二之丸御殿は元和3年(1617)に竣工したと伝えられ、元和6年初代藩主徳川義直が本丸御殿より
移った。藩主居住の殿舎であり、また政務を行っていた場所であることから、「御城(オシロ)」ともいわれた。
その後、多数の殿舎が造営された。 御殿内には「表御舞台(オモテオンブタイ)」と「奥御舞台(オクオンブタイ)」 という二つの能舞台が設けられ、藩主代替後の初入部の祝能、世嗣誕生祝能などが催された。また、 尾張徳川家は多数の能楽師を抱えていた。 こうした歴史を背景として、平成9年4月、名古屋城 正門南側に「名古屋能楽堂」が完成した。 |
名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615)に建てられました。
寛永11年(1634)には将軍のお城御殿として上洛殿が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、
昭和20年(1945)の空襲で天守閣とともに全焼しました。名古屋市では、平成21年(2009)1月から本丸御殿の
復元に着手し、平成25年5月には、 入口にあたる玄関、謁見の場である表書院などの公開を開始し、 平成28年(2016)6月には対面所と下御膳所を公開、 平成30年(2018)6月8日に全体公開ととなりました。 |
名古屋城は昭和5年(1930)、城郭建築における初めての国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の
名古屋空襲により本丸のほとんどを焼失しました。しかし名古屋のシンボルとして天守の再建を望む市民の
声は日に日に高まり、昭和34年(1959)ついに天守が再建されました。 再建された鉄筋コンクリート 造りの天守は、その外観は昭和実測図に基づき正確に再建されましたが、内部は焼失を免れた本丸御殿 障壁画(重要文化財)や武具や壁画を展示し、名古屋城の歴史を市民に紹介する博物館としての機能を果たし ました。 耐震性が低いことに対応するため、現在は天主閣を閉館しています。 |
現在の天守は、戦後、名古屋のシンボルとして再建された鉄筋コンクリート造りの建造物ですが、
再建から半世紀が経過し、設備の老朽化や耐震性の確保などの問題が発生しています。 そのような 課題を克服するとともに、特別史跡名古屋城の本質的価値の理解を促進するため、「金城温古録」や 「昭和実測図」、「ガラス乾板写真」など、現代に残された豊富な資料に基づき、天守閣の木造復元を 進めています。 |
東南隅櫓は本丸の東南に位置し、天守(戦災焼失)とほぼ同時期、慶長17年(1612)ごろに建てられた。
江戸時代には「辰巳(タツミ)櫓」と呼ばれいた。東西約11.8メートル、南北約13.8メートルを有する、大規模
な隅櫓である。一重目の屋根を付けていないため、外観は二重櫓に見えるが、内部は三階櫓である。
外観二重、内部三階の櫓は非常に珍しい。 2階の南面、東面に張り出した部分があり、千鳥破風 (三角形の小型の屋根)が付けられる。3階東側の屋根には、高級な意匠である軒唐破風(ノキカラハフ)(屋根が丸く 反った曲線状の破風)が入る。 『金城温古録』(江戸時代後期に編さんされた名古屋城の記録集成)によると、 御具足(オグソク)奉行(櫓に収納された甲冑の管理責任者)の役所として使用されていたが、火を使うことができず 寒さが厳しかったため、天保12年(1841)に南側の大手馬出(ウマダシ)内へ移動した。 |
築二百年と言われる旧家・中村家は江戸時代の商家のたたずまいをよく残しています。当家の 屋根にある屋根神様はこの地方独特の風習で、津島神社・秋葉神社・熱田神宮の三社を祀り、その お祀りは今も続けられています。ここは仏教系の秋葉さんで、静岡県綾井市の秋葉総本殿可睡斎 という寺院が本山です。鎮火防火の秋葉信仰は静岡県の秋葉神社から起こりましたが、明治の 神仏分離令で、仏教系の秋葉寺と秋葉三尺坊は可睡斎に移り、神道系の秋葉神社は火の神の「火 之迦具土神」を祀るようになりました。なお、中村家の秋葉神社は秋葉三尺坊大権現を祀って いますが、この祭神は室町時代以前に秋葉信仰で活躍した修験者のことで、天狗又は鳥天狗が白狐に 乗る形に象徴化されています。この辺りは円頓寺筋とつながって、昔はにぎやかな御本坊筋とも 言われました。 |