八 重 垣 神 社 |
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八重垣神社(やえがきじんじゃ)は、島根県松江市にある神社である。旧称佐久佐神社(さくさじんじゃ)。
式内社(論社)で、旧社格は県社。意宇六社の一社。出雲國神仏霊場第十四番。素盞嗚尊と櫛稲田姫の故事から縁
結びの神社として信仰を集める。 祭神: 素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし、大己貴命、およ び『出雲国風土記』意宇郡大草郷条で須佐乎命の子として記載される青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ)を 配祀する。 歴史: 社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込 みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたという須賀(現在の雲南市大東町須賀)の地(須 我神社)に創建され、後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座したという。佐久佐神社という名 前は延喜式神名帳に記載されているが、式内・佐久佐神社は当社の他、同市大草町の六所神社も論社となっている。 元慶2年(878年)に正五位上の神階を授かった。佐草氏が神職として奉仕し、近世には八重垣大明神と称された。 明治5年(1872年)、佐久佐神社は八重垣神社を合祀して郷社に列格し、明治9年に県社に昇格した。明治11年に八 重垣神社に改称した。昭和56年(1981年)に神社本庁の別表神社に加列された。 施設: 社殿後方に は「奥の院」が鎮座し、「鏡の池」と呼ばれる神池や「夫婦杉」と呼ばれる2本の大杉、「連理の椿」がある。「鏡の 池」は稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映 したと伝えられるもので、良縁占い(銭占い)が行われる。社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池 に浮かべると、お告げの文字が浮かぶという手法。紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、早く沈めば、 早く縁づくといわれる。このため、軽い1円玉を使うのを避け、10円もしくは100円で占いを行う。また、紙の上をイモ リが横切って泳いでいくと、大変な吉縁に恵まれるという。1970年代ごろに、この「鏡の池」に賽銭泥棒が出没して以 来、池の底には目の大きめな金網が張られるようになった。 重要文化財: 板絵著色神像(本殿板壁画)3面 社伝では寛平5年(893年)巨勢金岡の作とするが、実際の制作年代については室町時代頃と推定されている。なお、神 像の描かれている板壁は、年輪年代測定法により13世紀に伐採された杉材を使用していることが判明しており、壁画の制作 もこの頃までさかのぼる可能性がある。 祭事: 例祭日は10月20日である。 5月3日の身隠神事は、 八岐大蛇退治の際に櫛稲田姫が奥の院に身を隠したという社伝に因むもので、本殿から奥の院の夫婦杉に向かって神輿によ る神幸行列が行われる。この行列を見ると良縁に恵まれるという言い伝えがある。12月15日に還幸祭が行われる。 |
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鏡 の 池 (縁結び占いの池) |
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出雲八重垣 鏡の池に 写す二人の晴れ姿 |
この池は、稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるため、森の大杉を中心に八重垣を造って御
避難中、日々の飲料水とし、又御姿を写され美容調整された池で神秘的な池で鏡の池(姿見の
池)といいます。 こんこんと湧き出る清水は昔ながらの面影をしのばせ、稲田姫命の御 霊魂が底深く滲透しているところから縁結び占いの池として信仰されております。 占い 用紙に百円か十円硬貨をのせ浮かべてお祈りします。用紙が早く沈む(十五分以内)と良縁が 早く、遅く沈む(三十分以上)と縁が遅いといわれ又近くで沈むと身近な人と、遠くで沈むと 遠方の人と結ばれるといわれております。 御神徳の広大な出雲の縁結びの大祖神であり ます八重垣大神さまの御加護により、良縁を得られ、二人の晴れ姿を、この神秘の森、鏡の池 に写され、末永く御繁栄されますよう念願いたします。 又池やその周辺は古代文化 埋蔵地帯として 国より指定されております。 |
