梵緑の樹の下で

2000年


 野鳥おじさん 

 休日に武庫川堤を散歩し始めてもう1年以上が経つ。
 武庫川を紹介しているホームページを知ったことがきっかけで、よく自転車で行っていた。単に本を読んで帰ってくるだけ、これが半年間ほど続いた。ウォークマンを買ってからは、音楽鑑賞と運動を同時にできる形態として散歩がある、と思った。そうだ、武庫川を散歩することにしよう! 自転車よりも自分の足でゆっくりと踏みしめてみることによって、武庫川の自然をこの体の中に取り込んでみたい、武庫川の風物に早く慣れ親しみたい。武庫川に関してはその時、転校生の心理がわたしに働いていたようだ。
 この転校生は新しい友達に慣れ親しんでいくように、一年かけて四季の武庫川堤を歩き続けた。今日はこの橋までにしておこう、次回はあの橋まで歩いてみよう、等と思いながら上流へ、或いは下流へと、橋の名前を覚えながら武庫川の折々の表情を追って歩いた。

(海)―南武橋―(阪神電車)―武庫川橋―武庫大橋―(JR)―上武庫歩道橋―(阪急電車)―甲武橋―(新幹線)―武庫川新橋―宝塚新大橋―宝塚大橋―(上流)

 最近のわたしは阪神武庫川駅前の喫茶店の定食が気に入り、 昼食をそこでとり、本を読み、散歩して帰ってくることが定番になっている。

 昨日もわたしは、昼食後いつものように南武橋を渡り、上流に向けて歩いていった。武庫川橋の下を通り武庫大橋近くまで来たとき、向こうから自転車を押して近づいてくる人がいる。その人は川縁を指さしてわたしに言った。
 「ヌートリアですよ。ヌートリアが出てきてますね」
 その方向に目を向けると、大きなネズミのようなヤツが岸の上でうずくまっていた。ヌートリアについてはHP【武庫川散歩】で紹介されていたのでわたしは知っていた。かわうその一種らしいが、草食性で、形はネズミに似ていて体長は60cm 位になるらしい。見るとまだ子供のようだった。
 「この辺りにもいるのですね。もっと上流の方にもいることは知っていましたが。武庫川散歩というホームページで知ったんです。実際、この目にするのは初めてです」
 と言うと、その人はあなたはインターネットをおやりなんですねと言って、名刺を差し出した。釣り糸から野鳥を守る会:松阪龍起 と記されていた。ホームページを開設されているらしい。

 松阪さんがパン屑を取りだすと、すぐハトやユリカモメが近づいてきた。 松阪さんに言われて初めて気付いたのであるが、よく観ると足先が少し変形しているユリカモメがいた。そのユリカモメは何回も何回も近づいてきたようだ。わたしにはそのユリカモメは松阪さんをよく知っているのではないかと思われた。
 ハトたちの中にもびっこをひいているのや、明らかに足先がおかしいのが二、三羽認められた。
 「ほら、釣り糸ですよ」
 松阪さんの掌の中には一羽のハトがいた。何時捕まえたのだろう。見ると、足先に釣り糸が絡み、爪の間に食い込んんでしまっていた。わたしは松阪さんが持っておられた先の曲がった鋏でその釣り糸を切ってやろうとしたが、うまくいかない。血が滲んできているので、痛いだろうなと思うと、思い切ってやれない。なかなか難しいものだ。
 「私がやりましょう。掴まえていて下さい。両手で羽根を包むようにして・・・そう、そうです。鳥の足を指で挟み込んで下さい」
 私は補佐役を務めることにした。さすが、上手いものだ。松阪さんはすぐに釣り糸を取り除いてやった。地道な活動を長年続けてこられた松阪さんに頭が下がる思いがした。またお会いできるかもしれない。散歩の楽しみが一つ増えたような幸せな気持ちであった。

 釣りをしている人の近くに、さぎが一羽、ユリカモメが三、四羽じっとしていたが、あれは釣れた小魚を貰おうと待っているんですよ、と松阪さんは教えてくれた。ユリカモメについてはまだ分からないことが多く、何年位生きるのかもよく分かっていなのだそうだ。松阪さんが足輪を填めているユリカモメの写真撮影に成功したことによって、少なくとも16年以上生きるのもいることが判明した。

