以前イギリスの語学学校で8週間の研修を受けたときは上級のクラスに入れられ、聞き取りに大変苦労しました。耳を慣らすという観点から
すれば失敗であったと思っています。フランス語の勉強は今回が初めてなので、堂々(?)と初級クラスから始めました。仕事の方は思いの外早く
見つかり幸運でした。がしかし、日本料理店なので日本語を話す時間が断然多く、仏語習得という面では甘やかされた状況の中で厳しさはなく、それだけ身につかなかったようです。
4月10日 晴れ。夕方より雲多くなる。
今日は夕方までずっと晴れ渡り、雲はほとんど見えなかった。しかしその空は真っ青に澄み渡っているのではなく、雲が薄い膜となって
空全体を覆っているような感じで、その為青い空とは云ってもその色調は淡くやわらかである。この時期だけの特徴なのか、5月、6月
になるにつれてどのように変化していくのか、多少興味を覚える。
今日は非常に充実した一日であった。
アリアンスへ入学手続きに行く。今月の21日から早朝8時30分からの授業をうけることになった。授業料は今月分100フラン、
5月分400フラン、入学金50フラン、テキスト代27フラン。
手続きを済ませたとき、受け付けてくれた40代のがっしりした体格の髭を生やした紳士に、テキストは何処で買えますかとたどたどしい
フランス語で尋ねると、英語で応えてくれる。奥さんは京都の人で旧姓は僕と同じだそうだ。家族は今京都に住んでいるとのこと。別れ際
「さよなら」と覚えたてのような日本語が発せられた。その日本語につられて僕も「さよなら」と言うと、隣のフランス人は「オウヴァー」
と発した。そのように聞こえた。僕も「オウルヴォアール」と何故返せなかったかと悔やまれるが、その時の僕はかなり緊張していたに
違いない。しかし非常な親しみと安堵感を覚え、その後しばらくは幸福な気分の中にいた。
リュクサンブール庭園のベンチに腰を下ろし、買ったテキストのページを繰る。天気も良く、大勢の人があちこちのベンチに思い思いに座っている。
このような広い公園を持っているパリ市民に羨望の念を覚える。心にも余裕が生まれるというものだ。4時頃まで座っていた。
4月11日 晴れ。
オペラ座の近くにある「サクラ」という日本料理店へ。仕事決まる。4月30日より、夜6時から11時。皿洗い。月1300フラン。
寮にも入れることになる。寮費月400フラン。これでフランス語習得に専念できる。この喜びをどう表現しようか!。しかしこれから、まだまだ
多くの障害が待ち構えているだろう。決して気を弛めることなかれ。
朝、パリ在住の日本人向け情報誌「オブニ」に広告が出ていた店四、五軒をピックアップし、求人広告の出ていない「サクラ」に何故か真っ先に
電話を入れた。求人広告を出している店もある。数撃ちゃ当たるだろうと、むしろ楽天的な気分であった。語学学校へ行きたいので夜だけ働けないでしょうかと
こちらの条件を述べると、雇ってくれそうな口振りであった。2時半に店で会う約束をする。まだ時間はたっぷりあったので「東風」を探しだし、そこで
蛙の唐揚定食とビールを飲む。「今日のこの閑散としたこと。嵐の後の静けさですわ」と30半ばの和服姿の似合う、雇われマダム風の女性が応対してくれる。
彼女の優しそうな微笑みに異国での緊張感が一瞬和らぐ。「サクラ」が駄目ならここに電話しようと思った。
「サクラ」はオペラ座のすぐ近くにあった。店の主人は少し太り気味で、丁度作家の小松左京氏に似た体格の持ち主であった。人あたりが柔らかで気のよさそうな人柄に
見受けられた。今皿洗いをしている学生が今月一杯で辞めることになっていて、求人広告を出そうと思っていた矢先であったらしい。話が決まり、帰り際、家主だ
という人がいたので、覚えたフランス語を使ってやれと思い、「ジュ・ベ・トラバイ・イシ」と言うと、待ち構えていたようにペラペ喋りだした。
ちょっとあっけに取られていると、主人がそれを受けて何か言った。何を言っているのか全く解らずに、僕は会釈して店を出た。
オペラ座の前の石段には、大勢の観光客が暖かい日差しを浴びて座っていた。僕もその人達の中に混じって座り、煙草を喫った。これからの生活を
あれこれと思い描く。不安はなかった。日本の観光客であろうか、若い女性が一人誰かを待っているか、石段の下のほうで座っている。
その女性の何と淋しげに見えたことか!
