ヒースクリフと孤独

=『嵐が丘』を読んで=


烈しい想像力は厳格な人格を創り
まろやかな想像力はおだやかな人格を創る
= 『詩作』より =


 ネリーがヒースクリフの死を確認した後で、あけたままの目を閉じてやろうとしたが、その目はなかなか閉じ ようとはしない。歓喜をたたえた凝視、ひらいた唇、鋭い白い歯、それらはことごとく、彼女の努力をあざ笑っている!  ここまで読み進んだ時、ぼくの心はドキリ!としてしまった。何故か? いや、ぼくの驚きは、ぼくの心の中にそれ程た いした根拠を持っていないのかも知れない。ただ死者は素直に目を閉じるものだというぼくの心の中の暗黙の了解性 が、その描写によって突如乱された、それだけのことだったのかも知れない。しかしこの小説を読んで、その箇所を おいて他にぼくの心を瞬時の火花のように動かした場面はなかったのだから、そこからまずこの小説を考える糸口を 探っていくしかないように思われる。
 本当は何にぼくは驚いたのだろうか? 閉じようとしないヒースクリフの目は 一体何を象徴しているのだろうか? 肉体を食い荒らしてまでも求めなければならない、彼の云う《天国》なるものは一体 何なのか? ぼくにはおそらくそれは実感不可能な世界であることだけは慥かなことだ。それにしてもぼくは何故驚いた のか? 修験者のように、己自身の肉体を徹底的に痛めつけることさえ辞さないヒースクリフの激情を、彼の目、ひらい た唇、鋭い白い歯に感じたからではなかったか。閉じない彼の眼には、《凄い》としか云いようのない意志力が噴出し ているような感じがする。
 それではヒースクリフとは一体何なのか? 彼の激情とは、如何なるもので、またそれは 何に起因しているのだろうか?
 この物語の筆者の姉であるシャーロットがヒースクリフについて興味ある見解を述べている。
ヒースクリフはある孤独な人間の感情を表していて、それはキャサリンへの愛ではなく、残虐で冷酷な感情、悪魔の 極悪な本性の中で煮えたぎり輝くようなパッション、苦悩の中核を形成するような炎、即ち、地獄にいる人の永遠に救わ れない魂なのです。(1850年版の序文より)
 この言葉は、ヒースクリフという人物をおそらく正確に射抜いているように思われる。ヒースクリフは孤独な人間の 極限の姿を示しているのだ。孤独とは、自己を取り巻いている諸関係の切れ目に顔を覗かせるもので、関係の 喪失を意味する。孤独には感傷はつきものであるが、その程度の孤独は、云わばゼイタクと云うべきで、必ず喪失され ないある関係の上に立っているか、或いはそうした関係を暗黙裡に前提している時に現れてくる関係の喪失である。 しかし、ヒースクリフの孤独は、感傷などの入り込む余地の全くない、完全なる関係の喪失、いやそれに能うかぎり近接 した時のそれであると思われる。しかし人間は、関係の喪失の極点で最後の関係付けをしない限り、生きてゆくもので ある。生きるとは関係付けの論理であるとするならば、意欲的な生は新しい関係付けの行為の中に実感されるであろう。 では、ヒースクリフの場合はどうなるか? その前に、リントンとヒンドレーについて考えてみよう。
 この二人は、自己を支える関係の世界が大きく崩れ落ちるという経験(どちらも妻の死によって)をしている。常識家の ネリーはこの二人を、暗礁に乗りあげた船の例を持ち出して、次のように説明している。即ち、リントンは、神を信頼し、 希望を持ち、不運な船の上で最後まで職責(父としての子供に対する責務)を全うしたが、ヒンドレーは、絶望し、船を 捨て、自ら堕落していった、と。そして実際の行いの面からみて、ヒンドレーの方を弱い人間であるとしている。これは 普通の生活者の眼から見れば当然のことである。
 さて、ネリーの云うように、リントンは神への希望(という関係付け)に生き、ヒンドレーは神への絶望、と云うよりは 堕落への道を歩んで行ったと云ってみるならば、ヒースクリフは一体どうであっただろうか?
 ヒースクリフは、希望とか絶望とかといった世界とはおよそ無縁な世界の住人であり、恐ろしい激情に支えられて 意志だけで生きている人間のようにぼくには思われる。嵐が丘の主人に浮浪児として拾われ連れて来られた時には 既にもう、人間の情愛とは無縁な世界にいた、いやキッパリと云えないまでも、そういう世界を暗示させるものを持って いた。それは、主人に買って貰った馬を、びっこになったからと云って、ヒンドレーに取り換えを要求した時の態度に 端的に現れている。自己の欲求の為には、主人の慈悲心を利用したり、自己の肉体の苦痛など、なんでもないことの ように感じられる人間であった。そして意地っ張りな人間でもあった。ヒースクリフは、生まれ落ちたその時から、世界 から見捨てられた永遠の浮浪児であり、神など信じ得ない、それ故に希望も絶望もない、シャーロットの云うように永遠 に救われない魂を持った人間である、と云えるかも知れない。
 ヒースクリフの場合、先の二人のように大きな精神的ショックを経験したのは、おそらく、キャサリンがネリーに、リントン の求愛を受諾した後の心の悩みを打ち明けているのを立ち聞きした時であった。
あっちの部屋にいるいじわるな兄さんがヒースクリフをあんなにいやらしい人間にしてしまわなかったら、 エドガーと結婚するなんて考えてもみなかったと思うの。でも今となっては、ヒースクリフと結婚したりしてはあたしまで 落ちぶれてしまうわ。
(工藤昭雄訳 講談社文庫 以下同様)
