神原神社古墳の竪穴式石室(移築) |
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ここにある石室は、もと現在の神社の北側にあった神原神社古墳の埋葬施設を移築したも
のである。古墳は昭和47年(1972年)、斐伊川の支流、赤川の拡張事業によって発掘調査され、
石室内部から景初三年(238年)の銘文を持つ銅鏡が出土している。この年号は、邪馬台国(ヤマタイコク)
の女王卑弥呼(ヒミコ)が魏(ギ)に使いを送り、銅鏡百枚を授かった年であり、卑弥呼の鏡を出土した
古墳として全国に知られることとなった。 古墳の墳丘は復元規模29mX25m、高さ5m以上の大形 方墳で、内部の石室はここに見るように多数の板石を積んで造られた竪穴式石室である。この石室は 内法で長さ5.8m、幅1m前後、高さ1.4mで、床には粘土が敷かれ、その上に長さ5.2mの割竹形木棺が置 かれた痕跡が残っていた。また、これらの下には排水溝や、朱と土器5個を納めた長方形の穴が発見さ れている。 棺内には多量の朱が認められ、三角縁神獣鏡(サンカクブチシンジュウキョウ)1面と武器や農工具 などの多量の鉄製品(素環頭大刀1本、剣1本、鏃(ヤジリ)36本、鍬先1点、鎌1点、鑿(ノミ)1点、斧2点、ヤ リガンナ1点、錐(キリ)2点、縫針(ヌイバリ)2点)が、棺外からは鉄拳1本が出土している。また、石室天井 石の上面からは祭祀用と考えられる壺やそれを載せる器台の破片が多数出土している。 この古墳 は古墳時代初期の典型的な特徴を備えており、山陰で最も古いものと考えられている。銅鏡や豊富な鉄 製品を入手することができた首長がこの地域に存在していたことは、出雲の古墳時代を語るうえで極め て重要である。また、南側丘陵にはこの古墳に前接する時期の小墳が多数存在し、そのひとつから県内 初の破鏡が出土し注目されている。なお、出土品は昭和55年6月9日に国の重要文化財に指定されている。 |
平成12年(2000年)3月 島根県教育委員会 雲 南 市 教 育 委 員 会 |
景初三年の銘のある鏡について |
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景初三年の銘のある鏡は、他に大阪府(私注:和泉市上代町(ワタシガウマレタトコロ))
の黄金塚古墳で出土した鏡が一枚あるのみであり、全国でただ二枚のみである。この鏡は中国では
出土せず、日本製の鏡であるという説がある。ただいずれにせよ、ヤマト朝廷が貴重なものとした鏡である
ことは間違いなかろう。 このような鏡が出雲で出土したことは、いったい何を意味するのであろうか。 おそらく前政権である出雲国は、いくら弱小化したとはいえ、古墳時代においてもヤマト朝廷にとって無視 できない国であったはずである。特にアヂスキタカヒコネの本拠地であった加茂の地は、出雲王朝の遺民が 多く住んでいた土地であり、気にかかる存在であった。だが、この遺民たちはいたって従順であり、特別な 制圧が必要とはされなかった。それでヤマト朝廷はそれをよしとして、この地の豪族であった神原神社古墳 の被葬者に、魏の王が卑弥呼に賜ったという景初三年の銘のある鏡を与えたのであろう。豪族はそのことを 栄誉として、鏡を抱いて永遠の眠りについたのである。そしてその古墳に葬られた豪族は子孫たちによって 神とされ、彼の眠る古墳の上に神社が建てられたのではなかろうか。 |
梅原猛著『葬られた王朝』(P.210) |