=== 【2000.02.04】 ===

『ユリカモメと感激の再会』  朝日新聞 2000. 1. 4

  西宮市の武庫川河川敷で、生態研究用の足輪を付けたユリカモメ一羽が飛来しているのを松阪さんが大晦日に見つけた。 このユリカモメは1984年に鳥類研究者が京都市内の鴨川で足輪を取り付けた18羽の中の1羽で、推定年齢は16歳。 平均寿命が5,6年と言われるユリカモメの寿命などを解明するうえで貴重な発見である。 松阪さんがこの「L5」と記した足輪をつけたユリカモメに最初に出会ったのは98年11月下旬で武庫川。 今回も同川河川敷で、エサに近寄ってきた十数羽のユリカモメの群れを300ミリ望遠レンズで覗いていたところ、足輪が目に入った。 「L5」は約20分間松阪さんから5メートルのところに留まっていた。 松阪さんは「再会を意識していてくれたのかも知れません」と嬉しそうだ。

  この記事は松阪龍起さんのホームページ「野鳥を守る会」からの転載です。




 渡り鳥 
 久し振りに武庫川へ行ってきた。久し振りと言っても、二週間と少しのブランクに過ぎないが、わたしの意識の中ではご無沙汰した思いなのだ。最近ではこんなに空けることは無かったのだが、その間わたしは気分も新たに、阪急夙川駅から一時間位で行ける北山緑化植物園の辺りを散策していた。今は山ツツジが美しい。

 武庫川提の桜は、ついこの間、その存在を大いに誇示したことを忘れてしまったかのように、今は静かに周りの新緑の景色の中に溶け込んでいた。武庫大橋近くの菜の花の群れはと見ると、その鮮やかな黄色の輝きはもう消えてしまっていた。しかし遅咲きの小さな群れは堤の数箇所に、或いは上流の方に今も見ることができる。また、昨年に植えられた種が芽吹き始め、今や色とりどりの花を咲かせている。中でもチューリップが特に印象的だが、わたしは金魚草が風に揺れている様にそこはかとない親近感を覚えた。

 今年の武庫川は昨年以上にいろんな工事がなされているようである。ダンプカーやブルドーザー、でっかいクレーン車を見ることなく歩くことはできない。その喧騒さに追い立てられたのだかどうだか、ユリカモメの姿は既に無くなっていた。

 今まで 見慣れていた景色の一部が欠けていることに、はたと気付いたときの寂しさは、後でじーんと効いて来るものだ。しかし、ユリカモメの場合、それには当たらない。前々から分っていた事を、今日確認したに過ぎない。シベリアに向かうユリカモメ達を見送る自分の姿を、今仮に想像してみたところで何になろう。大きな自然界の営みの中でそれぞれの生命がそれぞれのやり方で生きている。感傷の入る余地はまずないのだと思い知るべきであろう。

 右足を失ったユリカモメのことが思い出された。二度目に偶然、松坂さん(「釣り糸から野鳥を守る会」会員)にお会いしたとき、その話をお聞きした。右足は付け根の二センチを残して、水かき部分などが失われたユリカモメを見つけたのだそうだ。飛ぶことには影響はないそうだが、えさの捕獲は困難だろう。果たしてみんなと一緒に無事飛んでいったのだろうか。また舞い戻って来てくれるだろうか。

 武庫川の風景は変わり始めたが、流れる水は、その量と速さの変化こそあれ、おそらく絶え間なく、これからも流れ続けていくことだろう。

=== 【2000.04.28】 ===



 『孤独の歌声』 
 最近は山本周五郎賞受賞作品を読んでいる。今までに読んだことのない作家が殆どだ。天童荒太という作家もそのうちの一人。受賞作は『家族狩り』なのだが、まだ文庫化はされておらず、それですぐに見つかった『孤独の歌声』をまずは読んでみようかということになった。
 読んでみて、確かに面白かったのだが、何か心に引っ掛かるものがあるような感じが残った。何だろうか? ……自分なりにこの小説の世界を考えてみたい気になった。