4月16日 快晴。
昨夜遅くM君来訪。深夜1時半頃、仕事から帰ったO君も入ってくる。三人で4時過ぎまで話しをする。ベッドに入ったのは5時前だったか。
彼等二人の話を聞いていてなかなか面白かった。年齢が近いこともあろう。O君はY君を厳しく戒めていた。日本料理店でそんな風にしていては、
仏語の勉強にはならんぞ、勇気を出してフランス料理店へ飛び込んで働いてみろ―と。そんな言葉にO君のY君に寄せる友情を感じた。聞いていて悪い気はしなかった。
4月19日 曇り、時々小雨。夕刻より晴れ間。
正午に外出。ポンピドー・センター広場では、ロボットの形態模写をしている青年の周りに大きな人の輪ができていた。帽子を差し出して観客の間を
廻っている人がいた。その帽子の中には硬貨だけでなく紙幣もたくさん入っていた。その芸は大変な受けようだ。その後マレ地区の旧い建物のそばを通り、
ルーブル美術館へ。ミロのヴィーナス像を初めて観る。黒山の人盛り。4時半帰宅。少し疲れた。
夜10時過ぎ、先日ワインの栓抜きを貸して上げた二女性と階段ですれ違う。僕の部屋でO君も加わり、12時過ぎまで四人で大いに語らい、楽しい時を過ごす。
彼女達二人の話しぶりは、まるで周五郎さんの「おたふく物語」の姉妹のようで、聴いていてこちらも楽しくなってくるおかしみがある。二人は高校卒業後
Tさんは保母さんになりたくて退職。その後会社は石油ショックのあおりを受け倒産。Aさんはその時一大決心。バスガイド等のアルバイトをして金を貯め、好きな絵の勉強に
一人メキシコへ。2年後Aさんが帰国すると、今度はTさんがスペインへ旅立ち、ベビーシッターをしながらスペインに住み着いた。二人の間ではずっと手紙のやりとりが
あったのだろう。1年半が経過し、二人はスペインで久しぶりの再会を果たし、その後イタリアを旅行して先日パリにやってきたばかりなのだそうだ。二人はこれから半年間当地で
思い思いの勉強をして帰国する予定とか。二人ともインテリ臭さはなく、庶民的でヴァイタリティに溢れ、その気さくな人柄に好感を覚えた。
異国で知り合った男女が情報を交換しあい、協力して各々の生活の場を築いていく。こういう異国体験は明治の時代には出来なかったわけで、ここに歴史の移り変わりを
感じないわけにはいかないだろう。
我々のこれからの生活に幸いあれ!
4月20日 晴れたり曇ったり。時々小雨。夕方から晴れ渡る。
四人でヴェルサイユ宮殿を見学。今日は月曜日。あいにく閉館で宮殿の中へは入れなかったが、庭園の広さとすばらしさに驚愕する。ルイ14世から16世の統治の間、
王や貴族が贅沢の限りを尽くした場所であったのが、革命により市民の立派な共有財産となり、現在は世界の財産であるとも言える。そこで今日は楽しい一時を
過ごせたことに感謝しておこう。
帰ってきて、そこのル・クリスタルで4時過ぎから6時半頃まで食事をしながら大いに語り合った。まるでみんなが十代終わりの青年男女に戻った気分で、お互いの目標などを
語り、ついには日本人論や、これから国際化してゆく中で果たすべき日本の役割や、現在日本が抱え込んでいる急成長による歪みの問題・・・しかしふと我々の現実に立ち返り、
これからこの国で如何に生きてゆくべきか、等、大いに気焔をあげた。不思議なものだ。日本にいてはこのような議論は気恥ずかしくて到底できそうにもないが、こちらでは日本人としての
誇りを自覚するところから自然と気持ちが昂ぶってくるのだ。大いに愉快である。
明日からは、新しい生活への第一歩を踏み出す。
4月21日 晴れ。
アリアンスの授業の初日。自己紹介が主だったのでテキストは使わなかった。何を言っているかは八、九割状況からほぼ察しがついた。モンテス先生。まだ30歳には達していないと
思われる若い男性。好感が持てる。生徒の数は37番教室の僕のクラスで20名位いたと思う。空いた机はなかったようだ。国際色豊かで日本人3名、中国人2〜3名、ヴェトナム人2名、
カンボジア人1〜2名、セイロン人1名、タイ人1名、エジプト人1名、アメリカ人1名、ノルウェイ人1名、ポーランド人2名、スイス人1名。他にフランス人の男性が1名混じっていたが、
この人は授業参観が目的であったようだ。アリアンスの職員なのだろうか。授業は8時半に始まり10時15分に終わった。楽しくなりそうだ。帰り、リュクサンブール公園を通った時、
ここのベンチに腰をかけて復習するといいんじゃないかとふと思った。
学校は6日から2週間春休みだったらしい。イースター休日だったのではないか。今日から学生食堂も再開。今日は夕食昼食とも世話になった。二食続けると日本食が恋しくなる。夕食時、
浮浪者風の30代の男が食事の済んだ学生の食器を貰い受け、食べ物を入れて貰いに行った。おかわりは可能なのか、それとも拒まないだけのことなのか。その男は浮浪者風の男達が座っている
テーブルへ持って行き食べていた。
リュクサンブール公園で夕方の景色を眺めようとベンチに腰掛けていた。8時20分頃、呼び笛の音があちこちから聞こえてきた。警備員がならしているのだ。閉門となる時刻なのだ。
いままで知らなかった。