2013年10月22日(火)

玉造稲荷神社〜坐摩神社行宮


11:00 地下鉄・玉造駅

== 道に迷い、10分位ロス… ==
11:20-50 玉造稲荷神社
12:05-20 難波宮跡
12:40 北大江公園
12:45-13:30 公園の西側近くの食堂で昼食
== 店の人に旧坐摩(イカスリ)神社跡地を尋ねる ==
13:40-50 坐摩(今はザマとも呼んでいる)神社行宮
14:00 地下鉄・天満橋駅着



地下鉄・玉造駅からすぐ近くにあるのに
道に迷い、10分ほど遅れてしまった…

玉造稲荷神社は大阪城の三の丸に位置する


玉造稲荷神社
玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)は、大阪市中央区にある神社である。旧社格は府社。
宇迦之御魂大神(稲荷神)を主祭神とし、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命を配祀する。

 社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。蘇我氏と物部氏の戦い の際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
 豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の戦火で荒廃し、 慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建された。元和元年の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年に 徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化 するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた。豊臣・ 徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。
 現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉造部の居住地で あったという伝承がある。昭和61年(1986年)、創祀二千年を記念して境内に難波・玉造資料館が開館した。
 現在の社殿は昭和29年(1954年)に造営されたものである。
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千利休を偲ぶ「利休井」

正面:秀頼公 胞衣塚大明神
(右手の境内)

難波・玉造資料館 & 豊臣秀頼の像

玉造稲荷神社を後にして、難波宮跡へ行く途中…

史跡 越中井 由来
 ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なりか知らない人が多いのではないでしょうか。
 ガラシャは細川越中守忠熊公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました。慶長五年(1600年)忠熊公が 徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守中、反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城に 人質にしようとしたが、ガラシャ夫人は聞き入れず、石田三成に取囲まれぜひもなく家来に首を打たせ、 座敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました。
 この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから 伝えられています。昭和九年(1934年)当時地元の越中町内会の人々相寄り、ガラシャ夫人の徳をしのび 顕彰碑を建立したものです。
 碑の正面表題の文字は徳富蘇峯先生の筆で、側面(左側)の由来説明 は京都帝大文学部長新村出先生の文です。
 改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮絶な最期を 想い起して下さい。
牧 村 史 陽 識
越 中 町 会
細川ガラシ ャ夫人顕彰  頌 徳 会


左手:難波宮跡 右手:大阪城

難波宮跡から大阪城を望む

難 波 宮
難波宮のことは史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は 不明なままであった。1913年(大正2年)大阪城外堀の南付近で数個の重圏文(じゅうけんもん)・ 蓮華文の瓦が発見されていたが、ほとんどの人は省みなかった。しかし、1953年(昭和28年)同所付近 から鴟尾(しび)が発見された。このことがきっかけになり山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会 の努力により発掘・調査が進み、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになった。1957年(昭和32年)南北 に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いと みられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。 つまり、686年(朱鳥元年)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと 推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)これ が回廊であることを確認。これを前期難波宮という。1961年(昭和36年)山根徳太郎らの発掘により、 聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根徳太郎は 発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり。」という発言を残した。
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難波宮跡を後にして、石町(コクマチ)にある旧坐摩神社へ向かう…

坐摩神社行宮(旧坐摩神社)
== いかすりじんじゃ 通称:ざまじんじゃ ==

北大江公園傍の食堂で昼食後
店の人に教えて貰い、ここに辿り着く
背後には、エル・おおさか(大阪府立労働センター)の建物が聳え立つ


 ここが石町と呼ばれたのは、旧坐摩神社の境内(現在は「御旅所」と呼ばれている)に、「神功 皇后の鎮座石」という巨石があるからだ。ステンレスの台に覆われてしまっているが、この石はいまでも 昔と同じ場所にある。神功皇后の話はあとから付け加えられたエピソードとしても、この話が女神の出産 にかかわる古い神話にもとづいていることは、ほぼまちがいがない。聖なる巫女が、太陽の光をはらんで、 神の子供を出産するという神話である。この世に神聖な力が出現する様子を、古代の人は大地のなかから 見事な石があらわれることとして、表現しようとしたのである。
 石町にある旧坐摩神社と、上町台地にあった古代河内王朝の王宮を結ぶ線を、生駒山地のほうに 伸ばしていくと、高安山にぶつかることになるが、その高安山に冬至の日に最初にあらわれた太陽は、 まっすぐ旧坐摩神社に光を届けるように、配置されている。つまり、旧坐摩神社のあった場所では、か つて、冬至の日に最初に光を迎える儀式がおこなわれ、その光を受けて巫女が神の子供を生むという ファンタジーが語られていた、と推察される。
中沢新一著 『大阪アースダイバー』



 その場所に祀られていた霊が、「イカスリ」と呼ばれたのである。イカスリ=居所知、ここに居る ことを知る、という意味である。ここに、河内王朝の重要な聖地が設けられ、ツゲという一族から特別 に選ばれた娘たちがイカスリ御巫(ミカンナギ)として、「大宮地之霊(オオミヤドコロノミタマ)」というものをお祀り していた。イカスリ御巫は、都が奈良に移ってからも、宮中では重要な存在であり続けた。彼女たちと ペアーになるイクシマ・タルシマの巫女が、国土としての島々の誕生を見守る役目を果たしていたが、 そうして生まれた国土とその上に建てられる家=宮の霊を、イカスリ御巫が祀っていた。
 イカスリには、二重の意味があった。イカスリには宇宙の中心である大宮の霊が祀られているが、同 時にそこは太陽の子供としての王子が生まれる産屋でもある。この大宮=産屋とは、特別な構造をして いなければならなかった。『古事記』には、そういう神聖な宮は、大地を深く掘って、そこに太い宮柱 を立て、屋根には高々とチギ(千木、またはヒギ)を上げなければならない、と書かれている。天に向 かってY字形に開いたチギをもつ、伊勢神宮などでおなじみのあの形である。
 大地の奥にひそんでいる潜在力が、現実の世界にあらわれるときには、我が身をひねって位相を変え、 そこからY字形に世界に向かって広がっていく、という古代建築の考えが、ここにはっきりと表現されて いる。
中沢新一著 『大阪アースダイバー』