2012年4月8日(日)

** 恩智越え〜信貴山朝護孫子寺 **



== カッポ会・4月例会 ==
8:39 上本町 (\290-) 〔近鉄大阪線〕
9:00 恩智

9:25-35 恩智神社
== 恩智越え ==
11:30-12:30 信貴山展望台 & 休憩
13:06-18 信貴山雄岳&信貴山城址
14:00 信貴山展望台近くを通過
14:45 信貴山下駅着

14:55 信貴山下 (\150-) 〔近鉄生駒線〕
14:58 王子
15:20 王子 (\380-) 〔JR大和路線〕
15:57 天王寺



恩智神社は、初め天王の森にあったが、
中世、恩智城築城時にこの奥地に移された
1300余年の歴史を持つ古社

恩 智 神 社
御祭神 大御食津彦(オオミケツヒコ)大神 (天児屋根命の五世の孫)
      大御食津姫(オオミケツヒメ)大神 (伊勢神宮外宮豊受姫大神)
      天児屋根命(アメノコヤネノミコト)  (元春日)

由 緒
 当神社の創建は大和時代(407年頃)と伝えられ凡そ1500年余の歴史を有する古社で、延喜式内名神大社である。
  古くから朝廷の崇敬厚く、持統天皇の元年(689年)十月に行幸されて以来、称徳天皇天平神護景雲二年(768年)には、
河内・丹後・播磨・美作・若狭の地三七戸を神封に充てられ、文徳天皇嘉祥3年(850年)十月に正三位、清和天皇貞観元年(859年) 正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式名神帳に登載される。以後醍醐天皇、 村上天皇の御字の大旱ばつに勅使参向して祈雨をされ、その霊験があり、それぞれ蘇生したと伝わる。また、一條天皇正暦五年(994年) 四月に中臣氏を宣命使として幣帛を奉り、疫病等災難除けを祈った。これが当神社の御祓祭(夏祭)の始まりとされている。
 江戸時代の終わりまでは奈良春日社の猿楽は当神社が受け持ち、この猿楽座に対して春日社より米七石五斗と金若干が奉納さ れていた。
 尚、三代実録によれば当神社は河内國下水分社といわれ、その霊水(清明水)は現在も湧き出ている。


恩智神社横のハイキング道を上り、恩智越え…
2時間弱歩いて、信貴山朝護孫子寺境内に入る

本堂を望む(3倍ズーム)
山上では、桜の開花は4、5日後だろうか…

信貴山展望台を望む
(休憩&昼食)

展望台より雌岳&雄岳を望む
雄岳山上には信貴山城址がある

信貴山 朝護孫子寺
今から千四百年余年前、蘇我−物部戦争において、
聖徳太子はこの山に来て、戦勝の祈願をすると
頭上に毘沙門天王が出現し、必勝の秘法を授けられた、
奇しくもその日は寅年、寅の日、寅の刻であった、とある。

信貴山朝護孫子寺本堂(毘沙門天王)を望む

雄岳山上へ向けて…
きつい上りも、!・ナ・ン・ノ・ソ・ノ・!

信貴山雄嶽(433m)にある空鉢堂から
葛城、金剛山方向を望む

雄岳山上から生駒山を望む

信貴山城址

信 貴 山 城
 標高433mの信貴山雄嶽を中心とする山城で、東西550m、南北700mに渡って120以上の 郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
 空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡が良く残り、 特に高櫓跡は著名で、中世末、織豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。
  信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは天智朝に おける高安城中心城域となり、中世には護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置 にあった。
 その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城として 整備される。
 天正五年(1577)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城、10月 10日に落城。
 その後、廃城となる。
平群町教育委員会