれないや!と。そして袋小路で、過去の忌まわしい出来事を反芻しては泣き崩れてしまうのだ。
 先生から、君は苦しみの中で遊んでいるようだ、と言われるのも無理はない。こんなことではいけない。自己に忠実に生きようではないか! 根本的に重要なことは、白鳥の心なのだ。つまり人間として純粋に 生きようと意欲する事なのだ。どんな事があっても自分の美しさだけは守り通してみせる、そう覚悟できるかどうかなのだ。それさえ堅固ならば、何になるかは問題ではないのだ。
 僕には僕の守るべきものがあるのではないのか。大学を受験することが重要な問題なのではない。生きる事が、真に生きることが重要なのだ。文学が目的なのではない。生きる事が、真に生きることが問題なのだ。 如何に生きるかが問題なのだ。僕は何か重要な問題を忘れていたようだ。
 もし僕が、あくまでも自分を守り、自分をもうこれ以上汚すことなく純粋に生きてゆこうと決意し、その為の手段として文学を意識するならば、終生意識し続けて行くならば、再度受験して失敗したとしても問題では ないのではないか。たとえ僕がどんな職業に就いたとしても、自分さえしっかりしておりさえすれば、何ら問題とはならない。まず自己をよく知り、よき自己を発見すること。そして発見した自己を守り通すことだ。 そこに生きることの意義を見いだすべきではないのか。人間にとって如何に生きるかが一番大事なことなのだ。
 まだ僕の頭の中は混乱している。これからこうした問題をよく考えないといけない。
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 淋しさに堪えきれず・・・ ★

 誰もいない寂寞とした家の中で、外の雨の音にも疎外されたような気分で、一人ポツネンとしている淋しさに堪えきれず、僕は姉の家に電話しようとした。受話器を取る、が何を話すのかと思ってしまい、止めにした。 しかし心はそれでおさまらず、また受話器を取った。ダイヤルを回す。意識的に番号を一部変えて回していた。声が聞こえる。急に恥ずかしさが襲って来た。何も言わずに受話器を置いた。初めてのことだ。羞恥心が孤独感を 追っ払ったようだ。ほんの一時的なことであったが……。そんな今日の午後の僕。
 夕方両親が帰ってきた時、それほど嬉しくも、ほっとした気分にもなれなかったのだが……。熱燗を親父と酌み交わし、酔った自分を思い起こせば……。
 何故か急に言葉が出てきて、喋らずにはいられない自分を意識していた。子供が父親にやるように拗ねてみた。いや、拗ねたのではなかった。僕は何を求めていたのだろう。そういえば両親が帰ってきた時。僕は おふくろを両手で抱き上げたぞ…。どうしてそんなことをしたのか。おふくろの反応は覚えていない。恐らく記憶に残るほどの反応はなかったのだ。親父の膝を枕にして僕は言った。
「子供にこんなことされて、どんな気がする?」
「わるい気はしないよ……」
 と親父は言って、僕の髪の毛をいじくりまわしていた。はて? 僕は一体どんな気持ちだったのだろうか。
 何を今更。時既に遅し。時とは冷酷な悪魔…。自分の悲しみは自分の悲しみ。他人の悲しみは他人の悲しみ。人は何によって結ばれるのか? 悲しみなのか、それとも愛?……愛の奥底には何があるのか。限りない悲しみだろうか、 限りない憎しみだろうか。人を愛するとは?……自分を愛することなのか。自分を愛するとは?……他人を愛することだとすれば、自分と他人を結びつけるものは……何だろうか。
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 濡れ燕 ★

