私はこの4年ほど前に英国の語学学校で短期の研修を受けたことがあり、海外は二度目になります。
ここに出てくる友人のO君は私と7歳ほど離れていますが長年の親しい友人で、丁度一年後の再会となります。
3月31日 曇り。
僕の乗った大韓航空の旅客機は予定の到着時刻より約2時間遅れてパリ郊外のオルリ空港に着陸した。何も訊かれることなく
税関を通過。他の入国者も殆ど素通りの状態であった。機内で知り合った画家の濱田さんがイベリア航空の窓口でマドリッド行きの手続きを
するのを見届けて、別れた。現金をフランに替える。時計を見ると午前10時30分を指している。1時間が経過したことになる。異国の地に
立っているのだという実感が初めて湧き起こってきた。空は曇っていたが、雨の降る気配はなかった。
友達の泊まっているホテルに電話をするが、相手の言っていることが解らない。部屋にはいないと言っているのだろうか・・・仕事で
出て行っていないのなら仕方がない。取り敢えず彼の宿泊しているホテルまで行くことだ。
アンバリッドバスターミナル行きのバスに乗り込む。18フラン。チップとして3フラン渡した。発車間際に学生風の日本人女性が6〜7名
ドタドタと乗り込んできた。背広姿の日本人男性の横に座っていたフランス人女性が彼女達に「いらっしゃい」と笑顔で声をかけた。実に自然な
日本語だ。彼女達はラッキー、ラッキーと喜んでいる。夫婦なのだろうか、観るところ30代の若さだ。二人は終点の手前、モンパルナスで
バスを降りた。
バスターミナルからは地図を頼りに歩くことを考えたが、荷物が重すぎる。タクシーで行くことにした。「ホテルニコール、ポール・ロワイアル、
シルヴプレ」と言うと通じたようで、荷物をトランクに入れてくれた。降りるとき、メーターは15Fを示していた。20フラン渡すと、車内の表示文を
指さしながらもっとお金を要求しているようだ。いくらなのか聞き取れなかったが、10フラン硬貨を一枚渡すと、それでいいのか何も言わなくなった。
パリにはタクシー運賃を大目に吹っ掛けてくる運転手もいると読んだのを思い出す。馬鹿にされてたまるか、闘争心がむらむらと沸き起こってきた。
「チェンジィズ、プリーズ」とやや語意を強めて言うと、2フラン50サンチーム返ってきた。そこで用意してあった2フランをチップとして渡してやった。
サービス料10%と手荷物代とでそれだけの料金になったのであろう。運転手はトランクから荷物を出してくれた。「オールヴォアール」と言うと、
「メルシ、ムッシュウ」という声が返ってきた。
ホテルに入ると若い男性が受付にいて、英語で応対してくれた。O君はやはり仕事で出て居らず、4時頃にならないと帰って来ないだろうとのこと。
また今は空き部屋はないとのことであった。荷物を預ける。感謝の意を込めて、マイルドセブン2個進呈する。12時を過ぎていた。
ソルボンヌ大学の辺りまでぶらつく。ほとんど同じ高さの石の建造物がどっかりと居座っている。その威圧感を圧倒的に感じながら、恐る恐る足を
運んで行く思いであった。帰りはリュクサンブール公園の中を通って帰ってくる。すれ違った二人連れの若いフランス人からジャポンとか
ジャポネとかの声が聞き取れた。自分のことが言われているような気がした。風邪気味でマスクをしていたのが異様に見られたのかも知れない。
いや、こちらの気のし過ぎだろう。1時過ぎに戻る。今、ホテル・ニコールの待合室でこれを書いている。
午後4時を少し過ぎた頃、O君が帰ってきた。久し振りの再会に心躍らせて握手を交わした。彼の手から伝わってくる熱の温もりに微かな
異変を感じたが、その再会を喜びの感情で祝ったことは間違いなかったのだ。
彼の部屋は6階(日本風に言えば7階の)屋根裏にあった。彼はこれから夜の部の仕事があるのですぐに出て行った。僕は彼のベッドに
横になり旅の疲れを癒やすことにした。
4月1日
彼は深夜過ぎに帰ってきた。駆け足で階段を上ってきたようだ。部屋に入ってきたとき息遣いが多少荒く感じられた。彼は大学を
卒業しても職に就かずにアルバイトをして暮らしていた。昨年の5月の末にスイス人女性と結婚した彼のお兄さんを頼ってスイスに行き、