 わたしがこの小説で一番印象に残っているのは、人間の声の質に言及した個所だ。それはこの小説のタイトルとも密接に関係している。
「で、今回鑑定を依頼されたテープの、若者の声の質は、私たちの分類では、<淋しい>にあてはまったわけなんですが」
「……それが珍しいんですか」
「いいえ、淋しさを感じさせる声は、数は少なくても珍しいものではありません。ただこの<淋しい>にも、ふたつの種類があると、アンケートによって発見され、音の質の上でも分けられたのです。ひとつは、淋しくてつらい、或いは悲しい、やりきれない……。ま、これがほとんどです。残る、もうひとつ。これは、本当に数が少ないん ですけど……淋しいんだけど慰められる、淋しいけれども励まされる、淋しいけれど勇気が出る……」
 淋しいけれど、慰められる声。このような声を有する人は歌手に多いのだそうだ。……孤独の歌声……自らを癒し他人にも癒しを与えられる声。そのような声を有する芸術家はごく少数だ。
 一方、他者との良き関係を構築することに失敗し、或いは創ろうという意欲もなく、一時の心の安らぎを求めて自分の世界に閉じこもってしまう若者は大勢いる。しかも彼らは、他人に認めてもらいたい、異性と対等に付き合いたいという思いを胸のうちに秘めているため、時にはどうしようもない淋しさや辛さや悲しさの入り混じった感情に捕らえられる。
 そのように錯綜する複雑な感情を抱えた現代人の孤独感こそが、この小説での主題なのだろう。作者は、二人の若者に同化する視点と一人の若者を対象化する視点で、大都会の暗闇の中に潜む<どうしようもない淋しさや辛さや悲しさ>の物語を展開させて行く。

       
 <おれ> …… 芳川潤平
 おれは夜十時から朝五時までコンビニでアルバイトしている。もう一年になる。おれは今小さな音楽事務所に籍を置いている。六週間に一度、自分のライブが持てる。ギターを持って三十分くらいしか歌えないが、自分の歌いたい歌をジャンルなど気にせず、ただ自分の想いのたけをぶつけている。その想いを共有してくれる人間にとどいてくれたらと願っている。
 おれは中学のとき、ずっと陸上をやっていた。短距離、四百リレーで県の記録を作った。高校は一年の途中で中退、そのときはもう音楽にのめり込んでいた。おれが上京してきたのは、親に我慢ならなくなったからでも、シャブ事件で仲間に濡れ衣を着せられたからでも、女に裏切られたからでもなかった。おれが唯一心を通い合わせることができた第二走者が交通事故で亡くなり、バトンを渡すことができなくなったからだ。おれは音楽の世界でバトンを渡せる第二走者を探しているのだろうか。おれが求めている音は、すごくきれいで、怖くて、悲しくて、残酷で、それがいいんだ、ひとりぼっちの音なんだけどさ……きっとひとりぼっちじゃないんだよ……。

 <わたし> …… 朝山風希
 わたしは中学時代のある事件を今もなお引きずっている。高校時代付き合っていた彼に二股をかけられ裏切られたことが尾を引き、わたしは大学時代、しばらく恋人はいなかった。しかしその後、音楽で食っていきたいと夢を語る男が現われ、わたしは夢に向かって戦うイメージに憧れていたのだと思う、彼とならわかりあえるかもしれないと思った。最初のうちは、期待もあって楽しかったが、親しくなっていくにつれ、<おれのオンナだから>という態度が出るようになった。大学4年になると、彼は夢を捨て、就職活動を始め、大手の自動車会社に就職した。そんな彼とはきっぱり別れ、わたしは中学時代のあの事件に対するわだかまりからくる暗い夢を果たすべく、警察学校に入学した。現在、八王寺署に勤務している。

 <彼> …… 松田隆司
 彼は、母が妻子ある男性との不倫の仲で二度堕胎し、三度目に身ごもったとき、周囲の反対に抗した母の強い意志によってこの世に生を受けた。父親は単身赴任で他所で働いているのだと小さい頃から言い聞かされてきた。母は親の遺産があったので経済的には困ることはなかった。母は彼の為にすべてを犠牲にした。母一人子一人の生活。彼は母の意向に沿うように生きてきた。彼は成長するにつれ母の嘘に気付くようになったが、そんなとき母は自らを痛めつけるほど激しく嘆き悲しんだ。そんな母の姿を見ることは彼には恐ろしかった。母が喜んでくれさえすれば彼は幸せだった。
 彼は大学は理系で、優秀な成績で卒業し、教授の推薦で会社に就職した。会社で四年目に秘書課にいた女性と結婚した。妻は積極的なタイプ、彼の行動を促がし勧めるような性格で、母に似ていた。ここまでは順調だった。少なくとも彼の精神は母親に支えられ安定していた。
 異変は突如やってきた。一週間の新婚旅行から帰ってきたら……母は自殺していた。彼の母は北海道に引っ越していた不倫相手の男性、彼の父を訪ねて行って、少し前に心筋梗塞で亡くなっていたことを知り、それが 引き金になったしい。その後すぐに、母親の過去が妻に暴かれ、離婚を要求され、彼は完全に一人になってしまった。彼の異常な行動はこれを機に始まる。彼の異常な精神の錯乱が進行していく、失われた家族愛を実現しようとする恐ろしいまでの執着心、その残虐な暴力性を示しつつ……。彼は理想の家族愛を実現してくれそうな女性を拉致監禁し、強引に理想を押し付けようとするが、果たせず、殺人を繰り返している。


