2011年4月20日(水)

** 今城塚古墳〜弁天山古墳 **



9:56 新金岡 (\310+\260) 〔地下鉄&阪急京都線〕
11:02 富田

11:08 JR摂津富田駅
11:38-12:15 今城塚古墳 & 休憩
12:27 名神高速の下をくぐる
== 弁天山へは上れず… ==
== 岡本山へは上れたが、何も無かった! ==
12:55 岡本山古墳の山を下りる
12:57 名神高速をくぐる
13:08 今城塚古墳
13:15-14:20 今城塚古代歴史館
15:00 富田駅着

15:08 富田
16:20 新金岡



如是川
駅から車道を行くと近いが、歩道は無く危険…
この川沿いに歩いて行く方が断然、良い!

今城塚古墳・前方部からの眺め
(阪急・富田駅から35分位で…)

枝垂桜
名神高速下をくぐり、南平台の住宅街を上って来て…

枝垂桜を背にして振り返る
左手へ上って行く…

弁天山古墳
階段が見えるので、上って行けるかも…

水道施設(この辺りから、と期待したが…)
入って行くことはできない!

水道施設から岡本山古墳を望む
向うに生駒山が見える

岡本山古墳に通じる階段だろうか…
何か説明書きがあるのだろうか…
と思ったが
残念!

名神高速下をくぐり
岡本山古墳を振り返る

今城塚古代歴史館の駐車場から
岡本山古墳(左)&弁天山古墳(右)を望む

岡本山古墳・弁天山古墳
 南平台の丘陵上に広がる住宅地の家並みの上に、緑の丘が 二つ並んでいます。名神高速道路沿いの南の丘が岡本山古墳、北 の丘が弁天山古墳です。
 岡本山古墳の墳丘は、尾根地形を 利用してつくられ、後円部径70m、全長120mをはかります。 一方弁天山古墳の墳丘は全長100m、後円部の直径は岡本山古墳 と同じ70mという特徴をもっています。これまでの踏査では、両 古墳とも墳丘に河原石が葺かれ、岡本山古墳では壷形埴輪らしい破 片が、また弁天山古墳では土器片があるものの、埴輪は並べられて いないことがわかっています。この事実から、岡本山古墳は3世紀 後半、弁天山古墳は岡本山古墳に続いて3世紀末ごろに築造された ものと推定され、南にひろがる平野部を本拠地とした三島の王の墓と 考えられています。
      == 「高槻市インターネット より引用 ==




上の写真の「現在地」から
今城塚古墳・後円部を望む

今 城 塚 古 墳(6世紀の大王墓)
 今城塚古墳は6世紀前半につくられた巨大前方後円墳です。学術的には継体大王 (ケイタイダイオウ)の陵墓といわれ、二重壕をふくむ全長354m。大王の権威と力を示すモニ ュメントとして、淀川流域随一の壮大な規模と威容を誇っています。
 10年間に わたる発掘調査では、墳丘内部の大規模な石積や排水溝、石室を支えた基盤工、そして 200体以上の形象埴輪が並ぶ埴輪祭祀場など、他に例をみない発見が相次ぎました。 また、海路を九州熊本から運ばれた馬門石(マカドイシ)を含む3種類の巨大な石棺や、金銀 で装飾された副葬品などの貴重な出土品がみつかっています。
 貴重な歴史遺産・ 今城塚は、整備事業を通じて恒久的に保存された、市民の学びと憩いの場になりました。 わたしたちみんなで大切にまもっていきましょう。

今 城 塚 古 墳
 今城塚古墳(いましろづかこふん)は大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある 6世紀前半では最大級の前方後円墳。国の史跡。

概要
 摂津北部、三島(みしま) 平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳である。三島野古墳 群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ち ょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓と なっている。
古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』 『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した 継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡と の深い関連が指摘される古墳である。
 真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前 《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳 を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指 定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の 太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、 継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。
 この大王墓が、6世紀に いたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和 ・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。

現況
 墳丘の荒廃が著しいことは、一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に 際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の 伏見大地震によって墳丘が崩壊したものとの見方が強まっている。同古墳は宮内庁から陵墓及び参 考地に指定されていないため、一般人が見学可能であるとともに、最近までは墳丘は近隣住人の散 歩道になってもおり、環濠は魚釣り場として利用されていた。 高槻市では史跡公園としての整備を 目指しており、1997年(平成9年)以降、そのための情報を得るための発掘調査を継続的に行ってい る。市は文化庁からの補助金と、市単独の予算で、2011年3月中の完成をめざして復元し、平成23年 3月26日に竣工記念イベントを計画しています 平成23年4月1日オープンの復元埴輪等を展示する史跡 今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳を一体的に公開し、世界に向けて歴史遺産として発信していきま す。

発掘調査
 発掘は、1997年(平成9年)から毎年、高槻市埋蔵文化財調査センターが 行っている。二重の濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀(はにわさいし)区が出土し、出土点数 や埴輪祭祀区の規模が日本最大のものである。埴輪祭祀区は、東西62-65m、南北約6mの広さで、家形15 、柵形25、蓋形4、大刀形14、楯形1、靱(ゆき)形1、武人形2、鷹匠(たかしょう)形2、力士形2、冠 帽男子1、座像男子4、巫女(みこ)形7、四足動物(馬形など)18、鶏形4、水鳥形13の合わせて113点 以上が出土した。なかでも家形埴輪は、高さが170cmもあり人の身長並みで、入母屋(いりもや)造りで、 神社建築の屋根を飾る鰹木(かつおぎ)、千木(ちぎ)があり、高床の柱を円柱で表現している。吹き 抜けの構造で神社とも考えられる。
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