荒 神 谷 遺 跡 |
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この史蹟は、昭和59年(1984年)農道予定地の発掘調査で全国最多の銅剣358本が出土、
翌年に隣接地で銅矛16本、銅鐸6個が出土し、日本古代史上最大の発見として大きな脚光を
浴びた遺跡である。これら弥生時代の青銅器郡が埋納されていたのは、仏経山(ブッキョウザン)(
『出雲国風土記』記載の神名火山(カンナビヤマ))から延びる山間の小さな谷斜面で、現在は発見当
時の状況が再現されている。 出土した銅剣はすべて「出雲型銅剣」ともいわれる中細型C 類とされるもので、全長50〜53pあり、うち344本には基部にX印が刻まれている。同型式の 銅剣は山陰地方でこれまでに3カ所11本が出土しており、地元産とする説が強く、この地方 の弥生時代を考える上で鍵を握る青銅器である。銅鐸は高さ約22〜24pの小型品6個で古い形 式である。銅矛は長さ70〜84pで、刃部を綾杉文に研ぎ分けた例があり、北部九州産と考えら れている。 青銅器が埋納された時期は、弥生時代中期後半から後期はじめと考えられて おり、いわゆる邪馬台国が登場する以前にあたる。この時期、ここに多種類の弥生青銅器が大 量にかつ一括して埋納されたということは、他に例がなく、出雲地域に近畿地方や北部九州と 同じほどの勢力が存在したということを証明するものである。また、学術調査で青銅器の埋め られた様子が確かめられた貴重な例でもある。出土青銅器は国宝に指定されている。 |
昭和62年(1987年)1月8日指定 |
平成12年(2000年)3月 島根県教育委員会 斐川町教育委員会 |
荒 神 |
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須佐男命 祭神 大地主命 健見名方命 伝承によれば、この地の古くは宮居(ミヤイ)の場であったということですが、中世の 戦国争乱などにより、いつしか忘れ去られていたようです。 それが、天保四年から 引き続いた大飢饉の最中の天保六年(1835年)西谷の人々が相集い、地域の人々の飢饉を救う 生活安全の守り神として、この宮居の地に荒神をお祀りしてご祈念したところ、神慮を得 て安穏に暮らすことができるようになった、ということです。 それから後、十一月 十三日を祭日とし、集落の人々が朝早くから頭屋の家に集まり、わらで大蛇を作りあげ、 赤飯、幣串(ヘイクシ)をお供えしてお祀りしています。 |
佐 太 神 社 |
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神在祭はオオクニヌシの葬儀に全国の神々が集まり、神議りをおこなう祭事なのである。それは
言葉を変えれば、オオクニヌシが日本海に身を隠して現身の人ではなくなったが、黄泉の王として再生
したことを祝う祭ともいえよう。この祭りは、出雲大社では旧暦十月の十一日から十七日まで七日間行
なわれるが、以後この神在祭の舞台は出雲大社から松江市鹿島町の佐太(サダ)神社に移され、こちらで
旧暦二十日から二十五日まで行なわれていた(現在は新暦十一月二十日〜二十五日)。 佐太神社 は三つの大社造りの壮麗な本殿が並び立つ堂々たる神社で、島根半島のほぼ中央にあり、「おいみさん」 「神在社」と通称される。古くから出雲大社及び熊野大社とともに出雲では最も尊崇される神社の一つで あり、してみると、佐太神社は神在祭の本家であるのかもしれない。神社の正中殿には土地の神様である 主神のサダ大神、イザナギ、イザナミ及びハヤタマ、コトサカノオが、北殿にはアマテラスとニニギ、南 殿にはスサノオと秘設四坐がそれぞれ祀られているという。 == (中略) == 佐太神社での神在祭が 終わると、翌日には、斐川町にある万九千(マンクセン)神社において、神議の締めくくりと直会が催され、明く る日の翌朝、万九千というほどの多くの神々がここから全国へ旅立ち、その年の神在祭はすべての終わり を告げる。 この手の込んだ神在祭は、『古事記』『日本書紀』に語られる国譲りの神話は決して架 空のことではなく、事実であることを末長く後世に伝えるものであろう。 このように『古事記』を 虚心に読むかぎり、出雲王朝がヤマトをも支配したことはほぼ確実であると思われる。…… |
梅原猛著『葬られた王朝』(…P.135…) |