 「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」と言ったのは確か三木清であった。大勢の人間の『間』にある孤独とは、関係の喪失を意味する。関係が断ち切られたときに生じる不安感が孤独に伴う恐怖感を生む。この恐怖感はまた、生存への烈しいエネルギーを湧き立たせるのだが、社会との関わりの中で、正へも負へも流れていき、人間の魂を向上させることもあるが、堕落させもする。関係が頻繁に断ち切られる現代社会は、人間の魂にとって、病んでいく要素の多分に孕んだ危険な社会だとも言える。

 また、一人の人間の中に生じる孤独もある。つまり、自分の自分に対する関係をうまく結べない場合の孤独がそれであろう。自分で制御できない心の闇を見てしまった者の、所謂、自己不信から生じる孤独感である。朝山風希の場合、それに当たる。彼女が今も拘り、罪の意識すら抱くに至った<中学時代のある事件>とは、彼女の幼友達が補導員を装った男に連れて行かれ、死体となって帰ってきた事件だ。
 わたしは、自分のほうが一緒に男と行くべきだと思いながら、そうは言えなかった。 ……… 男はどちらでもよさそうだった。「君は保護者を交番まで連れてきなさい」と、わたしたちふたりの中間あたりを指さした。 ……… ゆりかが答えそうだった。わたしは怖かった。ひとりで残されるのは、絶対いやだった。とっさに、「わたしですか」と、彼女より先に答えていた。それで決まったのだ。ゆりかが連れ去られ、わたしがいまに生きているのは、そのときの答えだった。
 風希はこの心の秘密は誰にも話せないでいる。話して解決する問題でないことを彼女は十分に解っているからだ。自己保存本能というか、生存にまつわる業と言うべきものだ。罪の意識を感じている風希にとって、二度と犯してはならない、道は遥かに遠いかもしれないが、自分で解決するというか悟るしか途はない問題なのだろう。風希のこの暗い情熱は、隣の部屋の失踪した女性の探索に激しく彼女を駆り立てて行くのだ。
 このような風希の生き様に、潤平は次第に惹かれていくようだ。生存における業を苦しみながらも厳しく凝視してきた風希である故に、潤平は風希こそ自分のバトンを上手に受け取ってくれそうな人として、思い描くようになっていく。

 作者がこの物語を通して読者に伝えたい孤独の歌声とは何か? 作者が潤平に語らせている次のような思いではないだろうか。
 おれのなかに、ひとりの世界ではうかがい知れなかった、いのちの神秘への憧れが生じ、手にしてみたい、唇で味わい、歯に噛んで、全身でその存在と交わりたいという欲求が高ぶった。
 性的なものではなかった。もっと根源的な何か……。
 もしかしたら、おれが求めていたものは、たんに<つながり>とでも呼ぶべきものかもしれなかった。
 精神的な何かで、自分以外の存在と交わり、つながっていたいという強い想い……その果てには、自分自身という存在も失せてしまっていい、いやむしろ存在などという不自由なものから解き放たれ、存在のさらに上の高みへ進みたいという、希望……いや、もっと心の底からの渇望が生まれていた。知らないうちに、虚無が消えていた。

=== 【2000.08.05】 ===



 高野山散策 
 8月6,7,8日と高野山で三泊して帰ってきた。山の上は何と言っても涼しい。下とは十度近くの差があるらしい。今年の夏の休暇は涼しいところで過したい、という願望はかなえられたと言ってよいだろう。

