清荒神清澄寺略沿革 |
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清荒神清澄寺は、今をさかのぼること千百年、平安時代の初め、宇多天皇の
創意による理想の鎮護国家、すなわち諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、
万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建されました。 天皇は讃岐国の 名工、定円法眼に命じて曼荼羅の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平八年(896)に、 叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖としました。 まず、伊勢内宮・外宮など十五 神を勧請し、鎮守神として、三宝荒神社を祀り、蓬莱山七嶺七渓に荘厳な伽藍を造営し ました。そして宇多天皇より「日本第一清荒神」の称号を与えられ、蓬莱山清澄寺として 栄えました。およそ三百年の後、源平の兵火により灰燼に帰しましたが、勅令により建久 四年(1193)、源頼朝の手によって再興されました。それよりまたおよそ四百年の後の戦 国時代、再び兵火で荒神社を除く諸堂尽く焼亡しました。 江戸時代末期、一代の 名僧浄界和上(号露庵)の諸堂再興に続き、先々代法王光浄和上は昭和二十二年に 真言三宝宗を開き、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として新しく法幢をかかげ、創建以 来、連綿と続く栄光千年の法燈は一日も絶えることなく、今日を迎えています。 また 、世界の画聖富岡鉄斎翁との機縁により、鉄斎作品の蒐集を行い、国の内外で広く展覧 会を開催し、昭和五十年には、鉄斎美術館「聖光殿」を建設、一般に公開し、その入館料 は全額宝塚市へ図書購入費として寄贈しています。 |
●中山寺略縁起● |
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北摂の地に、紫の雲がたなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場です。
御本尊は十一面観世音菩薩でインドの勝鬘婦人(ショウマンブニン)の姿をうつした尊像と伝えられています。中古、 日本霊跡三十三所観音巡礼がさかんになると『極楽中心仲山寺』と称されて、中山寺は第一番札所ときまりまし た。後に花山法皇のおんとき巡礼の道順にしたがい、第二十四番札所となり、今日に及んでいます。 草創 以来、千四百年に及ぶ歴史をほこる中山寺は、多くの物語でかざられ、世に名高い謡曲「満仲」や歌舞伎「菅原 伝授手習鑑」は、平安中期に多田源氏満仲の信護をうけた時代の、当山にまつわる美女丸・幸寿丸の哀話から創 作されたものです。 中山寺は代々の皇室の崇信もあつく、安産祈願本邦随一の霊場として源頼朝をはじめ 武家・庶民より深く信仰され、ことに豊臣秀吉は当山に祈願して秀頼をさずかり、秀吉亡きあと秀頼は片桐且元 に命じ伽藍を再建しました。これが即ち現在の伽藍です。 幕末、明治天皇御平産祈願のおんこともあって、 いよいよ霊徳を高め、全国から集まる大勢の参詣者で毎日にぎわっております。 |
== 中山寺 発行パンフレットより == |