夏山シーズンが終わるまで山小屋でアルバイトをしていた。その後ロンドンに渡り、生活の方途を模索したが果たせず、パリとルッツェルン
を行ったり来たりしていて、今年の2月の初めSUNTORYという名の日本料理店で働き始め、まだ一ヶ月も経っていなかった。
「おなか空いたでしょう」と言って、彼は手に持っていたハンバーガーの袋を広げた。僕は以前の友の姿を思い浮かべて幾分ほっとした。
彼は僕のために明日の仕事は休みを取ってくれていた。僕たちは明け方近くまで話し込んだ。
飯島三五郎というチェロ弾きと正月二日に初めてストリートミュージシャンをしたときの話。パリ住人の芸術家を観る眼は厳しく、
自分でも満足のいかない演奏をしたときは足を止めて聴いてくれる人の数は極端に少なく、当然上がりも少なかったと言う。彼の異国での
生活は順調に滑り出したようで、スイスの山小屋で働いていたときの思い出を語る彼の口調は滑らかであったが、ロンドンでの孤独な一ヶ月は
相当ひどいショックを彼の心の奥底に残したらしく、余り話したがらなかった。彼の友達、M君とは日本を発つ飛行機の中で知り合ったとのこと。
卒業を一年後に控えたフランス語科の私費留学生で、彼がロンドンを引き上げ、パリに住み着くようになったのはM君によるところが
大きかったのだろう。彼の話は、間が空いたときの僕の問いかけにもよるが、時の流れに関係なくあちこちへ飛んだ。彼の今の仕事は
デザートの盛りつけが主で、洗い場の仕事を長年やっている画家さんは今、パリでは少し注目されているらしいこと、等々。今の職場の
人達との心の葛藤ーロンドンでのハングリーで孤独な生活状態に端を発したと想われる神経の過敏な反応・・・こうした彼の神経が僕に
対しても同じように働いてくる。今の彼は必死の思いで生きていて、心の余裕などありはしない。そうした中から沁みでてくる冷ややかさは、
理解できるようにも思えたが、僕も生身の人間、以前の彼と違っている面を見せつけられて、内心戸惑いを感じ続けていた。<君は異国にいて
観るもの聞くものすべて新しく、そうした体験談をどんどん書いて下さい>というような内容の手紙を書いたのは誰なんだ!。昨年の12月
の初めに貰った彼の手紙に「金の切れ目が縁の切れ目・・・ロンドンを去ります」と書いてあったことに対する、僕の何という想像力の
貧しさであったことか。他者に対する優しい思いやりと、現在及び将来に対する暗さからくる苛立ちと・・。すべてみな、思うように言葉の
通じない異国の地に今、僕達は居るのだから―。
午後2時過ぎに僕達は起きた。ホテルの一人部屋は明日は空くでしょうとマダムは言っていた。それでもう一晩彼の部屋に泊めて貰う
ことになった。
僕達はメトロに乗り、シャンゼリゼで降りた。地上に出るや、凱旋門が目に飛び込んできた。まだ少し早いが仕事に出ると彼は言った。
店は6時半に開くとのこと。12時半に待ち合わせるカフェを決める。彼が行った後、僕は当座の生活資金を確保すべく近くの銀行に入った。
8万円が1808フランに替わった。懐具合がよくなったせいか、歩く足取りに安定感が戻ってきた感じ。9時頃まで辺りをぶらぶら歩き廻った。
アレクサンドル三世橋を渡る頃じわじわとパリの持つ歴史の重みを肌に感じるようになる。アルマ橋を渡り直して再びシャンゼリゼ通りへ。
待ち合わせのカフェはバルザック通りのかかりにあった。その前を通り過ぎ少し行くと映画館があったので、そこで時間をつぶすことにする。
言葉は理解できず歩き疲れもあってうとうとしてしまい、映画の題名も内容もよく憶えていない。外に出て時計を見る。まだ30分ある。
喫茶店に入りカフェオレを注文する。6フラン。日本円に換算してみる。約270円か。中年の男性がアルコールがまわりだしたのか、
盛んに大声を張り上げている。何となく場違いな所へ入り込んでしまった感じで、心の余裕はまったくなくしてしまっていた。退屈で窮屈な
30分であった。辛抱しきれずそこを飛び出し、ぶらぶらしているとO君がやって来た。店は今日も忙しかったらしい。本当にすまない・・・。
