2016年11月7日(月)

** ぶらり〜真田丸跡地〜 **



13:53 地下鉄長堀鶴見緑地線・玉造駅

13:57-14:10 三光神社
14:25-14:50 興徳寺&心眼寺
14:55-15:10 真田山公園

15:30 環状線・玉造駅着



三 光 神 社
(由緒略歴)
 当神社は、大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と称したが、 全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となった。
 創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代 反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。


三光神社 本殿



真田幸村公之像
本殿はこの像の右後方

真田の抜け穴

真田山陸軍墓地
この墓地を抜けて、興徳寺&心眼寺へ向かう…

高野山 真言宗 興徳寺
心眼寺坂を下って心眼寺へ…

興徳寺の観音像の向こうが心眼寺

心眼寺

心眼寺境内にある幸村の墓を望む

真田幸村之墓
従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓

心眼寺前から心眼寺坂をまた興徳寺へ上って行く…

真田丸顕彰碑
向こうに見えるのは大阪明星学園の建物

興徳寺門前から真田丸顕彰碑を望む
顕彰碑の背後は大阪明星学園のグラウンド

真 田 丸 顕 彰 碑
 慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、 戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。父昌幸は慶長十六年六月四日に 九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に 入城した。
 幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが「真田丸」で、 幸村は慶長十九年十二月四日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の 大軍を手玉に取った。
 「真田丸」の場所については、元禄年間(1688年〜1704年)に作製された大坂三郷町 絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地である ことが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で 徳川方相手に大勝利を得たのである。

平成二十八年一月 天王寺区役所
協力 大阪明星学園
題字 脇 田 龍 峯


心眼寺、興徳寺、大応寺、伝長寺前を通り伝長寺の角を左に曲がる…
右手:真田山公園 左手:真田山小学校

真田山公園内を歩いて来て、元に戻って来る
真田山小学校方向

興徳寺裏から真田山陸軍墓地内に入り
三光神社境内にまた戻って来る

向こうの階段を上れば三光神社の本殿
三光神社を出て、JR環状線・玉造駅に向かう…