"KING LEAR" レジメ
* Shakespeareの創意 *
- 傍筋としてグロスター親子の話
- 道化を登場させていること
- Happy な結末で終わらせていない
* 問題点 *
1)道化の視点(handy-dandy)==リア自身を相対化(客体化)する視点(野島秀勝)
2)荒野におけるリアの意識の推移
女性呪詛→<foul nature>の認識→忍耐→王であった者としての反省、
wretchesとの共感
→現実認識(権力、秩序、見かけと内実)
3)ハムレットの狂気との比較
リアの狂気とFool、エドガーの偽狂
4)受難:リア→狂気(嵐の場面)→現実認識(道化のリアへの働きかけ)
グロスター→気は狂わない→人生(運命)に対する呪詛→ripeness
(息子エドガーの働きかけ)
5)二つの自然、善悪の問題と劇の結末→Shakespeareの時代認識
6)etc…
* プロットの重層的構造 *
[リア親子]
王国分割(T-1)末娘コーディリアを追放→娘ゴネリル、リーガンの忘恩(T-3,4,5.U-4)
→荒野(V-2)"foul nature"の認識から忍耐へ→狂気・自己反省(V-4,6)…Fool退場…
→現実認識(W-6)→末娘と再会(W-7)→リア軍の敗退(X-2)→末娘絞殺される(X-3)
→リア絶命 ★道化の役割=リア教育或いは即現実的視点★
[グロスター親子]
自然観の対立(新、旧世代の問題を含む)(T-2)
庶子エドマンドの奸計(T-2.V-3,5)→グロスターの受難(V-7)→嫡子と再会(W-1)
嫡子エドガー追放される(U-1)→偽狂(U-3)→荒野(V-4)→父親と再会(W-1)
→<死のパントマイム>(W-6)→<成熟>ということ(X-2)→グロスター絶命
→エドガー軍の勝利(?)(X-3) <sad time>の認識
(注)
- 野島秀勝著「近代文学の虚実」とヤン・コット著「シェイクスピアはわれらの同時代人」を参考して纏めました。
- 自然観の対立に関しては、エドマンドの科白と「ヴェニスの商人」のポーシャの科白を比較してみると面白いと思います。
- ヤン・コットのこの劇を不条理演劇とみる見方「中世的であれルネッサンス的であれ、既成の価値体系が崩壊しているのだ、云々」は、迫力はあるけれども一面的ではないだろうか。
Ripeness(成熟)について
☆"ripeness"を中心に「リア王」の世界を考えてみた場合☆
That light we see is burning in my hall:
How far that little candle throws his beams!
So shines a good deed in a naughty world.
["The Merchant Of Venice" 5.1 L89〜]
The weight of this sad time we must obey;
Speak what we feel, not what we ought to say.
The oldest hath borne most: we that are young
Shall never see so much, nor live so long.
["King Lear" 5.3 L323〜]
上は、ヴェニスの法廷からベルモントへ帰って来た時の、劇の大団円を象徴するポーシャの科白
であり、下はエドガーの科白であるが・・・、コーディリアは扼殺され、その死を悼みつつリアも絶命、
オールバニ公がケントとエドガーに領土統治を依頼するが、ケントは死出の旅に出て行く決意を述べ、
エドガーもそれには応えず(not what we ought to say)この悲しい時代の重みに従わなければならない
・・・云々と言うのみである。そしてこのエドガーの科白で「リア王」の幕は閉じる。
明らかに、「ヴェニスの商人」の劇の世界にあった<光>は「リア王」の劇の世界ではなくなっ
ている。「マクベス」の劇の世界と同様、「人生の束の間のともしび」は消え、人生の無意味性が劇の
色調を支配している。
ホリンシェッドの年代記では、コーディリアはリアを救い、以後リアが亡くなるまで2年間、
リアは国を再び統治したということになっている。が、シェイクスピアは善の典型と見られるコーディリ
アを殺し、リアの気を狂わせた後に絶命させている。シェイクスピアの手になる「リア王」は徹底して悲劇
であり、劇の結末に於いて秩序の回復を殆ど感じさせない悲劇である。エドマンドが呼びかける<自然>は
最後には壊滅してしまうが、リアが呼びかける<自然>の秩序も決して回復していない。二人の娘に裏切ら
れ、怒っている間はまだその自然の価値体系の中にいたが、嵐の場面で、リアは彼の信じていた<自然>か