4月2日
最終に乗るため駆け足で急いだ。ぎりぎりで間に合ってほっとするも束の間、方向が反対であると彼が言う。ラ・デフォンスで降り地上に出ると、
近代的な高層建築が立ち並ぶ所のようであった。O君は多少神経質になっている様子。車で帰るしか仕方なく、僕達はタクシーを拾った。
最終に乗り遅れてタクシーを利用することは今まで何回かあったらしい。サン・ミッシェルまで35フラン50サンチーム。僕が50フラン紙幣を
運転手に渡すと、彼がすかさず「ヴポネキャトルフォン」と言った。運転手は10フラン硬貨を僕にではなく彼に手渡した。彼の気負いに
僕は一瞬ハッとした。チップはこういう具合にタイミングよく渡すものなのだ。彼のゲストとしての態度をとればいいのだと思い直す。
パリの生活に溶け込み始めている彼の姿を見せつけられた思いだ。
開いているカフェに入りビールを注文する。32フラン。日本では割り勘を原則としていたが、彼が出すと言う。僕を迎えてくれる彼の
気持ちだ。しかし先程の10フランがポケットにあったので彼に渡した。乾杯!。日本にいた頃の気分が甦る。そのカフェを出たのは2時半
頃だったか。若い女が金をねだって来たり、女性っぽい若い男性がホットドッグを買っている時に何か言ってきた。そんな時、彼はすかさず
ノン!と言うと、相手は諦めてすぐ離れて行った。ホットドッグを囓りながらホテルへ向かう。彼はすぐに平らげてしまった。僕がようやく
食べ終えると、「もう腹一杯になったでしょう」と言う。彼はまだ空腹らしい。僕の状態を羨ましそうに思う口振りであった。ロンドンの
惨めな生活を思い起こしていたのかも知れない。部屋に入ると彼はすぐ机に向かった。週二回フランス人から午後の休みに会話を習っていて、
その復習である。早い目に仕事場に向かったのはその為であったのかと今思い当たった。彼のがんばりにある種の気負いが感じられたが、
今の彼の姿は必死そのものなのだ。復習を終えると彼はベッドに入ってきた。疲れているのだろう、すぐに鼾が聞こえてきた。僕はなかなか
眠られず、ちょっとウトウトした感じで目が覚めた。8時半。彼を起こしては悪いと思い仰向けのままじっとしている。しばらくして彼も
目を覚ましたらしい。彼は神経質そうに足を何度か動かした。マダムはああ言っていたが、今日本当に一人部屋が空くかどうか分からない。
そうしたら・・・という気持ちで彼も何となくイライラしているのだろう。「今日もまた4時に帰ってこなければならない」という言葉が彼の
口から出たのだ。彼の気持ちは解らなくはないが、なんとなく友情にひびが入ったようで寂しく思う。今の僕は観光客。彼とは違う立場なのだ。
9時過ぎに僕達は起き、下へ降りて行く。彼の心配は当たった。彼も何度かこのようなことがあったのだろうか・・・。マダムは確か11時まで
待ちなさいと言っていたようだ。チェックアウトはその時刻なのだろう。心配するなよ、何とかするから―と僕は作り笑いをした。
ホテルの近くのカフェでエキスプレスという濃いコーヒを飲み彼は仕事に出かけて行った。払いは頼むと作り笑いをしたのが印象に残っている。
小銭がなかったので百フラン紙幣を渡すと、あのウエイター、レジにしまい込んで他の仕事をしている。日本では想像できないことだ。
しばらく黙って見ていたが、辛抱しきれず「チェンジィズ、プリーズ!」と要求すると、やっとこさ持ってきた。50フラン紙幣は二枚でないか
確かめていることを見せつけるように、さも重々しく親指と人差し指でこすりつけながら。3フラン20サンチーム。一杯1フラン60サンチーム
ということになる。小銭を持っていなかったのだから仕方がない。これから僕は異国の地で自活していかなければならないのだと思うと、急に
孤独感が襲ってきた。
ホテルに帰り、待合室で12時半まで待った。何も言ってくれないのでしびれを切らして受付にいるマダムの息子に尋ねると、明日は大丈夫だろう
と言って、すぐ近くにあるカプシーヌというホテルのこの部屋の鍵を渡してくれた。奥でマダムと何か言い合っているようであったが、
どのような内容であるかは知る由もない。