【1999/6/19上梓】柿 本 実 稚 著
柿 の 葉
もう秋も終わりなんだわ…
とみどりは病室の窓から外の景色をぼんやりと眺めながら呟いた。風はかなり強いらしく、窓のすぐ近くまで張りだしてきている柿の木の枝が大きく揺れ、
少し遠くでは、紅葉した枯れ葉が一枚、また一枚と、枝から舞い上がるように散っている。夕暮れの空を引きちぎられた綿のような白い雲があわただしく流れ、その間から、ときおり三日月が生気のない
白い顔を寒そうに覗かせていた。
みどりがこの病院に入院したのは、桜の花が儚く散り、その束の間の美しさに当惑する人々の心に、木々の若葉が落ち着きを与え、人生の真の営みはこれからだと告げる四月の終わりに近い頃だった。
交通事故による右足の骨折が入院したそもそもの理由なのだが、悪いときには悪いことが重なるもので、しばらくして盲腸炎に罹り、すぐに手術はしたものの、切開した部分が化膿しはじめ、こんなに長引
いてしまったのだった。
中学三年生…これが彼女の唯一の社会的肩書きである。
あと一、二週間で退院できたとしても……
とみどりは思う。しばらくして彼女は溜め息をついた。近頃その回数が多くなって
きていることに彼女自身気付いてはいた。が、今やどうすることもできない精神状態に落ち込んでいるのだった。
***
***
みどりは生来陽気な性格で、ちょっとあわてん坊の可愛いおきゃんな女生徒として学校中の人気者だった。事故に遭ったのも、学校の帰り道、道路を隔てた向こう側の歩道を歩いている友達に話しかけ、
夢中になってしまい、思わず車道に飛び出しでしまった結果だったので、彼女の性格が全く関与していないとは誰も断言できなかった。
入院した当初は、それほど好きでない勉強から解放されるので、足の痛さも忘れるほど内心では喜んでいたし、自分を少女漫画のヒロインとして思い描き、一人悦に入ってはニヤリとすることも
度々あったのである。見舞いに来てくれる友達の気遣いに対しては、気にしない気にしない、と言って自分のおでこをげんこつで軽くたたいて笑顔を見せた。そうすると気持ちが晴れ、あとに何も残ることはなかった。
夏休みが終わる頃までは学校の友達もよく見舞いに来てくれたので、自分の演技をみてくれる観客に不自由する事はなかったのだが、九月に入り新学期が始まると、急にその数は激減してしまった。
しかし、みどりの一番の親友である明子だけは変わることなくほとんど毎日、授業のノートのコピーを持参して、時間の許す限り、勉強の質問に答えてくれたり、みどりの話し相手になってくれた。
明子とは幼稚園の頃からの遊び友達で、一人っ子のみどりにには妹であり、また時には姉にもなってくれるという関係がこれまでずっと続いてきた。何か事を起こすのはいつもみどりの方で、
面倒なことになり、その後始末をするのは決まって明子の役回りであった。明子はみどりと違って、自己を主張することはあまりなく、控えめで落ち着いた感じを与える少女であった。両親はどのような
願望を我が子に託してそう名づけたのか定かでないが、明子の明は明るさの明ではなく、むしろ明晰の明だと言った方が彼女の性格を射抜いているように思われる。
だが、そのような明子でさえ、二学期の中間考査が始まった頃から全く姿を見せなくなってしまったのだ。
あの日はたしか明子に数学の解らない問題を教えてもらっていたんだわ……
とみどりは思う。
数学は得意な科目ではなかったが、嫌いではなく、なんとか自分でこなせるだけの力はみどりにはあった。それで式や平方根の計算は明子の助けもあってつまづくことはなかった。が、九月に
入り、みどりも勉強に意欲を燃やすようになった頃から図形の分野が理解できなくなり、日に日に苛立ちが目立ち始めた。途中で鉛筆を投げ捨ててしまったこともあった。あの時も、鉛筆を投げ捨てる寸前のみどりに嫌な顔ひとつせず、
明子は何回も説明してくれたのだが、どうしても解らなかった。
わたしはどうかしていたのだわ、あんなヒステリックな声を出すなんて……。
思い出す度にみどりの頬は赤らんだ。明子がこの部屋を出て