ら外に出てしまい。その時、エドマンドが呼びかける<自然>の実体を認識する。しかしそれ以後リアは正
気を失って行くのである。
エドガーが言う「悲しい時代」とは、闇夜のようによこしまな世の中でも、良き行いは良き行いとし
て、遠くまで差し込む燭火のようには決して輝くことのない時代のことであり、「大海の怪物と同じように、
人間同士食い合いをする(4.2)」恐ろしい時代のことなのだ。そうした時代の重みに私達は従わなければなら
ない、とは一体どういうことなのか。その時、シェイクスピアの眼には何が見えていたのか。ポーシャが見
た光は輝かず、重苦しい闇の中を生きてゆくということに、一体何の意味があるのか。シェイクスピアは
「リア王」で何を表現したかったのだろうか。「リア王」の主題は何なのか。
ヤン・コットは「リア王」の中にグロテスク性を見ている。彼の言うところによれば、悲劇の主人公
も、グロテスク劇の主人公も。<絶対>に戦いを挑んで敗れ去るのであるが、悲劇の場合、<絶対>は崩壊
しないから、悲劇は人間の運命についての考察となり、<絶対>についての判断の表現となり、カタルシス
をもって終わる。一方グロテスク劇の場合、<絶対>は崩れ去り、主人公は自らの破滅を代償に、<絶対>
の価値を下落させると同時に自らも愚弄され、結末は何の慰めも与えない、ということになる。
シェイクスピアのこの戯曲には、キリスト教的な天国もなければ、
ルネッサンスのヒューマニストたちが存在するといい、また信じ
ていた天国も、やはりない。「リア王」は、あらゆる終末論を残
酷に嘲笑する。地上に実現すると約束された天国も、死後に約束
された天国も─言い換えれば、キリスト教的・世俗的両方の神議
論が、愚弄されている。さらには、宇宙開闢論も理性的歴史観も、
神々も、善なる自然も、神の姿に似せて造られた者としての人間
も、─すべてが愚弄されているのである。「リア王」においては、
中世的であれ、ルネッサンス的であれ既成の価値体系が崩壊して
いるのだ。この途方もなく大がかりなパントマイムの最後に残っ
ているのは、ただ地球だけ─血を流している空虚な地球だけであ
る。嵐が通りすぎて石ころだけを残して行ったこの地球の上で、
王と道化と盲人と狂人が辻褄の合わぬ対話を続けるのである。
=ヤン・コット「シェイクスピアはわれらの同時代人」峰谷昭雄・貴志哲雄訳=
両眼をえぐり取られたグロスターは、不運を強いた神々に、「いたずら小僧が蜻蛉のしっぽをちぎっ
て遊ぶように、我々をおもしろ半分に殺すのだ(4.1)」と呪詛の念をぶちまけている。ヤン・コットの言う
ように既成の価値体系が崩壊しているならば、グロスターの自殺は、彼を翻弄する神々に対する抗議の意味
はなくなり、単なる<肉体的死>を意味するだけとなる。事実、彼は死ぬことが出来なかった。彼は人生の
受難苦から逃れる為に自殺しようとしたのだが、息子のエドガーはそうさせなかったのだから、状況はます
ますグロテスク性を帯びてくる、という訳だ。グロスターに自殺の真似事をさせ、凝っとそれを見ているエ
ドガーも残酷な男ということになる。又、グロスター親子の話を「リア王」の物語の中に組み込んだのはシ
ェイクスピアの創意によるのだから、シェイクスピアも、シラケ切った時代のニヒリスティクな座付作者と
いうことになってくる。
だが、果たしてそうなのか。確かに「リア王」の中には、ヤン・コットの指摘するような不条理性が
含まれているとしても、そういう世界を描き出したシェイクスピアは、強靱な精神を持った何かであること
は間違いのないことのように思われる。そしてこの何かであることが、シェイクスピアの戯曲に、常に古典
としての生命を脈動させているものなのではないだろうか。
「成熟がすべてです」このシェイクスピア的な、翻訳不能の、《成熟》
(ripeness) という言葉は、文字通り成熟することであると同時に、あ
きらめて身をゆだねることをも意味する。人は成長して死に達しな
ければならないのだ。それがすべてなのだ。
=ヤン・コット「シェイクスピアはわれらの同時代人」=
成程、人は成長して死に達しなければならない。これは「お気に召すまま」のタッチストンの認識、
"All is mortal in nature (2.4)" に相通じるところである。しかし、それがすべてなのか。それはあたり
まえのことではないのか。又、<ripeness>の中に、あきらめて身をゆだねるという意味が含まれているの
だろうか。
エドガーが<ripeness>という言葉を使うのは、リア軍が敗退し、リアとコーディリアが捕らえられ
た状況の中で、グロスターはもう生きて行くことを放棄しようとする、その時である。
Glou. No further, sir; a man may rot even here.
