梵緑の樹の下で

1999年


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 高校生の頃の日記を読み返し、それを昨年の暮れ頃からホームページ上に公開しているが、それがわたしにとってどのような意味があるのかだろうか・・・。過去の自分の意識をいくらほじくり返しても、そこからは今を生きる、先を展望できる手っ取り早い解答はみつかことはまずあるまいに・・・。

 要は現在の自分の意識を厳しく凝視するしかないのだ。
 ・・・「青春日記」は、わたしのホームページを熱心に訪ねて下さる読者がいることを想定して、その人達に「二十歳の頃」へと繋がるわたしの心の旅路の有様を提供するものと位置付ければそれで十分だろうと考えることにした。



 <自己の意識を厳しく凝視する>と言葉では簡単に書くことが出来る。しかし、それを実際に行うことのいかに難しいことか。

 若い頃のわたしは今在ることや未来に対する不安感や苛立ちに促されて自分を凝視し、その心の状態を書き記すことによって不安感を和らげ、なんとか先へ生きて行こうとしていたように思う。最近のわたしはどうだろうか・・・。

 近頃、急に虚しさや不安感に襲われることがある。それは職場の単調な仕事に身を置いているときに突如やってくる。しかし長続きしない。帰宅したときにはそれは何処かへ去ってしまっている。或いは、わたしがそれと対峙することを意識的に避け、テレビにスイッチを入れ日常性の中へ逃げ込んでいるからなの かも知れない。

 わたしの心を感動で震撼させてくれるようなこと・・・そのようなことを本当は書きたいのだが。

 一つ言えることがある。現在の世の中にはわたしたちの心を驚愕させたり悲しませたり、この国のシステムに対して憤りを抱かせることがたくさん起こっているではないか! わたしの心はそれに あまり反応しない。

 わたしの心のセンサーは劣化しつつあるのだろうか。
 このような問いを自分に向けてみると、苛立ちがじわりと湧き起こり、薄気味の悪い不安感がやってきそうな気がしてくる。そして、その気配が消え去ると、あとに悲しみの波が漂い始める。長く続くことはないのだが・・・。 [1999.2.1]

 寂寥を感じる年齢? 

 五十代は悲しみと供にやってきた。ふと、こんな言葉が浮かんだ。違和感はない。そこで、悲しみを寂しさに置き換えればどうだろうか。五十代は寂しさと供にやってきた。わたしならこのような表現はしない。いや、したくないのだ。

 「独身はね、君、今はいいかも知れないが、歳を取ると淋しくなるよ」
 と 六十歳を少し過ぎた人がわたしに忠告してくれた。五十歳以降を言っていたのだと思う。五、六年前のことだ。

 確かに五十歳位になると、息子や娘は自立し親から離れていく。残された者の淋しさや寂寥感は程度の差こそあれ等しく親の心に襲いかかるものなのだろう。親としての務めが終わったという安堵感の後に、これから後の人生をどのように生きて行く べきかという問題に直面する。その時、長年連れ添ってきた伴侶の存在が重要な意味を持ってくるのかも知れない。わたしはその人の忠告をこのように理解した。

 しかしその時、わたしは心の中で自分に言い聞かせていた。孤独感や寂寥感なら既に十分経験済みだ、それに耐えて生きてきた、なあに、大丈夫だ―と。

 これはやや傲慢な言い方かも知れない。しかしわたしとしては傲慢でもかまわない、そのように言いたいのである。この部分ではまだ突っ張っていたいのである。

 よし、解った。それでは一体何が悲しいのか。

 生きているという実感がないままに生きていること・・・・・・。

 キリスト教の教義では自殺は禁じられている。 わたしはクリスチャンではないが、その教えは受け入れることが出来る。この世に生を受け、存在している限り何らかの存在価値があるのだと思う。自分が気付いていないだけなのだと思う。

 自己の存在意義を自覚するには、それなりの心の持ち方があるのかも知れない。[1999.2.9]


 ギャンブル 

 パチスロに行かなくなって八ヶ月が経つ。行きたいというあのムラムラッとする心の昂ぶりが起こらないのだ。不思議なくらい・・・。

 当時のわたしがギャンブルをしているときの心理を思い返してみよう・・・。

 まずは大勝ちを した場合・・・こんな事は滅多にないが、長いギャンブル生活の中では誰にでも何回かはあるだろう。買いたいと思っていた物を気前よく買ったり誰かにプレゼントしたり、旨い物を喰ったりして幸福感に浸ることが出来るだろう。そう出来る人は本当に幸せで、わたしなど人間がいじましくできているせいか、旨い物を喰って束の間の幸福感を味わいはするが、まだ まだ負けは取り返していない等とつい思ってしまうのである。

