2011年4月28日(木)

** 古代出雲の旅(8) **

== 妻木晩田遺跡〜熊野大社 ==



7時過ぎにホテルを出る

7:27 松江 (650-) 〔山陰本線〕
== 8:03 米子 8:10 ==
8:26 淀江

8:35 出発
8:40 踏切を渡る
8:46 山陰道の下をくぐる
9:10-50 妻木晩田(ムキバンダ)遺跡 (洞ノ原地区のみを見学)
== 本日帰宅を予定、高速バス予約のため電話、しかし ==
== 14:30発はあと3座席、しかも松江駅まで行かないとダメ! ==
10:10 山陰道の下をくぐる ==小雨、ポトリ、、ポトリ、、==
10:18 淀江駅着

10:27 淀江 (\650-) 〔山陰本線〕
10:42 米子
== 待ち時間を利用して、米子駅前の旅行代理店で情報を収集する ==
== 日交の高速バスは米子発で切符購入可能、帰宅を明日に変更する ==
11:28 米子
12:02 松江

13:03 松江駅 (\420-) 〔一畑バス〕
13:25 八雲車庫
13:40 八雲車庫 (\200-) 〔八重コミニティバス〕
== 乗り合わせたお婆さんからいろんな話を面白く聴く ==
== 奉納された御餅にケチをつける話→亀太夫神事のこと ==
13:56 熊野大社 == 雨、既に降りだしていた ==

13:57-14:35 熊野大社

14:40 熊野大社 (\200-) 〔八重コミニティバス〕
14:52 八雲車庫
14:56 八雲車庫 (\200-) 〔一畑バス〕
15:00 風土記の丘入口 == 雨、もう止んでいた ==


== 昨日歩いた「はにわロード」を逆向きに歩いて行く… ==
15:35 八重垣神社着

15:35-50 八重垣神社

15:56 八重垣神社 (\250-) 〔一畑バス〕
16:15 松江駅
16:25 松江 (\480-) 〔山陰本線〕
17:02 米子

== 帰りの高速バスチケット購入 ==
17:20 米子ビジネスホテル



淀江駅からすぐに(5分位…)山陰本線の踏み切るを渡る
左前方の山が妻木晩田(ムキバンダ)遺跡だとは
この時点では自覚はなかった…
前方の土手のように見えるのは山陰道である
晴れていれば、右前方に大山が見えていたのかも…

山陰道

山陰道の下をくぐり、伯耆古代の丘公園を望む
時間があれば行ってみたかったのだが…
(大山はその左手方向、妻木晩田遺跡は(写っていないが)その左の方)

妻木晩田(ムキバンダ)遺跡・展示館
展示館には入らなかった…
時間に余裕(本日帰宅の予定)はないと思っていたので…
…洞ノ原地区は左手へ…

甦る弥生の国邑(コクユウ) 国指定史跡
妻 木 晩 田 遺 跡
 妻木晩田(ムキバンダ)遺跡は、今から約2000〜1700年前に栄えた国内最大級 の弥生時代のムラの跡です。この遺跡は、弥生時代後半のムラの様子を知ることができる大切 な遺跡として、1999(平成11)年12月22日に国の史跡に指定されました。
  現在、洞ノ原地区を中心に遺跡の一部を公開しています。みなさんに「妻木晩田のムラ」に生 きた弥生人の息づかいを感じていただけたら幸いです。
鳥取県教育委員会




洞ノ原地区はここも含めてずっと向うに続いている…


洞 ノ 原(ドウノハラ) 1 号 墓
 むきばんだ遺跡で最初に造られた四隅突出型(ヨスミトッシュツガタ)墳丘墓です。墳丘の裾(スソ) 及び斜面には、ていねいに石を貼りつけています。北側の突出部がやや長く、踏石を並べて 墓道として使われたと考えられます。墳丘上には壺・甕(カメ)・高杯等の土器が供えられてい るのが発掘されました。
時期:弥生時代後期初頭(約2,000年前)
規模:長辺6.5m、 短辺5.4m、高さ0.4m、突出部を含めた長辺は8.9m。

洞ノ原墳墓群(ドウノハラフンボグン)
 洞ノ原地区には1世紀中頃から2世紀前半にかけて、25基のお墓がつくられました。 このうちの11基は、その形状から「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる山陰地方の有力者が好ん でつくったお墓です。また、大きなお墓の周りに1辺1〜2mの小さなお墓がいくつもありま す。大きなお墓に眠る有力者の子どものお墓でしょうか。
 このほか、妻木晩田遺跡には 仙谷地区、松尾頭地区に墳墓群がありますが、この洞ノ原墳墓群はこれらのうち最も古いもの です。ここには「妻木晩田のムラ」を築いた人たちが眠っているのかもしれません。