Edg. What! in ill thoughts again ? Men must endure
Their going hence, even as their coming hither:
Ripeness is all. Come on. (5.2)
エドガーの科白を素直に受け取るならば、<ripeness>の中にあきらめて身をゆだねるという意味は
全く含まれていない。エドガーにとって、あきらめて身をゆだねて死ぬこと(a man may rot even here)は、
悪い考え(ill thoughts)なのである。
人間はこの世に生まれてくるのと同様、死ぬことも、どうすることも出来ない。子孫を生み出すこと
は出来るが、自分がこの世に出てくることはどうすることもできないのだ。何故なら、そんなことを考えた
時には既にもうこの世の中に生きているのだから。同様に、死ぬこともどうすることも出来ない。死んでし
まえば自分は無くなるのだから、自分の死を確認することは出来ないからだ。だからエドガーは言うのであ
る、「人間は、この世に生まれてくるのと同じように、この世から出て行くことにも耐えなければならな
い」─と。
エドガー自身、「地上に実現すると約束された天国も、死後に約束された天国も」信じているとは思
えないが、しかし彼は何も愚弄していない。エドガーが、グロスターに、自殺の真似事をさせたのも、グロ
スターを愚弄する為では決してなく、彼自身言っているように、「あなたの絶望をこのようにもてあそぶの
も、絶望から立ち直って貰いたい為(4.6)」なのである。シェイクスピアは<死のパントマイム>のプロット
を組むことにより、グロスターに「これからは苦悩が、充分だ、充分だ、と根を上げ、消滅するまで耐え抜
いてやる(4.6)」と言わせている。嵐の場面でリアに「あらゆる忍耐の手本となろう(3.2)」と言わせたように。
人間の<生>と<死>を意味付ける何らかの価値体系が崩壊してしまえば、人間は<生>と<死>の
問題に裸形で立たされることになる。その時エドガーは人間の<生>と<死>は人間の力ではどうすること
も出来ないことを悟ったのである。だからそれは耐えなければならない問題なのである。しかし、<生>か
ら<死>までの時間の問題は人間に属する。エドガーにとって、<生>とか<死>とか<神>や<自然>と
いう問題よりも、むしろ<生>から<死>までの人間に属する時間を生きて行くという現世的なことがすべ
ての問題なのである。<ripeness>とは、人間の生を意味付ける何かが壊れたとしても、あきらめて身をゆ
だねるのではなく、虚無の深淵で強く腕を振るうように、耐えて生きて行かなければならない。それがすべ
てなのだ。そこから、現世のすべての問題は始まるのである。
しかしこのエドガーの科白は、二人の老人の受難後の生きざまを抜きにしては、何の意味も重みも持
たないことは言うまでもない。グロスターは両眼をえぐり取られて、初めて心の目が開いた。それなのに死
んでしまったのでは、それこそグロテスクではないか。彼はどうしても生き続けなければならないのだ。ど
んなに苦しくとも─。彼は気が狂うことを切望する。彼自身の悲しみや苦しみから逃れられるからだ。しか
し彼の気は狂わない。それに反して、リアは、嵐の場面で、「忍耐の手本」となることを意志して以来、気
が変になって行くのだ。何故なら、グロスターの受難は肉体を通してやってきたのに反し、リアの場合、娘
の裏切りが彼の自然観の崩壊へと導いたからである。
道化は、中身が既になくなっているのに、卵の殻のような王という幻影をなおも抱いているリアから、
実体の伴わない観念を剥離しようとする。道化の言うことは手厳しい。例えば、
Fool. ‥‥‥Can you make no use of nothing, Nuncle ?
