"As You Like It" 雑感


   喜劇を考えることは、悲劇のそれよりもある意味では困難なように思われる。何故なら、悲劇の主人 公は、例えばリア王のように、自己の精神の傲慢性が現実によって崩されてゆくとき、彼の思い込んでいた ことと現実との裂け目で、精神の錯乱の悲劇性を誇大し、破局における悲壮美を出すだけでも充分悲劇たり うるが、喜劇はあくまでも死に収束するのではなく、誰もが生きてゆくという前提の中で、人生の様々な場 面を、そして人間の様々な面を笑いに包みながら、情感の軽快なリズムにのせ、大団円に持ってゆかなけれ ばならないからだと思われる。また喜劇は、人生全体に広がるような印象を与えるのに対して、悲劇は人生 の限定された部分が鮮明に照らし出されるという感じを与える。だから悲劇は、喜劇のある一部分を、観念 性によって突き詰めて行った場合に成立しうると言えるかも知れない。しかし、喜劇はそうでない。
   シェイクスピア喜劇の傑作と評される「お気に召すまま」には、人生の暗い面と明るい面、真剣な面 と戯れている面などが交互に示され、諷刺、皮肉等がそれらに加わり、人間の美しさや醜さ、愚かさや滑稽 さ等、正に喜劇と呼ぶにふさわしい観を呈している。
   この劇の特徴は、よく指摘されるように、作用反作用的効果をねらって、複眼的視点によって書かれ ているということだ。まず、醜悪な権力争いや兄による弟への迫害などに対して、窮境に追い詰められた者 達の間で交わされる友情や仄かな恋愛感情、また、封建的身分を忘れさせる美しい人間連帯などが対立した 形で提示され、ロビンフッド的な森としてアーデンの森が想起される。しかしそのアーデの森も、「色あく どい栄華が渦巻いている邪悪な宮廷(2.1)」に比べたときにおいてのみ夢幻境であり、自然の烈しさに耐え なければならないのだという形で、森を夢想する精神性が森の現実性によって相対化される中で、老公爵の 逆境に耐える骨太い精神とともに、二幕五場の歌のような牧歌的な世界が示し出される。しかしそうした牧 歌世界も、ジェイクイズやタッチストン等によって更に相対化され……というふうに。
   「お気に召すまま」の喜劇としての内的雰囲気は、黄金時代を偲ばせる森、しかし人間社会を背後に 浮かび上がらせ、自然の現実性によって見つめ直されたアーデンの森で歌われる、二幕七場の歌に一番うま く象徴されているように思われる。歌のいわんとしていることはこういうことだ。<自然はどれ程烈しく痛 ましいものであっても、忘恩などが犇めく過酷な現実社会の牙よりはよいものである。現実社会では運命の 女神の悪戯によって、友情も恋も成立し難いが、このアーデンの森にはクリスマスを祝するヒイラギの樹が あるではないか、本当にここでの生活は楽しいではないか。> こうした雰囲気は最後の最後まで続いてい く。結婚を祝する軽快な春の歌が唄われ、四組の男女が結ばれめでたく大団円となるが、タッチストン、オ ードリ、ウィリアムの三角関係においてウィリアムが弾き出されるというプロットや、ジェイクイズは結婚 の儀式に加わらず、皮肉な言葉を残して去って行くというように、アーデンの森は最後まで、現実社会とい う背景が密着された形で示し出されている。