 市立図書館の窓の外は雨だった。僕は漱石の文学評論を読んでいた。受験生達のペンを走らせる音、小声で懸命に覚えようとしているらしい呟きが妙に耳に入ってくる。今日は殺気だった空気が部屋中に充満しているような気が強くした。
 帰りも雨は降り続いていた。姉の家に自転車を預けて僕は図書館通いをしている。「雨降っているよ、兄ちゃん、傘さして行きよ」と言う姪の声を振り払うように、僕は自転車を雨の中へ走らせて行った。何故だか解らない。衝動的なとっさの 判断だったのだ。駅前商店街の終わりの所で、二十歳前後の若い女性が、家の誰かが傘を持って迎えに来てくれるのを待っているのだろうか、一人佇んでいた。その横を通って、僕は再び雨の中へ突入して行った。何処へ…。何も考えてはいなかった。 それが僕には似つかわしかった。家に着くと、全身びしょ濡れ─。
          雨は降る降る路地裏までも 傘も持たずに濡れて行く
          雨は降る降る煙の小野に 遠くで山家の鐘が鳴る
          つばめ飛べ飛べ鈍空高く そこで泣いても雨となる
          雨は 降る降る遠くで明かり あれは暖炉の火の明かり
 家庭とは一体如何なるものだろうか。父とは、母とは、兄弟とは……。愛に飢えているかって? 飢えを既に通り過ぎているのでは…。この寒々と冷え上がり乾燥しきった心を見よ! <暖炉の火の明かり>も求めていないではないか! 無関心の無。 無、無、無の心。とらわれのない心、とは程遠いこの心。先生は苦しみの中で遊んでいると言った。僕は無の中で遊ぼう。
 人間の営みとは何か? 生きるとは? 知らない、知らない。風よ吹け! ニヒルな風よ。雷よ鳴り響け! 俺の頭に落ちてもよいぞ。荒々しくも力強い自然の力を見せてくれ!
 図書館から帰ってくると、先生から手紙が届いていた。童謡詩二編、同封されていた。「あの秘密の先生……」と母が妙なことを言った。「きっと何かたくらんでいる、二人で何かやろうとしている……」母は何を僕に言いたかったのだろうか。 意味深長だ。その言葉の奥に母のどのような気持ちが隠されているのだろうか……。
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 市井に生きる人 ★

 今日は、今迄になかった或る自分を感じた。それをまだ明確に捉えてはいないが、何か違ったものを感じた。生命の動きとでも言おうか、生きる力のようなものを感じた。
 市井の片隅で黙々と働いている人達の中にも、大学教授や社会の最前線で活躍している人にも負けないくらいの頭脳を持っている人がいるのだ。彼らは、自己の能力を全面的に 開花させるにはあまりに周囲の力が強すぎて、つい才能を伸ばせなかった人達なのだ。
 僕は何か肩の荷がおりたような気分に一瞬ひたった。僕はやはり英文学をやろう! その為に再度大学を受験しよう。来年失敗したら、再来年。駄目だったとしても、それはそれでいいではないか。
 誰が言っていたか、=人生は夢=、全くその通りだ。どんな夢でもいい、大きくても小さくても─。夢が壊れずに夢として常に在り、その夢の実現に向かっている時、人はなんと強くなれることか! 不安定で 孤独な心など何処を探しても見あたらない。いや、自己を疑いあれこれと詮索する気持ちなど全然起こらないのだから不思議! 人生とは夢、常にこうありたい!
 自己の文学を守る自信さえあれば、在野で、どんな仕事(喰う為の、ただそれだけの為の仕事)をしたってかまわないではないか。自分は人類に奉仕している、いや、するのだという自覚を常に持ち、 日々刻々その一瞬一瞬が自己を錬磨するのに過ぎていくのだという大いなる誇りを常に内に秘めておれる自信さえあれば、どうして未来を不安な心で眺める必要があろうか!
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 詩一篇・「無題」 ★

 最近には珍しく精神の充実した時期がありました。しかしそれも打ち上げ花火のようなものでしかなかったのです。翌日はまた、いつもの自分に戻ってしまいました。その時作ったのが次の詩です。
          何の想念(おもい)もなく対座する
          習慣(ならわし)はこぼれ落ち葉と
          風化するこの部屋に
          本棚は黙して語らない
          どうしたんだい?
          と声をかけようものなら
          寂しそうに振り返りもしないで
          一目散に駆け出して行きそう……
          ああ これがぼくの足跡なのか!
          じっと踏みしめた筈のこの両足は
          確かであったかと思われるこの両足は
          その裏に 大地との切々たる感触を秘め
          今ここに抛りやられている
          朝陽に向かい
          夕陽に向かい
          つっ走ろうじゃないか!
          誰かが言った
          そうだ、それが本当なのだ!
          … … … … …
          雲に心の羽ばたく不調和音に
          背後に伸びた長い影に
          不可逆性の痛みを感じた
          外界は眩暈(めくるめく)ギラメク日々は
          内部に潜み呻きを隠し
          書物と僕の失いし糸に
          祈りを籠める
          この緘黙(かんもく)の中
          習慣は今日よ明日よと
          風化するこの部屋に
          何の想念も泣く対座する
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 分裂した心 ★