出雲国造館跡推定地 |
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このあたりは古く意宇郡神戸里大庭保(オウノコオリカンベノサトオオバホ)と称し、出雲国造の本貫
(本籍地)であった。神戸里つまり神祭りのための土地というきまりは、古代末に至ると次
第に守られなくなってしまうが、その中の一保であった大庭の名は中世の文書にも続いて現
れてくるし、近世になるとこれがこの地方一帯の村名となって固定する。大庭とはおそらく
神聖な斎場という意味で、その具体的な施設がすなわち神魂(カモス)神社ということになるであ
ろう。 この大庭の地に出雲国造家がいつごろまでいたものかまたその館の地点がどこ であったかということについてはまだよく究められていないが、少なくとも延暦十七年(798) の国造郡領兼帯の禁が出るまではこの地を本拠としていたものであろうし、そしてその居館は 、神社や地名などから見るとき、やはりこの附近にあったに違いないように思われる。 その国造家は南北朝の頃以来千家・北島の両家に分かれるが、分かれてもなおこの地とは格別 の関係を維持し明治維新まではこの地に別館を設け、たいせつな祭儀のときには杵築(大社) からここへ出てきて行うという慣例をずっと守ってきた。その近世の北島御殿は現在の秋上(ア キアゲ)宮司家の北に、千家御殿は正林寺の北の丘上にあった。 |
神 魂 神 社 案 内 |
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御祭神 伊弉冊(イザナミ)大神 伊弉諾(イザナギ)大神 祈年祭 四月十八日 例 祭 十月十八日 新嘗祭 十二月十三日 当社は出雲国造の大祖天穂日命(アメノホヒノミコト)がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、 以来天穂日命の子孫が出雲国造として二十五代まで奉仕され、大社移住後も「神火相続式」、 「古代新嘗祭(ニイナメサイ)」奉仕のため参向されている。 本殿は室町時代初期、正平元年 (1346年)建立の大社造りで、その大きさは三間四方高さ四丈あり出雲大社本殿とは規模を異 にするが、床が高く、木太く、とくに宇豆(ウズ)柱が壁から著しく張り出していることは大社 造の古式に則っているとされ、最古の大社造として昭和27年3月国宝に指定されている。 本殿内は狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁画九面にて囲まれ、天井は九つの瑞雲が五色に 彩られている。 |
岡 田 山 1 号 墳 |
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ここにある古墳は前方後方形に築造された岡田山1号墳である。昭和45年に復原整備
工事がおこなわれているが、全長24メートル、後方部の幅14メートル、その高さは4メート
ルある。復原工事の際に、中段の葺石に沿って円筒埴輪がめぐらされていることなどがわか
った。 副葬品は大正十四年、中国製の内行花文鏡や、4本の大刀類、馬具類などが石 室内から発見されていた。その後昭和58年、元興寺文化財研究所に副葬品の保存処理を依頼 し、円頭大刀をX線調査したところ、刀身部分から銘文が発見された。 銘文に読まれた 額田部臣は「出雲風土記」の大原郡少領として名前がみられ、出雲在地の豪族の可能性も考 えられる。 額田部臣と直接関係するかどうかは不明であるが、副葬品の内容からみて、 この地方に大きな勢力を持つ人物であったと考えられる。 なお、1号墳は右にある円墳 (2号墳)とともに岡田山古墳と総称され、昭和40年に国の指定史跡になっている。 |
岡田山1号墳の横穴式石室 |
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銘文入円頭大刀や、内行花文鏡、馬具など、すぐれた副葬品がこの石室内から
発見され、梅原末治博士の報文(大正12年)により、その出土位置を、ほぼ知ること
ができる。 この石室は割石と自然石で築かれた両袖形の横穴式石室で、全長5.6 メートル、玄室長2.8メートルある。内部には家形石棺が安置してあり、その前に箱式 石棺様の石組がある。玄室入口に柱石が存在していることや、玄室の四壁が上方に向か って次第にせり出して長方形をなすように積み上げられていることなど、北九州地方の 横穴式石室に共通する要素を持っている。 |