足 羽 山(アスワヤマ) の 由 来 |
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足羽山は悠久の昔より、郷土の人々と密接な繋がりを持ってきた。この山の各所に
点在する大小多数の古墳は、5世紀頃、山麓に生活した人々が、父祖の遺骸を葬ったもの
であるし、東北端の足羽神社は、千年以上も前の史籍に登場する古社である。中世末、朝
倉氏や一向一揆を討滅した織田信長や、柴田勝家の北庄城を攻囲した豊臣秀吉は、この山
に本陣を置き、軍兵を指揮したと伝えられる。近世以降、名石「迹谷石(シャクタニイシ)」の採掘
がこの山で本格化し、幕府への重要な献上物となり、また、点在する古社寺を中心に、山中
随所に名物を商う茶屋が出現し、城下士民の遊息の場となった。 足羽山が、今日の ごとく公園化されたのは、明治42年9月のことで、皇太子殿下(後の大正天皇)の本市 行啓を記念し、多数の市民児童の労役奉仕を得て、整備されたものである。 |
龍馬の歌碑 |
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文久3年(1863)5月、坂本龍馬は神戸海軍塾資金調達の為福井へ来た際に、ここ由利公正
(三岡八郎)宅■へ夜半にも関わらず、幸橋(文久二年架橋)を横目
に小舟に棹さして福井藩政治顧問・横井小楠と共に訪れた。そこで、肝胆相照らす仲となり福井藩
の挙藩上洛の話や、ニッポンの洗たくの話など熱い想いを歌に託し、この地にて謡ったと伝わって
います。 「そこで三人が炉を抱えて飲み始めたが、坂本が愉快極まって |
―― 君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行く末 ―― |
という歌を謡ったが、その声調が頗る妙であった。翌朝、坂本は勝と大久保に会いにいくと いう事で、江戸に向かった。」 (『由利公正伝』より) |
足羽(アスワ)神社 |
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継体天皇と坐摩神五柱(イガスリノカミ)を祭る、越前最古の歴史を有する神社。 皇嗣 となって越前を離れることとなった男大迹王(オオドノオウ)(継体天皇)が、自らの生霊を合祀し て、馬来田皇女(ウマクダノヒメミコ)を斎主としたことが始まりとされる。 境内の樹齢360 年のシダレザクラと参道のモミジは市の天然記念物。 |
継体天皇像と山頂古墳 |
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継体天皇の石像は、明治17年(1884)、内山甚四朗を中心とした石工たちが、多くの伝説に
語られる天皇の業績を顕彰するために立てた像である。笏谷石(シャクダニイシ)製で高さは4mを越える
立派な石像で、足羽山公園三段広場のシンボルとして広く市民から親しまれてきた。昭和43年(1948)
の福井大震災で倒壊したが、同27年に再建された。 継体天皇は、6世紀前半に在位し、名は 男大迹(オオド)という。日本書紀によると応神天皇五世の孫として天皇に擁立された。父は、近江(滋賀 県)の豪族彦主人王(ヒコウシオウ)、母は越前(福井県)の豪族の娘振姫(フリヒメ)とされ、父の死後は越前で 育ったといわれる。福井には、継体天皇による九頭竜川の治水、迹谷石の採掘等の伝説が数多く残され ている。 この石像の立つ三段広場と呼ばれる小丘は、実は直径60m、高さ10mを測る4世紀 に造られた古墳である。公園を造るときにその形を大きく削られてしまい、本来の古墳としての形を留 めていないが、円墳としては県内最大級で山頂古墳と呼ばれる。 山頂古墳は、図形の刻まれた石 棺(セッカン)、三角縁神獣鏡が二面出土していること、また、近年の発掘調査で、埴輪が置かれていたこと が明らかになり、その重要性は高く評価されている。 |
橋本左内像 |
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橋本左内は、幕末の福井藩士。 藩主松平春嶽(シュンガク)の右腕として、将軍継嗣問題、 外交問題について開国派として奔走。 他藩の志士とも交友が深く、薩摩藩の西郷隆盛は、 自分が年上にも関わらず「君を兄として仕える」とまで言い、左内の優れた才能に敬服していた という。しかし、安政の大獄により捕らえられ、26才の若さで斬首された。 |