 もう何もする気がしない。苦しい。考えれば考えるほど苦しくなる。考えているって? 本当に考えているのか。こんなの考えているとはとても言えない。いつも同じ所を堂々巡りしているだけではないか。
 生は重く、そして苦しい。死ぬより生きる方がむしろ苦しいのだ。実存の不安から逃れんが為、人は理性を麻痺させ恍惚的な気分の中で自己を忘れようとする。或いは自虐、自暴自棄、苛立ち腹立ち、反抗的に突っ走って行く。
 この僕は一体どうなんだ! 僕の心の内には抑圧された感情が累積している。溜め息ばかりついているではないか。自分をごまかしている。
 ─何をだ! 何をごまかしているのだろう……。
 とぼけるな! もっと真剣になれ!
 ─真剣に……真剣にだと! この世を真剣に生きろとでも言うのかい? 幻滅ばかりのこの世の中をかい、馬鹿を言っちゃいけない。
 何が馬鹿なんだ。君は内心恐れているのじゃないのかい。このままの状態でおれば、将来君はどうなるか知っている。それを君は恐れている。 だのに君はカーテンを頑なに閉じ外を見ようとしない。卑怯じゃないか!
 ─ああ、俺は卑怯な男だ。弱い男、女々しい奴だ。君なんかに俺の気持ちは解らない。なに、別に解って欲しいとも思わんがね。解ってもらったところでどうなる訳じゃあるまいし……。
 ああ、僕は 解らない。君の心は─。しかし明らかなことが一つある。それは、このままの状態におれば君は駄目になってしまうということだ!
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 夜 想 曲 ★

          今日の疲れを湯に流し
          一人住まいの我なれば
          風爽やかな星月夜
          窓を開いて覗いてる
          首輪哀れな子犬さえ
          夢まろやかに眠るころ
          夜の静寂(しじま)の彼方より
          誰が弾くのか夜想曲
          今日一日は空しくも
          明日ある我と思えども
          月さえ星さえ風さえも
          今よ今よと歌ってる
          稚(いわけな)きころ虹にみし
          望み儚し世の常に
          負けてならじと説く胸に
          哀調響く夜想曲
 先生に詩を見ていただいた。二三語句を書き直した後、先生は<今よ今よと歌ってる>を<今に今にと歌ってる>にすればどうかと言い、第二連の四行を次のように訂正した。<今日一日は空しくも/明日ある我と思う身に/月さえ星さえ風さえも/今に今にと歌ってる>
 今に今に・・・の方が前向きでいい。僕もそう思う。しかし僕は、やっと自分の自由なものとなったこの時を、何ものにもかえ難い貴重なこの瞬時を大切にしたいと思う気持ちを込めて<今よ今よ・・・>としましたと言った。先生は僕のこの気持ちをどのように受け 取ったかは解らない。が、あの頃のあの気持ちは先生に解って欲しいと強く思った。未来に大望を抱く若者の姿が浮かんでこなくてもいい。しんどかった一日が終わり、ほっと安堵しているその一瞬の幸福感が伝わればいい。
 高校を卒業し会社に勤めた頃、ほんの二三ヶ月ではあったが僕は姉の家に下宿していた。気楽な学生生活が終わり、社会人として会社勤めを始めた僕には時間に強く縛られているという感覚があった。朝、会社に向かう満員電車の窓から見たつつじの色の鮮やかだったこと! 美 しい花が咲く自然の中に入っていく自由が制限され、これからは社会的な時間拘束の中で生きていかなければならないという鬱屈した思いがあった。新しい生活環境、新しい人間関係。夜間の大学にも通っていたので時間に縛られる日々の連続であった。
 当時姉の家では子犬を飼っていた。僕が出かける時、尻尾を振りながら小屋から出てくる。散歩に連れて行ってくれと吠える。いつもつながれている子犬は自分の姿そのものでもあった。その後、その子犬は綱が解けたすきに何処かへ出かけて行き、車にひかれ、その幼い命を 絶ってしまったのだが・・・。
 姉の家では夜十時になると決まってある曲が聞こえてきた。先夜、聞き慣れたその曲が数キロ離れた僕の家まで聞こえてきたのだ。どこか悲しい調べである。ドヴォルザークの「新世界交響曲」の中に繰り返しでてくる旋律であることが判った。忘れていたその曲を再び聞いた時、 あの頃の自分が思い出されて、心が大きく動いた。
 「詩人肌の人にとって生きるということは、自分の純粋性を保ちつつ生きていけるかどうかという意味で、それは大変なことなんでしょうね。ジャーナリズムからちやほやされているような詩人は、もうそのこと自体で詩人という生命を殺されているようなもんでしょうね」と僕が言うと、 先生は「ああ、短い生命だ……」と言った。その時の先生の顔には何処か寂しそうな、悲しそうな表情があった。そしてやや自嘲的に「豪華な家に住み、生活に何の苦労もなく詩を書いている、そんな詩人も世の中にはいるんだから……」という言葉が続いた。思わず僕は息が詰まりそうになった。 先生が日頃よく言う<逆境は人物を創り、順境は怪物を創る>という言葉には、逆境に敢えて飛び込んで行かなかった、行けなかった若い頃の御自身に対する自嘲的な気持ちも含まれているのだ。老いを迎えた先生。未来に何のあてもない僕。こんな僕に先生は書物をくれる。英語をしっかり勉強 しなさいと、声には出さないけれども─。それなのにこの僕は!
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 師と弟子(一) ★

