2014年4月23日(水)

** 土佐の旅(1) 高知市内 **


8:20 梅田阪急バスターミナル (\6,150-)
12:40 高知駅バスターミナル

== 観光案内所 ==
13:15 とさ別館に荷物を置く
13:40-14:00 駅構内の「ウィリーウィンキー」で軽食
== 観光案内所で再度情報を得る(約10分) ==
14:24-35 はりまや橋
14:40-50 潮江(ウシオエ)橋(鏡川)
14:55 天神大橋(鏡川)
15:12-16:20 高知城
…………………………………………
15:30-16:00 天守閣&懐徳館(\420-)
…………………………………………
17:10 とさ別館着(夕・朝食付 \6,000-)
== 高知市桜井町1丁目11番34号 TEL: 088-883-5685 ==



高知駅前から南方向を望む
正面:路面電車 右手:観光案内所
真っ直ぐ行けば「はりまや橋」 そこから少し行けば潮江橋(鏡川)
潮江橋を渡り右(西)、鏡川沿いに上流方向へ行くと、天神大橋
天神大橋を渡り、こちら(北)に戻ると、高知城に達する…

観光案内所に再度入り、旧制高等学校があった場所を訊く…
高知は、私の恩師が青春の一時期を過ごした場所でもある

はりまや橋

「土佐の高知のはりまや橋で、坊さん、かんざし買うを見た」のよさこい節で有名。
 「はりまや橋」は、江戸時代の初期、堀川を挟んで商いを営んでいた播磨屋と櫃(ヒツ)屋がお互い に行き来するために架けた私設の橋がその始まりとされています。周辺の賑わいとともに、のちに 公共の橋となり、橋の上には十九文屋と呼ばれる小店などが並んでいました。五台山竹林寺の坊 さんが思いをかけた人のためにかんざしを買ったのは、橋の南詰東側にあった「橘屋」という小 間物屋であったと言われています。
 戦後に埋め立てられた堀川は、平成10年のはりまや橋 公園の改修にあわせて再現され、江戸時代のはりまや橋を再現した朱色の欄干の太鼓橋が架けら れました。それに加え、明治期に実際に使われていたものを再利用した鋳鉄製の橋、自然石で造 られた欄干を持つ昭和25年(1950)に架橋された現在の橋と合わせ、ここには時代とともに移り変 わった3本の橋が仲良く並んでいます。こうして、堀川はウッドデッキ沿いに四季折々の花が咲く、 親しみやすい水辺に生まれ変わりました。
 付近の商店街には全国的にも珍しい木造アーケ ードがあり、公園と一体となったイベントも開催されているなど、商店街を中心に周辺一帯を含 めた街めぐりも楽しめます。
 公園の南側に位置するはりまや橋交差点では、花壇などの整 備により、四季を飾る鮮やかな草花が街にうるおいをもたらしてくれます。観光の途中にひと休 みしたり、待ち合わせをするのに、よく利用されています。また、はりまや橋東側のビルの壁に からくり時計が設けられており、9時から21時の間の各正時によさこい節に合わせてからくりが 繰り広げられます。
歴史の道 史跡案内-5


はりまや橋から東方向を望む
カラクリ時計が見える

はりまや橋を望む(東方向)

潮江橋を渡り終え、天神大橋を望む
鏡川を上流方向(西)へ、堤を歩いて行く…

天神大橋から潮江橋を望む
私の恩師、五合庵烏有先生が旧制高校卒業時に創った詩が想い起される…

青 春 哀 歌

厳かに、落日(ユウヒ)
往還(ユキカイ)の愁眉と歓笑の上に
均しく
やすらいと慈愛を灑(ソソ)ぎ
いま、おごそかに暮れなんとす。

川添いの白楊の並樹
緑濃く、水に融(ト)け、雲に翳(カゲ)り
夕風の愛撫に、しづもりつつも
囁(ササ)やくは、歌哀(アワ)れ
ペルケオの調べか。

鏡川、清韻の中に、無言の啓示
世々、明暗の推移と多彩の歴史を
無心に流れて竭(ヤ)まず
ひと、おのがじし、思念(オモイ)もこもごも
すでに、啼鳥帰林
暮れのこる余光、わずかに赤し。