 ついてない日は一時間も二時間もいいことが無く過ぎて行ってしまう。こんな日は悲惨だ。すぐに止めて映画でも観に行けばいいようなものだが、そんな気には絶対ならない。もう頭はカッカしてしまっていて、取り返してやる!と必死になってしまう。持ち金が無くなってしまうまでやってしまう。それで 諦めがつけばいい方で、どうしても気が治まらず再度出かけて行くこともたまにある。そういう日はついてないのだから、止せばいいのに・・・あーあ。

 しかし、朝負けた分を昼からの頑張りで取り戻すこともある。長い辛抱の末、つきが戻ってきて大当たりが連続して行くときの快感!・・・まるで麻薬のようだ。この時の快感が忘れられず、人はギャンブル の呪縛から逃れられないのだろうか・・・。負けが先行すると遊ぶという心の余裕は消え失せ、仕事をしているような真剣さだ。少しでも勝ちで終われば納得はするが、それが少しでも負けということになれば、疲労感の他に言い様のない虚しさがどっと襲いかかる。こんな事をしていていいのか!・・・等と悔恨や自責の念で心は暗い。

 ついている日は最初から調子がいい。 そのようなときでも、もっと勝てる、まだいける等と欲望は益々募り、最後に痛い目にあうこともあるのである。[1999.2.17]



 ラッセルの『幸福論』に確か、"Happiness consists in contentment ...etc." という言葉があったように記憶している。「幸せとは 'contentment' の中に存する」 <満足>という意味だが、<満ち足りている>とはどのような心の状態だろうか。

 パチスロに行かなくなった代わりに、休みの日には自転車で二十分位のところにある武庫川堤へ行くことが最近多くなった。


 『赤ゲット英国一人旅』の英訳が完了し、シェイクスピアに関する残り三つの文の英訳に取りかかっている。到達点がすぐ向こうに見えかけている所まで来た現在、漠然とはしているが空虚な思いを感じ始めている。訳が完了したところで一体何だというのだという思いなのだ。
 もっと将来につながる、本当に充実して生きることに通じる仕事がしたい。この与えられた生命を空しく浪費させたくない、もっと生き生きと燃焼させてみたいのだ。[1999.5.15]



 ここ二三ヶ月の習慣では、翻訳に取りかかる時間だ。しかし今日はその翻訳を終えて初めて迎える休みの朝。
 三月の初め、イギリスのグラハムさんからメールを頂き、彼とのメールのやりとりの中で約束した英訳がやっと完成し、ホッとした(と言っていいのだろうと思う)気分で、ベートーヴェンを聴いている。さて、コーヒでも入れようか・・・。

 翻訳作業を自分に課して取り組んでいた日々を思い返してみると、自分を拘束している辛さも少しはあったが、充実した思いの方が強かった。また、これが終わった後の自分はどうなるのか、虚しい思いがまた還ってくるのだろうかという不安な思いもチラホラしていたようだ。

 しかし、現在のわたしの日常には確固とした基盤のようなものが出来上がっているのだろうか、虚しさはない。少なくとも今、この時、その感覚はない。この状態は生き物の基本状態なのかも知れない。生き甲斐云々等ということは近代意識のいい面でもあり悪い面でもあるのかも知れない。生き甲斐が有る無いを意識することなく、虚しさの感覚が入り込む余地のない状態、生物の基本状態、この状態が一番いい状態なのだろうと、先ほどふとそう思った。[1999.6.2]