   シェイクスピアが種本に使ったロッジの「ロザリンド」にない人物を創造したのは、彼のいかなる意図 によるのかというのが、当初からの僕の関心事であった。
   この劇が成立した1599年は、時代精神という面から考えると、「エリザベス朝初期にみられるような輝 かしい生の讃美、人間の可能性への確固たる信念、未来への何のかげりもない希望等、社会の上げ潮の働き と対応した楽天的雰囲気」は色褪せつつあり、ジェイムズ朝時代を支配する息苦しい気分を予想させる頃で あった。社会の一部には、オーランドーの言うように「希望することを恐れ、恐れるとはどういうことであ るかを知っている人々(5.4)=私訳=」がいたことは間違いない。このような時代の気分に敏感であったと想 われるシェイクスピアに、牧歌世界はどのように映ったか? 牧歌世界そのものは「ヘイホー、ヘイホー 、 ヒイラギよ、この世界は楽しいよ」と唄われるにふさわしい世界であるが、しかしその明るい気分も何処か で滞るような何かを彼は感じ取っていたのではなかったか。それ故、人間の純粋な精神が夢想するアーデン の森は、ジェイクィズという毒舌を振るう厭世家と、タッチストン(試金石という寓意)という「乾涸らびた 現実の奇妙な話題をいっぱい持った(2.7)」道化を配することにより、現実的な視点から相対化されなけれ ばならなかった、と言えると思う。
   牧歌的恋愛に於いてもまた然りである。ジェイクィズは「この先生は羽根板をつなぎ合わせるみたい に君達をくっつけるだけさ。すると君達のどっちかの正体が、反り返った板だってことになって、生木みた いに曲がって曲がってしようがなくなるぞ(3.3)」と皮肉っている如く、結婚を全然信じていないし、タッチ ストンのオードリ求愛は、性愛における自然性にのみ基づいているかのようである。タッチストンがオード リから「品行がよかったらいけないかね(3.3)」と尋ねられて、「いけないね。まったく。お前の顔がまずく ない以上はね。だって、綺麗なところへもってきて品行が正しかったら、砂糖に蜜をふりかけるようなもん だろう」と戯れている科白は、当時の俚諺(眉目麗しい女性に貞女はいない)を踏まえたもので、また、この劇 の各所に見い出される、角(妻に不貞を働かれた夫の頭から生え出すという当時の伝説)に関する科白等から、 当時の性風俗の一端がうかがえるし、彼の次のような科白、「私がここに踏み込んで来たのは、他の田舎婚 礼の連中と込みになって、一緒になりたがって誓ったり、またむら気で逃げたくなって誓いを破ったりした かったからですよ(5.4)」は、結婚を諷刺しているともとれる。タッチストンとジェイクィズは、当時の現実 のある局面を浮かび上がらせるという機能を担っているようだ。しかし、僕はタッチストンの次のような科白 に注目すべきだと思う。「さあ、かわいいオードリ、結婚しなくちゃなるまいよ。さもないと野合の暮らしだ から(3.3)」 ここにはタッチストンの(つまりシェイクスピアの)意志が感じられる。そして、タッチストン とロザリンドを結び合わす何かがあるとすれば、この科白に於いてだと思う。ロザリンドもタッチストンが言 いそうな科白を吐いている。「角じゃないの、あなたみたいな人が奥さんから押っつけられて有り難がって いるものよ。ところが、蝸牛は自分の運命を身につけてやってくる。細君の不貞沙汰を見通しているわけよ (4.1)」また、「恋の為に死んだ男なんかいない(4.1)」とか「男は恋をささやくときは4月みたいだけれど 結婚してしまえば12月よ。娘も、娘の頃は5月だけれど、人妻になると空模様は変わってしまう(4.1)」等 の科白から分かるように、牧歌風恋愛は徹底的に現実的な眼によって見直されている。そしてロザリンドは 次のように言う。「あぁ、自分の罪を、夫を責める材料にしない女なんて、そんな女には自分の子を育てさせ たくないな、馬鹿みたいに育てるだろうから(4.1)」 ここで彼女は、妻の不義は妻だけの責任ではなく、夫 にもその責任がある。こういう認識のない女性は、子供を育てても立派に育てられないのだ、と言っている のであるが、ここに近代ロマンスの内実をみていいように思う。即ち、夫婦愛(性愛における精神性)は、相互 規定性の中に成立するものであり、比喩的言えば、両者の間にかかる硝子の橋のようなものである、と―。 従ってロザリンドの視点からシルビアスとフィービーをみれば、シルビアスは「恋の為に意気地なしの虫けら」 で、フィービーに「道具化された」者としか映らず、「君みたいな馬鹿がいるものだから、この世界にみっ ともない子供を産みつけて一杯にするんだ。この女が自惚れるのは、鏡じゃなくて、君のおべっかのせいだ (3.5)」と批判されねばならなかったのである。
   因みに、伝統的な牧歌世界に現れる羊飼いや女羊飼いは美しいことになっているそうであるが、ここ ではフィービーは醜い女性として扱われている。これも言わば、牧歌世界を現実の視点から相対化しようと する意図によるものと思われる。かくして、シェイクスピアの描く牧歌的恋愛は、伝統的な牧歌的恋愛に比 べて、その甘美さが薄らいでいる分だけ現実化されている、即ち、知性化されている、と言えるかも知れな い。



   ジェイクィズの人生七段階説ほど、生きるということに関して傲慢なものはない。生誕して、成長し て、老いて死ぬという、どんな人間にも共通な自然な生涯の時間の流れに沿って、特殊な人生の場面を、ま ったくつぎはぎ的に並べたに過ぎない科白であるが、人生に絶望し、生きることに飽きた厭世家の毒々しい 諷刺的気分はよく感じられる。しかし、現実に足を降ろし、日々営々と生きている生活者の視点からみると、 この説ははなはだ奇妙で滑稽であるようにも思われる。何故なら、日常を日常の中で生きている者にとって、 人生はそれほど非連続で無味乾燥しているようには感じられないからである。そこには、明暗様々なる人間 的感情が渦巻いてはいるが、唯一つ、絶望は、或いは絶望の持続はないように思われる。絶望は観念の領 域内だけに生息し得るものだからである。
   僕には、ジェイクィズとタッチストンの知性の質には相違があるように思われる。ジェイクィズの知 性は、人間の日常的な生の営みという場を素通りして行くと言えるならば、タッチストンの知性は、正にそ ういう場における「人間の愚かさを隠し馬みたいに使って機智を発し(5.4)」得る知性であると言えるかも 知れない。もしそうであるなら、ジェイクィズの知性は人間の上にも立たず、生きるという生活の場にも立 たず、ただ観念の中だけに立っている故に、タッチストンから「一刻一刻と俺たちは実ってゆくんだが、や がてまた、一刻一刻朽ちてゆくんだ(2.7)」と、人間の自然性(all is mortal in nature(2.4))によって人 間の観念性を相対化された時、一時間も笑い続けなければならなかったと考えられる。



   僕にはまだ道化の意味がよく解らない。これはこれからの僕の課題である。


(参考書等)

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