2013年4月20日(土)

道 後 温 泉


8:40 ターミナルホテル松山 チェックアウト
8:44 JR松山駅前 (\150-) 〔市電〕
9:03 道後温泉

== 道後温泉街&道後公園を散策 ==

11:08 道後温泉 (\150-) 〔市電〕
11:36 JR松山駅前
11:57 JR松山駅前 (\200-) 〔伊予鉄バス〕
12:07 丸山

12:12 松山総合公園内に入る
== 客谷古墳群を見た後、公園内を散策 ==
12:40 小雨がパラつき始める…
12:52 バス停着

13:03 丸山 (\200-) 〔伊予鉄バス〕
13:18 JR松山駅前
== 昼食&喫茶 ==
14:30 JR松山駅 (\6,700-) 〔JR四国バス〕
16:27-37 吉野川SAで休憩
17:14-22 淡路島SAで休憩
19:48 JRなんば港町高速BT




ホテル前にある市電の駅「JR松山駅前」を
発車して、約20分で道後温泉に到着
改札を出る
カラクリ時計が見える
カラクリ時計の後の建物:道後温泉観光会館
左手:道後商店街(ハイカラ通り)

正面奥:伊佐爾波(イサニワ)神社

案内所に入り、聖徳太子が訪れた湯について訊く
最初知らないと言っていたが、暫くして此処じゃないですか…と
… 椿の湯の辺りにそのような碑があったようです …
案内所を出て、ハイカラ通りを歩いて行く…

椿の湯
ハイカラ通りを二、三分歩いてここに来る
向こうに見えるのが求める太子碑だ!

聖徳太子碑
 この碑は、法興(ホウコウ)六年(596年)十月、道後温泉を訪れた聖徳太子が高麗の僧 恵慈(エジ)と大和の豪族葛城臣(カツラギノオミ)を従え、伊予の温泉に遊んだときに、太子は 霊妙な温泉に深く感動し、漢文体の文章をつくり湯の岡のかたわらに建られたと言われ ている。
 この道後温泉碑は、伊予風土記逸文のなかに載せられ、わが国最古の 金石文の一つとして非常に重要視され好者により、古くから探索をされているが今でも その碑は発見されていない。

その後、当地グルメ(とか)の雑魚天(ジャコテン)
が売られていたのを思い出し、ハイカラ通りへ買いに戻り、
右(この後ろ方向)に曲がり食べながら歩いて行く…

二、三分で道後温泉本館前に出る
正面は玄関棟、その左手は神の湯本館

道後温泉本館 四棟
重   要   文   化   財
平成六年十二月二十七日指定
 道後温泉本館は、北に神の湯本館、東に又神殿(ユウシンデン)・霊(タマ)の湯棟、南に南棟、西に 玄関棟が互いに接続して建つ複雑な構成をもつ。神の湯本館が明治二十七年、又神殿・霊の湯棟が 明治三十二年、南棟及び玄関棟が大正十三年の建築で、現在の姿は明治中期から昭和初期にかけて 整えられたものである。
 神の湯本館は木造、三層楼で搭屋を設ける。又神殿は天皇や皇族の 方々の入浴に備えて建てたもので、浴槽を含めて当初の姿をよく保持している。神の湯本館及び又 神殿・霊の湯棟は、ともに棟梁坂本又八郎が手がけた。
 本館は、複雑な屋根を持つ外観に特 徴がある。その姿は、古くから人々に親しまれた温泉場の明治以降の繁栄の様子をよく示しており、 わが国の温泉建築を代表するものである。
松    山    市
松山市教育委員会


神の湯本館を振り返る
木造、三層楼で搭屋が設けられている

湯神社への上り途中で
道後温泉本館を振り返る
南棟 神の湯本館の搭屋 又神殿(ユウシンデン)・霊(タマ)の湯棟


湯 神 社
 祭神は、道後温泉を開いた大己貴命と少彦名命の二神である。
 当社は、 延喜式内社で、社伝によれば、景行天皇が皇后八坂入姫と共に行幸の際に鷺谷の大 禅寺前に創建したと伝えられている。その後舒明天皇行幸に際し勅命により社殿を 新築した。
 その後、国司、領主の尊崇を受け、神田や幣帛の奉献があったと 伝えられている。
 大栄七(1527)年の地震で温泉が埋没した際に、須佐之男命 と稲田姫を祀る延喜式内社出雲崗神社境内(現在の冠山)に移され、いつしか合祀 して四社大明神と呼ばれるようになったという。
 湯神社では、地震などで温 泉が止まるたびに、神楽を奉納して祈願してきた。宝永四(1707)年の地震では藩主 の名で「湯祈祷」が行われ、以後中断しつつも今日まで続けられており、正月の初 子の神事とともに世に知られている。
松山市教育委員会


湯神社境内から階段(左手)を下りて来る
伊佐爾波神社(イサニワジンジャ)を望む
後ろ方向:道後温泉駅


伊佐爾波(イサニワ)神社
 延喜式内社で、祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。
 社伝によると、仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社 で、湯月八幡とも呼ばれたという。
 伊佐爾波という社名の起源は諸説あるが、… (略) … これに神聖、清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称と もされる。
 当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、 加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所とな ったという。
 現在の社殿は、松山藩松平第三代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬 (ヤブサメ)を成功させたお礼として建立されたもので、その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の 石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。
松山市教育委員会


伊佐爾波神社前から松山城を望む
階段を下り、真っすぐ行くと道後温泉駅に通じる

伊佐爾波神社の階段を下り、湯神社への階段前を通り…
十字路に出て、左手方向
湯築城(ユヅキジョウ)跡(道後公園)を望む

湯築城跡の展望台から松山城を望む
(3倍ズーム)

足湯

放(ホウ) 生(ジョウ) 園(エン)
 建武年間(1334-1336年)に伊佐爾波神社が現在のところに移されたとき、境内の御手洗川の 引水をたたえて池がつくられました。この池は「放生池」といい、聖浄の地とされましたが、現在 は埋められてこの公園となっています。
 一羽の傷ついた白鷺が湧き出る湯で傷をいやしたのが、 道後温泉の始まりだという伝説に基づく、足跡の残った「鷺石」や明治24年から昭和29年に使用され た「湯釜」などがあります。
松山市 道後村めぐり 第12番