2021年11月18、19日

** 打 ち 上 げ 旅 行 **


18日(木)
11:00 泉ヶ丘若松台セブンイレブン集合&出発
阪和道「堺インター」 ⇒ 湯浅インター降りる
湯浅駅前駐車場 ⇒ 昼食「かどや食堂」
湯浅の街散策
国道42号線 ⇒ 海南市黒江
黒江の街並み散策
国道42号線 ⇒ 県道7号線
17時頃、「休暇村 紀州加太」チェックイン

19日(金)
10:00 チェックアウト
根来寺拝観
昼食は「のらや食堂」
道の駅「くしがきの里」
15:30頃 泉ヶ丘着



湯浅駅
しらす丼は美味かったなぁ! さて、腹ごしらえは済んだ。 さあ、湯浅の街の散策だぁ!!











深専寺









紀州湯浅は しょうゆの本場 名所古跡の あるところ



















江戸時代に使われた医術道具









ここで金山寺味噌(太田久助吟製)を買う





天保十二年創業 手づくり醤油














海南市黒江 うるわし館(紀州漆器伝統産業会館)









休暇村 紀州加太 にチェックイン
部屋から友が島を望む



淡島神社の方を望む

翌朝部屋から友が島を望む



 チェックアウト前、ホテルの一階から……










根来寺へ…
根来寺駐車場  向こうに「大塔」が見える…

参道に出て、「大伝法堂」へ……



根 来 寺
 根来寺(ねごろじ)は和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。 山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日 如来、開山は覚鑁(かくばん、興教大師)である。
 平安時代後期の高野山 の僧で空海以来の学僧と言われた覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)に高野 山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、 荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽 上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。さら に2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄 する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、 宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁 一門と反対派は対立しあうようになった。保延6年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳 院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が 発生。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった 豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。 豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。 覚鑁は3年後の康治2年(1143年)、円明寺で没する。それから1世紀以上後の正応元 年(1288年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃 から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。
 室町時代末期の 最盛期には坊舎450(一説には2700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を 数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧 によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が 作られた。このとき生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに織田信長、豊臣秀吉 に抵抗するが、天正13年(1585年)、秀吉により大師堂、大塔など数棟を残して焼討ちさ れた。江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと一部が復興された。
 昭和51年(197 6年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル 余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。また、発掘によって陶磁器、漆器、 仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。それら遺品は敷地内に建てられた「岩 出市立民俗資料館」で保管・展示されている。
 2007年現在、根来寺境内は近世以 前の閑静な佇まいが残されているが、近辺は先の「民俗資料館」や「岩出市立図書館」が 建設されるなど、文教地域化政策が岩出市によって進められている。さらに境内前面には、 大型道路(広域農道)が造られ、後背の山が砕石場になるなど周辺環境の乱開発が続け られていること、また、境内外れの市立図書館近くにラブホテルが存在することなど、根来 文化の保護・継承をめぐる課題は山積であるのが現状である。なお、地域灌漑用水地であ った大門池に市立図書館が建設されたことをめぐっては、先の課題による文教政策の見通 しの是非をめぐって賛否が分かれている。
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大伝法堂
県指定文化財。江戸時代後期の文政10年(1827年)再建。

大塔(多宝塔)
  国宝。高さ40メートル、幅15メートルの日本最大の多宝塔。「多宝塔」 とは二層一階建ての塔で、通例、初層(裳階)の平面が方形、上層が円形に 造られる。この塔も、初層の外見は方形だが、初層内部には円形の内陣が 造られており、円筒形の塔身の周囲に庇を付した、多宝塔本来の形式をとど めている。内部には12本の柱が円形に立ち、そのなかに四天柱が立っている。 解体修理の際に部材から発見された墨書により、文明12年(1480年)頃から 建築が始まり、半世紀以上経た天文16年(1547年)頃に竣工したと考えられて いる。また、基部には秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。
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大伝法堂

大師堂  大塔

大師堂



昔の六地蔵

現代の六地蔵



駐車場へ…



…くしがきの里でお土産を買い、家路へ…