行くときに見せた、当惑と悲しさの入り混ざった表情が、寂しそうな後ろ姿が、みどりの脳裏に鮮やかに焼きつけられている。
そんな事があって以後、みどりは両親と話していても冗談を言わなくなった。また、
時折襲ってくる焦燥の大波が過ぎ去ったあとの、悲しいさざ波に身を任せながら放心状態に陥ることもあった。未来に展望が持てず不安な精神状況の中では、教科書を開いてみようという気持ちなど起こるはずもなかった。
ただぼんやりと窓の外を眺めながら取り留めのない物思いに耽るのである。心はとぐろを巻くように内へ内へと入り込み、否応なく自分を視つめたり、過去の自分の姿を振り返ってみることが次第に多くなっていった。
みどりは遠い雲の流れに注いでいた視線を柿の木に移した。数週間前に比べれば、葉の数はずいぶん少なくなっていた。たくさんなっていたと思われた柿の実も、誰かが食用にもぎ取ったのか、或いは自然に
落ちたのだろうか、枝にはもう一個しか残っておらず、赤く熟れた頬を寒そうに震わせていた。その実をじっと視つめていたみどりに、何故だか急に悲しい気持ちがこみ上げて来た。そして目から涙がにじみだし、止まらない。
盲腸炎に罹るまでのわたしは、足の痛みはあったけれど何も気にしていなかったわ……
とみどりは屈託なく振る舞っていた入院当初の自分の姿を思い浮かべた。
あんな事故に遭わなかったら、今日のような日はきっと山歩きをしているのに……
と思いながら、みどりは窓の外の柿の木の若葉がやわらかな五月の風に静かに揺れている様を眺めていた。山歩きの好きな
父親はみどりを小さい頃からよく山へ連れて行った。特に五月のこの時期がみどりは一番好きだった。小鳥の囀りを耳にし、木々の緑が春の海の波のように、きらきら静かに揺れている様を眺めながら散策することは、
何より心地よかった。身体は自由がきかないので、せめて心だけは自由に野や山を駆け巡らせる・・・。
そんなある日のこと、柿の若葉が小さな毛虫に取りつかれ、喰われている様を偶然目にした。みどりの心は少なからず動揺し、何故かしら毛虫が無性に憎らしく思われた。さっそく彼女はベッドを窓ぎわへ寄せてもらい、
柿の若葉や幹にへばりついている毛虫を長い棒で落としにかかった。
それから数日間というもの、彼女と毛虫の戦いが続いた。朝、目覚めるとすぐ彼女はカーテンを開ける。毛虫に喰われて無惨な姿になった葉を
見つけると心は痛む。
なんてひどいことをするのでしょう!
と思い、みどりは怒りに身を震わせた。そして毛虫の襲撃から若葉を守ろうと、新たな闘志を燃えたぎらせたのだった。しかし、盲腸炎の手術のため
退却せざるをえない日がやって来た。そのときみどりはあふれ出る悔し涙をどうすることもできなかった。
手術が終わり、再び病室に戻って来たとき、柿の若葉は見るも無惨な姿になってしまっていた。毛虫達は幹の凹んだ処に
みっしりへばりついていて、ぞっとする程に大きく成長していた。
ああ! 自然はなんてむごいことをするのでしょう……。
みどりは怒りに燃えた鋭い視線を毛虫達に浴びせかけた。しかし彼女の怒りをよそに、毛虫達は
ふてぶてしくも凝然として動こうともしなかった。
その夜、みどりは大きな悲鳴をあげて目が覚めた。数十匹、いや数百匹もの毛虫が彼女の身体の上を這いずり回っている夢を見ていたのだ。みどりの手や足は何かで押さえ
付けられているような感じで、身動きがとれなかった。心臓が激しく鼓動し、全身びっしょりと汗で濡れていた。
それ以後、みどりはできるだけ柿の木を見ないように努めた。数日後、手術の傷口が痛みだし、化膿していること
が判明した。
もしかして、わたしもあの若葉のように、何かに蝕まれ醜い姿になってしまうのじゃないかしら……。
病院生活の長引くことが次第に明らかになってくるにつれて、みどりの心は益々そのような暗い想念に
取り憑かれていった。そしてその頃から、彼女の心の中で何かが徐々に変化しつつあるのを秘かに感じ始めていた。友達の前では、もちろん両親の前でも、明るく振る舞い、いつもの自分と変わらないように見せかけてはいたけれども…。
六月に入り、雨の降る日が多くなった。