 ピラミッドへの興味と関心 

 『神々の指紋』グラハム・ハンコック著(小学館文庫)と『大ピラミッド』吉村作治著(講談社+α文庫)を読んで、エジプトへの関心を大いに刺激された。

 南極大陸が発見されたのは十九世紀。それなのに、二世紀から十六世紀に編纂された世界地図の多くに南極大陸が描かれていたという事実! これは『神々の指紋』を読んで初めて知った。
 紀元前1万5000年頃に地殻が滑り大変動が起こった という地殻移動説に依ると、南極大陸はそれまで南極圏の外側に位置していたが(その気候と資源は文明が発達するのに必要な条件を備えており人が居住していた可能性が十分ある)、大変動が起こり現在の南極圏の真っただ中に移動したのだという。
 著者グラハム・ハンコックは南極大陸に注目しているようだ。彼は有史以前に現在の高度な科学技術をもってしても解らない技術を持ち、高度な文明を発達させた人類がいたと仮定している。  
もし地殻移動説が正しければ、世界中に残されているのは、わずかな神々の指紋だけだとしても不思議ではない。これらは、南極大陸にあった文明の少数の生き残りの人々が行った仕事の痕跡であり、その誤解されてしまった教えや、幾何学的な建造物なのだろう。彼らは大きな舟に乗って荒海を越え、遠い土地に住みついた。それはたとえば、ナイル低地(おそらく最初は、青ナイル河の水源であるタナ湖の辺り)やメキシコの渓谷、アンデスの チチカカ湖の近くであり、そして疑う余地なく他のいくつかの場所にもたどり着いたに違いない。[P.346(下)]
 エジプトのギザの台地に立ち並ぶ三大ピラミッドもスフィンクスもその超古代文明人が建造したと彼は主張しているようだ。三大ピラミッドの中で一番大きいピラミッドを建てたのはクフ王であるという根拠は、イギリスの軍人ハワード・ヴァイス大佐が1837年に発見した落書きである。これは「王の間」の上にある「重量軽減の間」の壁の石材に クフ王のカルトゥーシュ(長円形の枠の中に記された王名)等が古代エジプト文字であるヒエログリフで書かれていた。
 グラハム氏はそれに関して次のように述べている。
「莫大な費用を使った実りのない発掘も終わろうとしていたその頃、それまでに使い果たしてきた費用を正当化する必要があった。そのためには考古学的な大発見が必要だった。そんなとき、偶然、バイスは10年に一つの大発見をした。- - - 中略 - - - だが疑問は残った。なぜなら、最初からバイスの見つけた証拠は怪しげ だったからだ。・・・ バイスが証拠を捏造したという話がある。最終的にバイスが石工マークを偽造したという証拠をあげるのは難しいかもしれないが、それにしても、エジプト学者たちが、石工マークに疑問も持たずにその信憑性を認めたのはうかつだった[P.52〜54(下)]
 これに対しては、吉村氏は次のように反論している。
 まず、シャンポリオンによってヒエログリフが解読されたのは1822年であり、ヴァイス大佐が 「重量軽減の間」に入ったのは1837年で、その間に15年ほどしか経過していない。ヒエログリフの教本さえまだ出版されておらず、読めるのはほんの数人の学者に限られていた。当然ヴァイス大佐も、当初は何が書かれているのかさっぱりわからず、その写しを大英博物館のサムエル・バーチに送って解読を依頼し、ようやくカルトゥーシュがクフ王のものだということが判明したのである。ヒエログリフを読むことすらできなかったヴァイス大佐に、即席でクフ王の カルトゥーシュを書きなぐるという離れ業ができるわけがないではないか。
 これらの落書きは、きちんとした向きで書かれているわけではない。天井に書かれていたり、壁に斜めに書かれていたり、さかさまに書かれていたりする。中の一つのカルトゥーシュなどは、部屋の隅の二つの石材が接合している部分に書かれ、カルトゥーシュの一部が接合面にもぐってしまっているのだ。その接合面を削って、奥をのぞいてみたところ、そこにちゃんと残りのカルトゥーシュ の部分が書かれていたそうである。
 このような落書きを、あとから入った者が書けるはずがない。
 書けるとしたら、建築前か建築途中しかありえないのである。
                               [P.47〜48]
 石工の落書きに関しては、吉村氏の方が遙かに説得力があるように思う。
 しかし、19世紀のフランス人考古学者オーギュスト・マリエットがギザで発見した「インベントリー石碑」には、スフィンクスも大ピラミッドもクフ王が王位につく遙か昔から存在していた ということがはっきりと書かれているとの事。しかし多くのエジプト学者は、この石碑はクフ王の統治から1500年も後に造られたものであり、従って石碑に記された内容は単なる歴史的空想に過ぎないとして無視しているらしい。「象形文字の書かれ方という証拠だけで、学界全体が<インベントリー石碑>の示唆する衝撃的内容を無視している。この石碑が第四王朝に書かれた碑文を原典としている可能性があることすら、まったく考慮していない。」とハンコック氏は 憤っている。この点に関しても吉村氏のような明快な反論を聞きたいものだ。
 グラハム・ハンコック氏の仮説にはロマンがあり、大いに知的好奇心をかき立てられたのだから・・・。 [1999.6.26]


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