 高野山で三泊してくると言うと、職場の同僚はちょっと意外な反応を示した、ようにわたしには思われた。中には明らかに茶化すような笑い顔をかえす者すらいた。別にどうという事でもないのだろうが、わたしは一瞬、心の中がざわつくのを覚えた。わたしの意識は一般的な意識とずれているところがあるのだろうか……。
 ここ二、三年ずっと行っていた利賀フェスティバル(富山県利賀村で催される演劇祭)は日程が合わず、今年はどうしようかと思っていたとき、何気なく”高野山”という言葉が浮かんだのであった。そうだ!涼しくていい。山中を気の向くままに散策し、疲れたら、本でも読んで過そう。迷うことなく、そのように決め、インターネットで検索したところ、成福院という宿坊があったので宿泊の予約を入れたのである。
 その時点では宗教的な心は全く意識していなかった。わたしにそれほど強い宗教心があるわけはなく、若い頃に比べて多少はあの世の 存在に、半信半疑ではあるが、関心を抱くようになってきているな、と自覚している程度である。そのような宗教的意識の低いわたしなのに、どうして三泊もしに行くの?と問いかけられたように思ったのだろうか。何故に、同僚の反応に拘りを持ったのだろうか? 高野山で三泊も四泊もすると言えば、世間一般の意識からすれば、よっぽど信仰心の強い人だと思われても仕方がないのだろうか……。わたしは、たんに涼しいところで気楽に過してみたいと思っただけだったのだ。

 宿坊に着いて、どなたか供養される方がおられますかと訊かれたとき、はたと思い知らされたのである。高野山へ人はお参りにくるのだ。故人を偲び、故人を想い起こすために来るのだと自覚したのである。わたしは今の今まで亡き両親のことを全く意識していなかったではないか! 高野山には金剛峰寺が在って、空海(弘法大師)が建立したことくらいの知識はあったが、死者の霊を弔うため、人はこの山へ参拝にやって来るのだという意識が、その時わたしには無かったのだということに、はたと気付いたのであった。

 高野山へは今までに学校の林間学校か何かで一度くらい訪れたことがあっただろうと思っていたが、 そうではなかったようだ。今振り返るに、現実の高野山は行く前に抱いていたイメージとは随分違っていた。人口約四千人の、大小様々な自動車の行き交う近代的門前町なのだ、というのが信仰心の薄いわたしの第一印象であった。三日目にやっと自分なりの散歩コースを見つけたが、大門から奥の院までの幹線道路は都会の道路を歩くのと何ら変りはない。排気ガスをかまされるは、当てられそうになるは、一瞬たりとも気を抜いて歩けないのである。
 精進料理の質素な夕食を済ませ、テレビがあるので、ついつい観てしまい、昼間歩いた疲れのせいか、九時を過ぎると眠くなり、就寝。暑くはないので、比較的安らかに眠れたようだ。翌朝六時半には勤行が始まる。

 苅萱堂がある。”かるかやどう”………何処かで聞いた覚えのある名前だ。はて? 中に入ってみて、思い出した。
 わたしの母は生前、石童丸の絵本を孫に買ってきたことがある。母は漢字は読めなかった。ひらがなを一つ一つ拾うようにして読んでいた母の姿がわたしの脳裡に焼き付いている。
 昨年だったろうか、インターネットで検索してみたところ、大宰府を紹介したホームページに辿り着いた。石童丸の父親、苅萱道心 はもとの名を加藤左衛門繁氏といい、九州は筑紫六ヶ国の領主であった。故あって出家した父を、母と石道丸は高野山へ訪ねて行く。その話が紹介されていて、わたしはそのとき読んだはずなのだが、訪ねて行った場所が高野山であったということが、わたしの記憶から全く抜け落ちていた。
 ああ、そうだったのか。石童丸が訪ねて行ったのは、ここだったのか。高野山だったのだ。母があの絵本を何処で買ってきたのかと、今まで自分に問うたことはなかった。恐らくどこの書店でも売っているのだろうとでも思っていたのだろうか。しかし、ちょっと考えてみれば、わたしの母が本屋に入る訳がない。何処で買ったのかと疑問に思ってもよさそうなのに、今までわたしは考えもしなかったのだ。苅萱堂に入って、暫くして、ああ、そうか、あの絵本は母が高野山にお参りした際に、この苅萱堂で、或いは他の土産物店で買ったのだ。そう思うと、わたしは何故か心の中にジーンとしてくるものを感じた。

 わたしは、今回このような思いができただけで充分、この高野山散策はわたしにとって意義があったのだと思い、深く感謝している。合掌。

=== 【2000.08.10】 ===


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