その日は雨が降りそうでいっこうに降らず、どんよりとした雲が一日中空を覆っていた。
今日は誰も来ないようだわ…
と思いながら、みどりはぼんやりと窓の外を眺めていた。風はまったく吹いていないようで、
柿の木の小枝は絵に描いたようにじっと不動の状態であった。そのとき、まだ青い小さな柿の実が一つ、枝から離れ、落ちていったのである。まるでスローモーションを見ているようにはっきりとみどりの網膜に映った。そして鈍い音が
聞こえた。みどりはドキッとしてしまった。どす黒い墨のような塊が水面に落ち、それが四方八方に広がって行くように、何か得体の知れぬ不安の波がみどりの全身に染みわたっていった。そして寒気がするように身体が震え、
その震えがおさまると同時に哀しい気持ちになり、心は沈んでいった。
柿の実、柿の実 … …
とみどりは呟いた。すると、… 悲しの実 … という声が何処からともなく聞こえてくるような気がした。
これからわたしは
どうなっていくのでしょう……。
地面の上に転がっているまだ青い実を想像して、みどりの瞼は熱くなった。
この体験は、おもしろ可笑しく脚色して誰彼に話せるようなネタにすることはできなかった。そうかといって自分の心の中にそっとしまっておくこともできず、明子にだけこっそりと打ち明けることにした。明子は黙って聴いていたが、
何も言わず、優しくみどりの髪を撫でるだけだった。しかしみどりの心はそれだけで十分落ち着いた。
すぐに明子はバレーボール県大会予選試合のことに話題を転じた。みどりもすかさずそれに応じる。
「わたしがいれば、優勝、
絶対間違いなしなのにね。残念ね。でも仕方ないじゃない。わたしの分まで頑張ってよ。精一杯、ね」
二人はお互いを見つめ合って微笑んだ。明子だけはいつもわたしを解ってくれているという信頼感がみどりの心の支えとなっていた。
*
*
明子が姿を見せなくなってここ三週間というもの、みどりは明子のことを考えない日はなかった。そして自分にとってかけがえのない大切な存在であることを初めて痛感したのである。
どうしているのかしら。あんなヒステリックな
声を発したわたしに愛想をつかしてしまったのかも……。
みどりの心は落ち着きを失っている。今度明子に会ったときは絶対謝ろう、とみどりは自分に言い聞かせ、騒ぐ心を鎮めようとする。一刻も早く明子に会いたい、という思いが日に
日に強くなってきていた。
それとも、明子の身に何かあったのかしら……。
こう思ったとき、何故かドキッとして、思わず辺りを見回した。部屋の中はもう薄暗くなっていた。みどりは視線を窓の外に転じた。星が微かに瞬いている。三日月は
青白い冷ややかな光を放っている。柿の木の枝は絶え間なく揺れている。
翌朝、目が覚めても、みどりはいつものように起きてすぐ洗面所へ行く気持ちにはなれなかった。頭は鈍よりとした雲に覆われているようで、気分は冴えず、身体もどことなく気だるかった。しばらくして、看護婦さんが入って来た。
「みどりちゃん、おはよう。今朝は遅くまで寝ているのね。気分はいかが」
と言いながら、窓のカーテンを開けた。朝の新鮮な光が部屋の重苦しい雰囲気を一変させるかのように勢いよく飛び込んで来た。
「おはようございます」
と
声は出したものの、みどりの心は凍りついたように動こうとはしなかった。失ってしまった時間は絶対に取り戻せない、という観念が彼女の頭の片隅にこびりついてしまっていて、それがいつも心を曇らせているのだ。みどりは自分に襲いかかった突然の
運命を白眼視するように、まだ小刻みに揺れているカーテンを睨み続けている。かつて家にいた頃、目が覚めると一刻も早く朝の爽快な気分を招き入れようと、威勢よくカーテンを開け、囀っている小鳥たちに向かって話しかけたことが幾度となく
あったという記憶すら、今や完全に薄れてしまっていた。
みどりは柿の木を見上げた。昨日まであった最後の柿の実は無くなっていた。昨夜の強風で落ちてしまったのだろう。しかし、そんなことは今の彼女にとって何だというのだ。どうにでもなるがいいのよ! とうそぶき、みどりは無関心を装った。
