甦る弥生の国邑(コクユウ) 国指定史跡 妻 木 晩 田 遺 跡 |
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妻木晩田(ムキバンダ)遺跡は、今から約2000〜1700年前に栄えた国内最大級
の弥生時代のムラの跡です。この遺跡は、弥生時代後半のムラの様子を知ることができる大切
な遺跡として、1999(平成11)年12月22日に国の史跡に指定されました。 現在、洞ノ原地区を中心に遺跡の一部を公開しています。みなさんに「妻木晩田のムラ」に生 きた弥生人の息づかいを感じていただけたら幸いです。 |
鳥取県教育委員会 |
洞 ノ 原(ドウノハラ) 1 号 墓 |
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むきばんだ遺跡で最初に造られた四隅突出型(ヨスミトッシュツガタ)墳丘墓です。墳丘の裾(スソ)
及び斜面には、ていねいに石を貼りつけています。北側の突出部がやや長く、踏石を並べて
墓道として使われたと考えられます。墳丘上には壺・甕(カメ)・高杯等の土器が供えられてい
るのが発掘されました。 時期:弥生時代後期初頭(約2,000年前) 規模:長辺6.5m、 短辺5.4m、高さ0.4m、突出部を含めた長辺は8.9m。 |
洞ノ原墳墓群(ドウノハラフンボグン) |
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洞ノ原地区には1世紀中頃から2世紀前半にかけて、25基のお墓がつくられました。
このうちの11基は、その形状から「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる山陰地方の有力者が好ん
でつくったお墓です。また、大きなお墓の周りに1辺1〜2mの小さなお墓がいくつもありま
す。大きなお墓に眠る有力者の子どものお墓でしょうか。 このほか、妻木晩田遺跡には 仙谷地区、松尾頭地区に墳墓群がありますが、この洞ノ原墳墓群はこれらのうち最も古いもの です。ここには「妻木晩田のムラ」を築いた人たちが眠っているのかもしれません。 |
洞ノ原地区西側丘陵ご案内 |
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洞ノ原地区西側丘陵は、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える2世紀以降、竪穴住居
がつくられ、人びとの生活の場となっていきます。現在、竪穴住居と倉庫を2棟ずつ
復原しています。 背景には豊かな平野と穏やかな美保湾が広がり、弓ヶ浜、島 根半島を望むことができます。 向かいにある壺瓶山(ツボガメヤマ)の麓から東に長 く延びる淀江の町並みは、かつての砂州に沿っており、弥生時代にはその南側が湖沼 となっていました。 「山島に依りて国邑(コクユウ)を為す」と中国の史書に記され た、弥生時代の集落景観を彷彿(ホウフツ)とさせる情景です。 |
鳥取県教育委員会 |
熊野大社「上(カミ)の宮(ミヤ)」跡のご案内 |
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この意宇川の川上五百メートル、御笠山(ミカサヤマ)の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。 熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上 の宮」「下(シモ)の宮(ミヤ)」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の形態をとりました。 「上の 宮」には紀伊国の熊野信仰の影響を受け伊弉冉尊(イザナミノミコト)・事解男神(コトサカオノカミ)・速玉男神(ハヤタマオノカミ) 等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大神(アマテラスオオミカミ)・須戔鳴尊(スサノオノミコト)等を祀る神社が造営さ れておりました。 明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社制度の改正を機に「下の宮」 であった現在の熊野大社へ奉遷合祀されました。 「上の宮」跡背後の御笠山の頂上付近からは、熊野 大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けられています。 また登山途中には、洗眼すると眼 病に効き、あるいは産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りると言う御神水「明見水(ミョウケンスイ)」が巨岩から 滴り落ちています。 |
熊 野 大 社 |
鑽火殿と亀太夫神事について |
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出雲大社とともに、古代出雲において最も格が高いとされる熊野大社がある。
熊野大社は出雲の国の一の宮であり、かつては意宇(オウ)川の川上にある天狗山にあったが、中世
以降に里に降り、「上の宮」と「下の宮」の二社となった。上の宮にはイザナミ、コトサカノオ、
ハヤタマを祀り、下の宮にはアマテラスとスサノオを祀っている。この祭神についてはいろいろ
議論があるが、本居宣長は、この神社の第一の祭神はスサノオであるとする。 熊野大社では 「鑽火殿(サンカデン)」が有名である。鑽火殿は、スサノオが檜の臼と卯木(ウツギ)の杵で火を鑽(キ)り 出す方法を教えたという。燧臼(ヒキリウス)と燧杵(ヒキリキネ)が奉安されている施設である。この鑽火殿 が脚光を浴びるのは、出雲国造(コクゾウ)である出雲大社の宮司が亡くなり、新しい宮司に代わると きである。出雲大社の新しい宮司は前の宮司が亡くなるや、直ちに熊野大社の鑽火殿に赴いて、 「火継(ヒツギ)」の式を執り行わねばならない。この鑽火殿で神聖な火をもらわないと、出雲大社の 宮司になれないのである。 また熊野大社では、毎年十月十五日に出雲大社の宮司がやって来 て、神器の燧臼と燧杵を頂戴する「鑽火祭」があり、それに先立って「亀太夫(カメダユウ)神事」 というユニークな神事が行われる。これは、熊野大社の社人(シャニン)である亀太夫が、出雲大社の宮司 が持ってきた神餅の出来ばえにケチをつけ、それに対して出雲大社の宮司が弁解するやりとりを神事 にしたものである。熊野大社の宮司、熊野高裕氏によれば、熊野大社の近くには代々この亀太夫を務 める一家があり、亀太夫は、毎年その時期になると、今年はどんなケチをつけようかと、この神事を 楽しみにしているそうである。亀太夫にとっては一年に一回のこの儀式ほど痛快なことはなく、出雲 大社の宮司にとってはこれほど腹の立つことはないであろう。 |
梅原猛著『葬られた王朝』…(P.51)… |