三 光 神 社 (由緒略歴) |
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当神社は、大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と称したが、
全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となった。 創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代 反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。 |
真 田 丸 顕 彰 碑 |
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慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、
戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。父昌幸は慶長十六年六月四日に
九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に
入城した。 幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが「真田丸」で、 幸村は慶長十九年十二月四日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の 大軍を手玉に取った。 「真田丸」の場所については、元禄年間(1688年〜1704年)に作製された大坂三郷町 絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地である ことが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で 徳川方相手に大勝利を得たのである。 |
平成二十八年一月 天王寺区役所 協力 大阪明星学園 題字 脇 田 龍 峯 |