六月のあの幼い青柿、風は無くじっと静止した小枝から突如地上へ落下して鈍い音を立てた、あの青柿から受けた衝撃は、みんなから取り残され、はぐれてしまった彼女の無意識下の不安感や孤独感の大きさを物語るものであった。しかし、
その事を明子に聞いて貰うことによって、そして明子に信頼感を抱くことによって、みどりは自分の心の奥に居座っている暗い情念の動きを意識しないですますことができたのだ。ところがその明子という防波堤が居なくなってからは、みどりはその
暗い情念の動きを視つめないわけにはいかなくなった。そしてやっとその正体を見極めることができるようになったのだが、勝手気ままに騒ぎ出す自分の心を制御できないでいた。焦燥と不安の中では思考は混乱するばかりなので、その苦しみから
逃れたいという気持ちが無意識に働くのだろうか、物事を投げやりに考える傾向が最近特に強くなっていた。人生なるようにしかならないんだと開き直って、あっけらかんと心をもっとおおらかに保てるものなら、そこに救いもあるのだが、
そんな心境にもなれないでいる。彼女の投げやりな心にはもっと自分を苦しめてやれという自虐性の兆しすら見え隠れしている。だからこそ、溜め息をつく回数が増えるのであった。
その日の夕刻、みどり宛に小包が届いた。中には、赤く熟した美味しそうな柿の実が一個、一通の手紙と一緒に入っていた。
***
***
みどり、長い間会いに行かなくなってごめんなさい。でもあなたのことはいつも考えていたのよ。病院まで何回も行ったわ。でも、あなたの部屋へ入っていく勇気がなかったの。あなたの不安や焦りをどうすれば取り除いてあげられるのか、
わたしには分からない。ごめんなさいね。
あなたの近頃の様子をお母様からお聞きして、わたし心配で、昨日も夕方病院へ行ったの。風がとても強かったわね。一つ残っていた柿の実が大きく風に揺られて、今にも落っこちてしまいそうに見えたわ。
落ちて傷ついたらかわいそうでしょ。それで看護婦さんの許可を得て取ったのがこの柿よ。どう、熟れて美味しそうでしょ。あの柿の木が苦労して稔らせた最後の実。きっと、みどりに食べて欲しいと言っているに違いないとわたし思ったの。だって、
みどりは柿の若葉を守ろうとあんなに熱心に毛虫と闘ったじゃない。よく頑張ったね。その気持ちは柿の木に十分伝わっていると思う。
わたし発見したことがあるの。木々は春になって新しい芽を出すものとばかり思っていた。でもそれは違うのよね。
秋に収穫を迎え、そして葉が散る頃になると、すでにもう翌年の新芽がでている。それは小さな蕾の中で、小さく小さくなって長い冬を過ごすのよね。わたしにとってそれは一大発見だった。だって、小さな、本当に小さな若葉の赤ちゃんとして、冬の
厳しい寒さに耐えている。来年の春が巡ってくるまで…。葉が落ちた冬の木々を遠くから眺めていると、生命活動は一時お休みしているように見えるでしょう。わたし、今まであまり深く考えたことなかったけれど、何となくそんな感じでしか冬枯れの木々を
見ていなかったわ。でもそうじゃなかった。生命活動は一刻も休むことなく続けられているんだわ。春に備えて、目に見えない準備活動を続けているのよ。
時期が来て、一斉に緑が勢いよく鮮やかに飛び出してこられるのは、冬の間の長い忍耐生活に
何か深い関係があるのじゃないかしら。みどり、あなたそうは思わない。
今は昼休み。もうすぐ午後の授業が始まります。みどりが以前のようなみどりとして、早く学校に戻って来てくれることを心から願っています。
明子
手紙を読み終えると、みどりは顔を上げ、視線を窓の外へ転じた。熱いものが両目から流れ落ちるのをみどりは感じた。
紅葉した柿の葉が一枚、舞い上がるように枝から離れていった。それを眺めているみどりの心に、何時、何処で、
誰から聞き覚えたのか思い出せないが、非常に懐かしく親しい響きを伴った詩句の一節が突如甦ってきた。
… … 冬来たりなば、春遠からじ … …
みどりはその言葉を繰り返しそっと声に出してみた。
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