洞ノ原地区西側丘陵ご案内
 洞ノ原地区西側丘陵は、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える2世紀以降、竪穴住居 がつくられ、人びとの生活の場となっていきます。現在、竪穴住居と倉庫を2棟ずつ 復原しています。
 背景には豊かな平野と穏やかな美保湾が広がり、弓ヶ浜、島 根半島を望むことができます。
 向かいにある壺瓶山(ツボガメヤマ)の麓から東に長 く延びる淀江の町並みは、かつての砂州に沿っており、弥生時代にはその南側が湖沼 となっていました。
 「山島に依りて国邑(コクユウ)を為す」と中国の史書に記され た、弥生時代の集落景観を彷彿(ホウフツ)とさせる情景です。
鳥取県教育委員会


上と同地点から視線を少し右へ
島根半島の先端に美保神社があるのだが…

帰路、山陰道をくぐる少し手前の地点から
妻木晩田遺跡がある丘陵を振り返る

八重コミニティバスに乗り合わせたお婆さんから
御餅にケチをつけるという面白い話等をお聞きしているうちに
バスはすぐに熊野大社の前に着いてしまう…

熊野大社の前を流れる意宇(オウ)川に架かる橋
左手:上流方向 この川の源流は熊野山(現在の天狗山)

熊野大社「上(カミ)の宮(ミヤ)」跡のご案内
 この意宇川の川上五百メートル、御笠山(ミカサヤマ)の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。
 熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上 の宮」「下(シモ)の宮(ミヤ)」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の形態をとりました。
 「上の 宮」には紀伊国の熊野信仰の影響を受け伊弉冉尊(イザナミノミコト)・事解男神(コトサカオノカミ)・速玉男神(ハヤタマオノカミ) 等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大神(アマテラスオオミカミ)・須戔鳴尊(スサノオノミコト)等を祀る神社が造営さ れておりました。
 明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社制度の改正を機に「下の宮」 であった現在の熊野大社へ奉遷合祀されました。
 「上の宮」跡背後の御笠山の頂上付近からは、熊野 大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けられています。
 また登山途中には、洗眼すると眼 病に効き、あるいは産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りると言う御神水「明見水(ミョウケンスイ)」が巨岩から 滴り落ちています。
熊 野 大 社


熊野大社
== 左手に鑽火殿(サンカデン)がある ==

鑽火殿(サンカデン)

鑽火殿と亀太夫神事について
 出雲大社とともに、古代出雲において最も格が高いとされる熊野大社がある。 熊野大社は出雲の国の一の宮であり、かつては意宇(オウ)川の川上にある天狗山にあったが、中世 以降に里に降り、「上の宮」と「下の宮」の二社となった。上の宮にはイザナミ、コトサカノオ、 ハヤタマを祀り、下の宮にはアマテラスとスサノオを祀っている。この祭神についてはいろいろ 議論があるが、本居宣長は、この神社の第一の祭神はスサノオであるとする。
 熊野大社では 「鑽火殿(サンカデン)」が有名である。鑽火殿は、スサノオが檜の臼と卯木(ウツギ)の杵で火を鑽(キ)り 出す方法を教えたという。燧臼(ヒキリウス)と燧杵(ヒキリキネ)が奉安されている施設である。この鑽火殿 が脚光を浴びるのは、出雲国造(コクゾウ)である出雲大社の宮司が亡くなり、新しい宮司に代わると きである。出雲大社の新しい宮司は前の宮司が亡くなるや、直ちに熊野大社の鑽火殿に赴いて、 「火継(ヒツギ)」の式を執り行わねばならない。この鑽火殿で神聖な火をもらわないと、出雲大社の 宮司になれないのである。
 また熊野大社では、毎年十月十五日に出雲大社の宮司がやって来 て、神器の燧臼と燧杵を頂戴する「鑽火祭」があり、それに先立って「亀太夫(カメダユウ)神事」 というユニークな神事が行われる。これは、熊野大社の社人(シャニン)である亀太夫が、出雲大社の宮司 が持ってきた神餅の出来ばえにケチをつけ、それに対して出雲大社の宮司が弁解するやりとりを神事 にしたものである。熊野大社の宮司、熊野高裕氏によれば、熊野大社の近くには代々この亀太夫を務 める一家があり、亀太夫は、毎年その時期になると、今年はどんなケチをつけようかと、この神事を 楽しみにしているそうである。亀太夫にとっては一年に一回のこの儀式ほど痛快なことはなく、出雲 大社の宮司にとってはこれほど腹の立つことはないであろう。
梅原猛著『葬られた王朝』…(P.51)…