聖徳太子碑 |
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この碑は、法興(ホウコウ)六年(596年)十月、道後温泉を訪れた聖徳太子が高麗の僧
恵慈(エジ)と大和の豪族葛城臣(カツラギノオミ)を従え、伊予の温泉に遊んだときに、太子は
霊妙な温泉に深く感動し、漢文体の文章をつくり湯の岡のかたわらに建られたと言われ
ている。 この道後温泉碑は、伊予風土記逸文のなかに載せられ、わが国最古の 金石文の一つとして非常に重要視され好者により、古くから探索をされているが今でも その碑は発見されていない。 |
道後温泉本館 四棟 |
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重 要 文 化 財 平成六年十二月二十七日指定 |
道後温泉本館は、北に神の湯本館、東に又神殿(ユウシンデン)・霊(タマ)の湯棟、南に南棟、西に
玄関棟が互いに接続して建つ複雑な構成をもつ。神の湯本館が明治二十七年、又神殿・霊の湯棟が
明治三十二年、南棟及び玄関棟が大正十三年の建築で、現在の姿は明治中期から昭和初期にかけて
整えられたものである。 神の湯本館は木造、三層楼で搭屋を設ける。又神殿は天皇や皇族の 方々の入浴に備えて建てたもので、浴槽を含めて当初の姿をよく保持している。神の湯本館及び又 神殿・霊の湯棟は、ともに棟梁坂本又八郎が手がけた。 本館は、複雑な屋根を持つ外観に特 徴がある。その姿は、古くから人々に親しまれた温泉場の明治以降の繁栄の様子をよく示しており、 わが国の温泉建築を代表するものである。 |
松 山 市 松山市教育委員会 |
湯 神 社 |
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祭神は、道後温泉を開いた大己貴命と少彦名命の二神である。 当社は、 延喜式内社で、社伝によれば、景行天皇が皇后八坂入姫と共に行幸の際に鷺谷の大 禅寺前に創建したと伝えられている。その後舒明天皇行幸に際し勅命により社殿を 新築した。 その後、国司、領主の尊崇を受け、神田や幣帛の奉献があったと 伝えられている。 大栄七(1527)年の地震で温泉が埋没した際に、須佐之男命 と稲田姫を祀る延喜式内社出雲崗神社境内(現在の冠山)に移され、いつしか合祀 して四社大明神と呼ばれるようになったという。 湯神社では、地震などで温 泉が止まるたびに、神楽を奉納して祈願してきた。宝永四(1707)年の地震では藩主 の名で「湯祈祷」が行われ、以後中断しつつも今日まで続けられており、正月の初 子の神事とともに世に知られている。 |
松山市教育委員会 |
伊佐爾波(イサニワ)神社 |
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延喜式内社で、祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。 社伝によると、仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社 で、湯月八幡とも呼ばれたという。 伊佐爾波という社名の起源は諸説あるが、… (略) … これに神聖、清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称と もされる。 当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、 加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所とな ったという。 現在の社殿は、松山藩松平第三代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬 (ヤブサメ)を成功させたお礼として建立されたもので、その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の 石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。 |
松山市教育委員会 |
放(ホウ) 生(ジョウ) 園(エン) |
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建武年間(1334-1336年)に伊佐爾波神社が現在のところに移されたとき、境内の御手洗川の
引水をたたえて池がつくられました。この池は「放生池」といい、聖浄の地とされましたが、現在
は埋められてこの公園となっています。 一羽の傷ついた白鷺が湧き出る湯で傷をいやしたのが、 道後温泉の始まりだという伝説に基づく、足跡の残った「鷺石」や明治24年から昭和29年に使用され た「湯釜」などがあります。 |
松山市 道後村めぐり 第12番 |