落日の静謐(ヒツ)のうちに
漫(ソゾ)ろゆく若人(ワコウド)ら
沈潜の山河の姿、その心とするも
蓬髪破帽の胸裡深く
もゆる情念の炎(ホムラ)やいかに―

ふと、誰か謳う「春の光の……」
感に堪えかねてや
期せずして、「搖(ユ)らめきて…」の熱っぽい唱和
その眼潤(ウル)み、その頬(ホホ)痙攣(ヒキツ)け
その口撓(シワ)り、声、歌とならず
熱涙に溢(アウ)れ、歔欷(キョキ)となりてつづく。

噫!今宵、追想(オモイデ)のかずかず
そを、美酒に泛べて
酔い来り、酔い去る哀惜の情切々―
仰ぎ見れば、南溟の空
いよいよ、深く、碧く
郷愁、唆(ソソ)るわが魂の故郷(フルサト)。

それかあらぬか
濃藍に沈む山脉(ナミ)の彼方より
喘(アエ)ぎつヽ、残照の名残を分けて
谺(コダマ)する奇しき声―
「若き日に、薔薇(バラ)を摘(ツ)めよ」と。

さわれ、紅顔の誇りやいづこ
かかる時しも、刻一刻
あヽ、去りゆく「影」
声限り呼べど応えず、ただ空(ムナ)し、詮(セン)なし。

よしや、無心の落日
跫音(アシオト)もひそやかに
惜しみても尚、余りある青春の悲愁をこめてか
いま、おごそかに
わが想念(オモイ)を杳(ハル)かに、空に映え、地にし映ゆるも……。


高知城 追手門に着く

山内一豊の銅像

 土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守 信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1573)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・ 浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国 (滋賀県)長浜2万石の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(静岡県)掛川5万石を領した。
 慶長 5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を 整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世し たただ一人の武将といえる。
 慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
 この銅像は大正2年(1913)に建設された 銅像の原形をもとにして平成8年(1996)9月20日に再建除幕された。


山内一豊の妻の銅像

 山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ、通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな 資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。
 幼い 頃父を失い、17、8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた 逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目 にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。
 また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒り こめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領 主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢婦人として知られている。元和3年(1617)12月4日、 京都で没、61歳。法号見性院。
 この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。


高知城

高知城(こうちじょう)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった城。別名鷹城(たかじょう)。
江戸時代、土佐藩の藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の 史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

 高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れ る鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。
 戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)または大高坂城と呼ばれる城が築かれ ていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、 土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中 山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。
 高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次 大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在これ らは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であ ると伝わる部材が収蔵されている。
 城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺に は、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっ ている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
 また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。
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天守閣&懐徳館

本丸・天守閣

 本丸は標高44.4メートル、変形の土地で総面積は約1,580メートルある。その中に天守閣をはじめとして 本丸御殿・東西多門櫓・廊下門・黒鉄門・納戸蔵などが配置され、外回りは銃眼のついた矢狡閤堀でつないでい る。本丸のすべての建造物が完全な形で残されているのは全国12の城郭の中でも高知城だけで、たいへん貴重な 遺構である。本丸の建物は慶長6年(1601)創建、享保12年(1727)火災のため全焼、寛延2年(1749)前後の再建であ るが、創建当時の規模をそのまま残している。天守閣の高さは18.5メートル。他の城郭にみられる天守台はなく、 北面の石垣から直接建ち上げる形にしており、入口は御殿に接している。建坪は168.18平方メートル、延べ面積 499.84平方メートルで、外観は四層であるが、内部は三層で六階になっている。最上階外側の四面には高欄のつ いた回り縁をめぐらし、外に出て展望することができるようになっている。
 二階大屋根と最上層にそれぞれ 銅製の鯱を置き、大屋根の南北に千鳥破風、第三層の寄棟部分は東西に唐派風を置くなど、外観を美しく見せる 工夫が各所に施されている。力強い軒先の反りも見事で、小規模ながら南海道随一の名城といわれた面影を今に 残している。


天守閣から東方向を望む
旧制高知高等学校、現県立高知追手前高等学校が見える

県立高知追手前高等学校
旧制高校にあのような時計塔(?)があったのだろうか…