 昨日は小さな出来事があった。思い出そうとしても思い出せない位にかすんでしまっているようだ。文学への道については何故か気恥ずかしい思いが伴うので、忘れてしまいたいという気持ちの方が強いのであろうか……。
 Y君のことから話しは展開していった。彼は僕の後輩で、来春進学を志しているとのこと。そのことで先輩として何かアドバイスをしてやればと言われていたのだが、僕はまだ彼に手紙を書いていない。 そのことの弁解をしようとした瞬間、それは必然的に自分の現在の心境を述べなくてはならないことに連なることから、
「自分の態度さえはっきりしていないのに、彼に対して激しいことは言えません。……僕はまだ大学を受験する正当な理由を見いだせないでいるのですから……」
 という言葉が口から出た。
 先生は待ち構えてでもいたかのように、この機を捉えて矢のような言葉を突如浴びせてきた。僕の真意を探るかのように。僕は最初返答に詰まった。先生がどのような言葉をかけてきたのか、あまりよく覚えていない。僕は文学者として成功する条件について話し出したようだ。 しかしそれはすぐに取り消して、社会からの評価は問題でないこと、特に現在の僕にとって一番問題なのは、自分が文学の道を歩んで行くことについて、多少傲慢であってもいい、自惚れというか自尊心がなかったならば絶対やっていけないのだということを言った。その他読書量も多くないこと等についても─。
「それは解る。君の気持ちはよく解る」
 と先生がきっぱりと言ってくれた時は内心嬉しかった。
 文筆でもって飯を食い生きていく生活、そんなことは夢にも思ったことはなかった。親を見ても周りを見ても、そのような考えが浮かんでくるような環境にはいなかった。中学生の頃に漠然とではあるが唯一思い描いたことは、どこか会社の研究室で、複雑な人間関係に煩わされることもなく、黙々と製品開発に没頭 できればいいなというような夢だった。自分は内向的で社交的なタイプではないので理系向きだと、中学生の幼い心でそのように規定していたようだ。そんな自分が、今、幼い頃の自分と繋がりがないと思われる生き方を歩み出そうとしている、ここに不安の生じる原因の一つがあるのだ。
「僕は小さい頃からずっと、仲間はずれの拗ね者、異端者でした。こうなった以上、もう意地です。何とかくずれにはなりません。絶対になりません。最近、天王寺公園でプロの手配師に、兄ちゃんええ仕事あるでぇ、と声かけられました。その時、そう思ったのです」
 僕がこう述べた時、先生は一瞬、目を輝かせた かのように見えた。それから、先生はやや自嘲的に言った。
「ピエロじゃないが、伴侶なし、的なし、意地もなし、じゃいかんな……」
 意地という感情は生活苦から生まれてくる感情であると思う。金銭的な苦労を知らない先生は、生活苦に対する羨望の気持ちも込めて、やや自嘲的な匂いを漂わせた言葉を口にしたものと僕には思われた。
 今日、先生と話していて、僕は以前の自分でないことにある種の満足感を覚えていた。これならやって行けるぞ!という気持ちも湧き上がってきた。来月から一生懸命に頑張ってみる決意を述べると、先生は僕を大いに励まし力づけてくれた。嬉しかった。その後、二人は、互いの生い立ちを話し合った。とにかく先生と僕とは心情的に 非常によく似たところがあるように感じた。
 先生の文学者志望を結局踏みにじったのは、先生の虚弱体質と、この子は長生きしないという医者による死刑宣告にも匹敵する言い渡しと、職業観念の希薄さであったと言えるのだろうか。僕は大いに先生から飛び立たなければならない。大いに勉強して、自分を発見するのだ。僕はまだ大学にこだわっている。なら、再度、 積極的に飛び込んで行くことによって、矛盾を解決する道も発見出来るかもしれないのだ。
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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★ 師と弟子(二) ★