 ヒースクリフはこの時、おそらく生きながらの地獄の道を決定的に選んだのだ。それは正に死と隣り合わせであった が故に、意志だけでしか生きて行けない道であった。ヒースクリフにとってキャサリンとの関係の喪失は、ヒンドレーが そうであったように、彼自身の生存の根底を大きく揺るがせるものであった。しかしヒンドレーと違うところは、復讐という 地獄の道への関係付けを意志したという点である。ヒースクリフが堕落しいやらしい人間になったのは、主人の死後 ヒンドレーから虐待を受け、「朝早くから夜おそくまでこき使われたために、以前もっていた知識欲や、書物や学問への 愛情も消えてしまい」キャサリンにおくれをとって行った結果であってみるならば、ヒンドレーへの復讐は、ヒースクリフに とって自己に忠実な生き方であったと云えよう。しかし又これは恐ろしい道でもあった。ぼくたちはその時の彼の心の 中は知らされていない。三年後、彼は金を蓄え、教養を身につけ、以前とは見違えるような立派な紳士となって帰ってく る。その間の消息もハッキリと知ることは出来ない。しかしそんなことよりも、その間彼を引っぱって行った強大な意志の 持続力を感じるだけで充分であろう。がしかし、その意志は恐ろしい意志でもあった。彼はリントン家へキャサリンを訪ね て行った時、彼女に次のように話している。
さっき下の庭さきで待ちながら、こんな計画を考えていたんだよ―きみの顔をひと目だけ見よう、おそらく、 びっくりして目を見はり、うれしそうなふりをしてみせるだろう、そのあとでヒンドレーにむかしの恨みをはらし、法のやっか いにならないうちに自分で自分を始末しよう、とね。
 ということは、つまり、彼の三年間を支えた意志の中には、ヒンドレーへの復讐と、その後は自らの命を絶つ決意が含 まれていたのだ。それは正に悪魔の極悪な本性の中で煮えたぎり輝くようなパッション、生と死のギリギリのところから 噴出する炎のようなものであったろう。その後に見られるヒースクリフの冷酷無惨で恐ろしい残虐衝動も、生の極限で 生きている人間、即ち、常に死と隣り合わせに生きている人間にみられる悪魔のような孤独な魂の苦悩する極限から 発するものとしてしか説明することができないのではないだろうか。
 従って、ヒースクリフとキャサリンとの愛も、 単なる愛ではない。シャーロットも云っているように、ヒースクリフの感情にはキャサリンへの愛は含まれていなかった と見るべきだと思う。少なくともヘアトンと小キャサリンの間に見られるような相手への《優しさ》としての愛は含まれては いないと見るべきだ。
 キャサリンもヒースクリフ同様、孤独な魂をかかえていた。母の死、父の死、その後の兄ヒン ドレーの横暴、ネリーが「あのころの家の中の地獄のようなおそろしさは、とてもお話などできるものではございません」 と云っているように、息づまるような家庭の雰囲気…。そうした中でキャサリンは彼女自身の孤独を身につけて行ったに 違いない。キャサリンは、自己の不幸をヒースクリフの不幸にオーバーラップして感じていたのだ。従ってキャサリンと ヒースクリフの愛は、互いの孤独が互いの生存を支える根底の深いところで、共鳴し合う時に生じる愛であった。それ 故に「地中にあって永遠に姿をかえない岩みたいなもので、目を楽しませてくれることはないけれども、なくてはならない もの」として感じられ、キャサリンをして、「あたしはヒースクリフなのよ!」と云わしめるようなものであった。
 この物語の悲劇性の原因を先へのぼって考えてみるに、ヒースクリフという当時の社会の落とし子である異質な世界 の浮浪児が、アーンショウ家に連れてこられた結果であるとみられなくもないが、それよりももっと実質的なファクターと して考えられるのは、主人のヒースクリフに対する偏愛である。それを妬んだヒンドレーは「父を味方ではなくて圧制者と 考え、ヒースクリフのことを、父親の愛情と自分の特権とを横取りした者とみなす」ようになっていた。こうしたところから 物語の悲劇が進行していくという仕組みになっている。何故作者は、このようにこの物語の最初を設定したのであろう か? 作者の姉のシャーロットは次のようなことを云っている。
忠誠、寛大、忍耐、慈悲心等はイヴの娘達にあっては、美点として称えられるが、アダムの息子達にあっ ては、弱点となるという暗示ほど、エミリの心を動かしたことはなかったのです。
 これは作者にとってどのような意味を持っていたかは判らないが、ぼくには何か関係があるように思われる。
  最後に、この小説の現代的、二十世紀的意義を簡単に考えてみたいと思う。何故、この物語は、二十世紀に入って、 世界文学の古典として読み続けられているのだろうか? ごく大雑把に結論めいたことを云ってしまえばどうなるか? …
 現代は人間を取り巻く諸関係が非常に複雑であり、又、雑多な情報が本人の意図にかかわりなく、次から次へ と流入してくる時代である。人々は、確固とした価値観を掴み得ないで、右往左往している状態にある。強い意志を持っ て持って生きてゆくことが非常に困難なように感じられる時代である。そうした中で多くの人が、他人にはなかなか解って 貰えないような孤独をしょいこんでいるという状況ではないだろうか。従って、そうした読者のそれぞれの孤独がこの 孤独な物語の雰囲気と、そして、現代という時代の恐ろしさがヒースクリフの残虐行為の激しさと、それぞれ種々な形で 響き合うからではないだろうか。又、この物語には、強烈な意志の持続力がある。
 この物語は、非常に暗い物語 であるが、最後のところで、ヒースクリフのヘアトンに対する態度(彼はヘアトンの中に彼自身の人間をみたの だとぼくには思われるが)や、ヘアトンと小キャサリンの相互的な《優しさ》としての愛は、この暗い世界に射し込んでく る一条の明るい光線であった。