おふさ観音の縁起 |
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おふさ観音は、高野山真言宗の別格本山のお寺です。 おふさ観音の本堂が建つこの辺り一帯は、かつて 鯉ヶ淵(コイガフチ)と呼ばれる大きな池でした。慶安三年四月早朝、土地の娘のおふささんが、池の辺りを歩いていると 白い亀の背中に乗った観音様が現われたそうです。そこで、この池に小さなお堂を建て、その観音様をおまつりしましたのが、 時代を経て現在のお寺へと発展してきました。庶民信仰の寺として現在も多くの方に支えられております。 |
バラまつり (入場無料) |
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※ 春のバラまつり 5月15日〜6月30日 ※ 秋のバラまつり 10月19日〜11月30日 おふさ観音では、訪れる方に心を癒して頂こうと、境内でたくさんのバラを育てております。人気のイングリッシュローズ をはじめ、現在では1500種類ものバラがお楽しみ頂けます。色とりどりのバラが咲く様子は仏様の世界に例えられ、 「花まんだら」とも呼ばれます。 日本庭園の中の茶房おふさでは、バラのジュースやハーブカレーなど期間限定メニューも ご用意しております。 |
風鈴まつり (入場無料) |
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※ 7月1日〜8月31日 大和の夏の風物詩として広く知られる風鈴まつり。 おふさ観音では、風鈴まつり期間中、境内に約2000個もの日本各地の 風鈴が飾られます。そもそも風鈴を飾る風習は、鐘の音が魔を払い、厄を払うという仏教思想から生まれたものです。おふさ観音 では、たくさんの風鈴の音色で厄払いをして、心身を癒して頂こうと「風鈴まつり」を開催しております。 期間中は、 日本各地の珍しい風鈴を集めた、風鈴即売会もしております。 |
牽牛子塚古墳 |
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牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越に所在する終末期古墳である。1923年(大正12年)3月7日、
国の史跡に指定された。指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。
「御前塚」と呼称されることもある。2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)
であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇と天武天皇の母とされる斉明天皇の陵墓である可能性が高まった。 以前より、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造で知られており、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后) の合葬墓とする説があった。また、1977年(昭和52年)から1978年(昭和53年)にかけて環境整備事業の一環として発掘調査がおこなわれており、 その際、実際の測量をもとにした実測図が作成され、円墳と報告されながらも八角墳の可能性が高いこともあわせて指摘されていた。 2009年9月より2010年9月にかけて、明日香村教育委員会による学術目的の発掘調査がおこなわれ、2010年(平成22年)9月9日、 村教育委員会は調査成果を発表した。 それによれば、墳丘は地震により崩落していたが、高さ約4.5メートルと推定され、版築による三段築成の八角墳であることが判明し、墳丘の裾 (すそ)は平面八角形状に削られており、対辺の長さは約22メートルにおよぶことを確認した。墳丘周囲では外側を八角形にかこむ石敷遺構が確認されており、 北西の裾からは三辺分の石敷を検出している。うち一辺(約9メートル)はほぼ完全なかたちで遺存しており、幅は約1メートルでブロック状の切り石が3列に すき間なく敷き詰められていた。石敷遺構そのものも、正八角形になるよう途中で約135度の角度で屈曲しており、上空から鳥瞰した場合、共通の中心をもち 大きさの異なる、墳丘部分3段、平地の石敷部分3列の相似八角形が重なるかたちとなる。石敷の外側には、さらに砂利が敷き詰められ、その部分も含めると 全体では32メートルほどの規模になると推定される。 また、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石やその破片が数百個以上出土しており、調査者は、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾 していたとしており、その総数は約7,200個におよぶと推定している。 墳丘一段目は一辺12.2メートル、対角線約33メートル、墳丘二段目は一辺約7メートル、対角線約18.5メートル、高さ4メートルである。 内部施設は、南にむけて横穴が開口するかたちの横口式石槨であり、2009年段階ではすでに一部露出していた。横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の 巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもので、巨石は約15キロメートル離れた二上山西麓より運搬したものと考えられる。 石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5センチメートルの仕切り壁に よって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。刳りぬき部分の規模は、幅1.41メートル、高さ1.01メートル、長さ0.63メートルである。 また、巨石の外側を取り囲むように丁寧な加工の施された直方体(縦2.7メートル、横1.2メートル、厚0.7メートル)をなす巨大なデイサイト製の切り石を 3点確認し、本来的には16点整然とならんでいたであろうことも確認している。 石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2メートルの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られている。 左右両室ともに天井は丸みをおびており、高さはともに約1.3メートルである。また、左室は長さ2.1メートル、幅1.14メートル、右室は長さ2.08メートル、 幅1.16メートルでほぼ同規模である。床面には長さ約1.95メートル、幅約0.78メートル、高さ0.08メートルの棺台(棺床)が削り出しによってつくられており、 これも左右両室とも同一規模である。閉塞石は内扉と外扉より成っていて、内扉は凝灰岩製で高さ約1.12メートル、厚さ約0.62メートル、 幅約1.47メートルであるのに対し、外扉は安山岩系の石材を用い、高さ約2.4メートル、厚さ約0.63メートル、幅約2.69メートルの大きさであった。 また、内側の扉の四隅からは方形の孔(あな)を確認しており、扉飾金具が装填されていたことが推定される。 なお、古墳全体に使用された石の総重量は550トン以上と考えられる。運搬には丸太(ころ)を用いても数百人、地面を引きずったとすれば1,400人もの人員が 必要であり、これについては、巨石を大勢で長距離運ぶこと自体に律令国家の権力を誇示する意図があったという見方がある。 |
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