 二三日前から季節のラッパがさかんに鳴り響いている。冬は厳かで、何か乏しさを感じさせる季節だ。従って、満たされたいと願う気持ちも強烈なものとなる。冬は僕の季節、魂を洗い清めてくれる季節だ。
 勉強していても、ふと、将来のことを考えてしまう。僕が作家、物書き?……、やはり肌ざわりがよくない。ピンとこないのだ。そちらの方向に向かう心もあることはあるのだが、どうもそれは僕の心の芯からの欲求ではないようだ。先生には申し訳ないが、自分に自信のない道は歩めない。
 先生は僕に「前者の轍を踏む勿れ」と忠告してくれた。これは一体何を意味するのか。僕は当初、作家への志と解釈していた。先生のあの詩の中にもあるように、ひと條の悲願の路であって、それは先生の場合は作家を意味したが、僕もそうでなければならないという理由は何処にもないのだ。 職業作家なんてものにはなりたくてなる奴はいないのだ。書くしか他に生きる道がない者がなればよい。書くしか生きようがなかったという作家の中にしか優れた作家はいない、少なくとも作家の真実は見いだせないだろう。僕はこう思うのだ。
 先生の口吻から判断して、作家への第一歩は自ら逆境の中に飛び込んで行くことだと言っているように思う。勿論そうなのだ。苦悩を内に背負い込まない作家は作家ではない。その苦悩との闘いの中で、立派な優れた作品が生み出されるのだと思う。先生の言葉の裏には、先生の生まれに対する或る、何と云ってよいか、 罪悪感みたいなものが隠されていることは間違いのないことのように思う。そして先生にあっては、作家になることと、そういった罪から逃れることとは内部で一致しているのだ。従って語気がものすごく強くなるのだと思う。僕には僕の生きる途があると思う。先生と僕は非常によく似たところがあるのだが、しかし、外部からの力がかなり違うのだ。 この力はどうすることも出来ない。とするならば、当然途も違ってこなければならないのである。先生も僕も愛を求めるという点では同じなのだが、そうだからと云って同じ道を辿るとは限らないのだ。
 先生は僕の思考に多少打算的なものを垣間見ているようだ。僕はそれを知られるのが非常に恥ずかしかった。厭でならなかった。しかし、人が何と言おうと、僕はこれから自分一人の力で生計を営んでいかなければならない。それを否定すれば、僕はどうなるのだ。先生は恐らく、どうもならない、不安定な生活であろうと生き抜いて行こうと する逞しい心、その情熱が大事なのだ、逆境は人物を創るのだと言うだろう。その言葉は、僕の或る時期においてはバイブル的な役割を持った言葉であった。しかし今は違う。だからといって僕はその言葉を否定はしない。一面の真理が、大切な真理が含まれていることは十分解っているつもりだ。僕が将来何になるにしても、もっともっと準備しなければ ならないのだ。その準備の期間中の生計のことについて考えて悪いことはないと思うのだ。勿論この言葉の裏には、家庭の団欒を求める心が強く脈打っていることも事実だ。
 僕は自由意志は認めない。完全に自由なる意志は現実には絶対存在しない。こんなことは解り切ったことであるが、はっきりさせるために書き留めておこう。個人の存在する状況は外部から(個人の意思とは無関係に)与えられている。これは生存の初源的な矛盾の一つだ。その外部から与えられた状況に立ち向かう時にのみ、個人の自由なる 意志の働きがあるのだ。外部の状況が僕に迫ってくる。その時、それとどうしても取っ組まなければならない課題であるならば、その事からどうしても逃れられない自分であるならば、僕という人間がそのような人間であるならば、僕は僕の自由なる意志を働かせてそれと取り組むであろうし、その時、その闘いが文学作品として結実する結果になるかもしれない。
 しかし僕の心は今、非常に小さくなっている。プチブル的なのだ。僕はそれを敢えて否定しない。それをただ意識するだけである。来春受験に失敗した時のことを考えることがよくある。しかしそんなふうに考えないほうがよいと今思った。何故ならば、現在散乱した自分の意識を集中して、ひたすらくだらない受験勉強に取り組もうとしているのは、 自分の過去を一時的にも切り離したい、そうすることによって新しい自分の姿を発見したいと願うからである。
                ♪※♪   ♪※♪   ♪※♪

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