Lear. Why, no, boy, nothing can be made out of notting.
Fool. [ To Kent ] Prithee, tell him, so much the rent of
his land comes to: he will not believe a Fool.
Lear. A bitter Fool! (1.4)
道化は、手放した土地からは一銭も地代は入ってこないよと、リアの現実的な立場を自覚させようとしてい
るのだが、それがリアに苦く響くのは、王国分割の娘達への愛情テストで、応えないコーディリアに対して、
" Nothing will come of nothing.(1.1) "と言ったリアの言葉に引っかけて道化が言ったからなのだ。
「お気に召すまま」の道化タッチストンは、「乾涸らびた現実の奇妙な話題を一杯持って」いて、牧
歌的恋愛の試金石という役割を担っていたが、「リア王」の道化は、観念としてのリアを、人間としてのリ
アに導き、生のままの現実(つまり、エドマンド、ゴネリル、リーガン等の信じる自然)へ直面させていく
という機能を持っている。
雨がわしをびしょびしょに濡らし、風がわしの歯をガタガタと震わせ、
雷がわしの言うことを聞かなかった時、わしはやつらの正体を見抜い
た、やつらの正体を嗅ぎ出した。わしも瘧にかかるのだ。 (4.6)
嵐の場面以前のリアは、王位という幻影に縛られている観念的なリアであるが、ここには、人間化し
たリアの姿があることは間違いない。
これこそ正に、シェイクスピアの時代と現代との両方にまたがる、あ
の残酷で意地の悪い《玉ねぎの皮むき》という行為なのである。玉ね
ぎは最後の一枚まで皮をむかれ、苦しんでいる取るに足りぬ人間と
いう芯に達する。もちろん芯が現れるということは玉ねぎがもうないと
うことだ。これが下落の主題である。人間の概念が縮小され、あらゆ
る状況が煎じつめられて、遂に独自にして究極の、全体的にして
集約された人間の運命に達したのである。
=ヤン・コット「シェイクスピアはわれらの同時代人」=
勿論、一個の無力な人間に達した時、リアは、老人が子供帰りをするように「娘達を母親代わりに見
立てて(1.4)」王国を愛情テストで分割するという、およそ一国の王に相応しからぬ愚行を犯し、知恵の使い方
を忘れたリア王ではなくなっている。リアは王という社会の上限から、乞食という社会の下限まで転落した。
しかし、そういうリアの姿を観て、人間の概念が縮小されるように感じるだろうか。
社会には、権力があり、権威が幅をきかせ、それに基づいて秩序が形成される。権威を笠に吠えれば
犬でさえ人間を従わせることが出来るのだ " A dog's obbeyed in office.(4.6)"。リアは下落し、狂気を通
してこうした認識に到達した。現実の多様性、多層性を見る、所謂複眼的視点を獲得した。あらゆる見かけ
を剥ぎ取られ、苦しむ一個の無力な人間となって、初めて、社会の重圧に打ちひしがれている人々が感じる
ことを自らも感じるようになった。
たとえそのためにリアは狂わなければならなかったとしても、またこ
の狂気による認識が世界の不条理性、ひいては虚無の認識であった
にしても、これは彼の世界現実認識の拡大深化というべきものでは
ないか。人のいうリアの「成熟」とはそれを措いて他にない筈です。
─中略─
「リア王」というこの悲劇にカタルシスがあるとすれば、まさにそこに
しかないでしょう。「成熟がすべてだ」という一句がもつ悲劇的重量感
が観客に肉迫してくる場所もそこにしかないでしょう。
=野島秀勝「近代文学の虚実」=
「ゴドーを待ちながら」の作者は、虚無に中で、生きても死んでもいない人間を戯れさせて、かろう
じて時代に耐えているのかも知れないが、シェイクスピアは「リア王」の中に、耐えるという人間の運命を
描き出した。どちらが魅力があるかは明らかである。
Lear. I wii be the pattern of all patience.
Gloucester. I'll bear affliction till it do cry itself "enough,
enough",and die.
Edgar. Men must endure their going hence, even as their
coming hither: Ripeness is all.
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