2010年12月11日(土)

** 恋野地区・中将姫伝説 **



11:33 中百舌鳥 (\540-) 〔南海高野線〕
12:15 橋本
13:02 東家 (\200-) 〔橋本市コミュニティバス〕
13:18 恋野橋南

13:30 山王大権現
13:35-14:05 中将姫旧跡・雲雀山&糸の懸橋
14:20-27 恋野橋(紀の川)
14:32 橋本市立隅田中学校
14:34 JR和歌山線・踏切を渡る
== 大和(伊勢)街道を歩く… ==
14:57-15:06 阿弥陀森阿弥陀堂
15:09 JR兵庫駅
15:35 橋本駅着

15:45 橋本 (\540-) 〔南海高野線〕
16:25 中百舌鳥



バス停:恋野駅南より金剛山を望む

中将姫を求めて山の中腹を行く…

山王大権現
何かこちらを見ているようなものがあるが…

猿の石造物? …どのような謂れがあるのだろうか…

恋野橋を望む
金剛山は(見えないが…)右の方


雲 雀 山
 中将姫十四歳の春、継母の照夜の前の命令で、家臣の松井嘉藤太は、姫を板張りの 奥にのせて、奈良の都からこの雲雀山につれ出し姫を殺害しようとしたが、姫は「これ嘉 藤太や、私は日に六巻のお経を唱えている。このお経が終わればどうぞ首を討ち取ってく ださい」と、西に向かってお経を唱える罪もない可憐な姫をみて、さすがの嘉藤太も振り 上げていた太刀を捨て、姫を助け、(故に一名この山を太刀捨て山)麓を流れる去年川( こぞがわ)の奥の岩陰に草庵をつくって姫と嘉藤太夫妻の三人で、きくも悲しい、二年三 ヵ月間隠れ住みました。

「母を恋ひ 中将姫が 揚雲雀
             聞きけむ山ぞ 秋は紅葉す」

 歌  和歌山大学 名誉教授文学博士 田 林 義 信
 書  日 展 評 議 員 天 石 東 村
中将姫旧跡保存委員会
橋 本 市 観 光 協 会


糸の懸橋を求めて、あちこちと歩く…
あの橋の下の少し向うの方であった

やっと辿り着いた!


恋し野の里 中将姫旧跡 (奈良時代)
 中将姫の父は藤原豊成、母は紫の前で天平十九年(七四七)八月十八日に誕生した。
 五歳で母と死別し、七歳の時継母の照夜の前を迎えた。姫は容姿端麗で英智に富み、何ごとに も優れ、帝から中将の位を授かる。義弟の豊寿丸が誕生した頃から継母は姫を憎み、幾度も姫を 殺害しようとするが姫は助かり、さらに十四歳の春、父の留守中に家臣の松井嘉藤太に命じて紀 伊と大和の境の雲雀山で殺害させようとしたが、嘉藤太は罪もない姫を助けた。
 姫は十三 仏や里人達の温情に支えられつつ恋し野の里で二年三ヵ月間、色々な苦しみに耐えて、聞くも悲 しい生活を送った。そして、狩りに来た父と中将倉で涙の再会を果し、奈良の都に帰り、十七歳 のとき当麻寺で剃髪し、法如比丘尼(ほうにょうびくに)となって藕糸(ぐうし)曼荼羅を織り、 宝亀六年(七七五)卯月十四日、二十九歳で波乱であったが清らかな生涯を閉じた。
中将姫生誕一二三四年(昭和五十六年八月十八日)
平成九年三月吉日再建
中将姫旧跡保存委員会
橋 本 市 観 光 協 会


恋野橋(紀の川)

恋野橋から中将姫旧跡方向を振り返る

== 大和(伊勢)街道を歩く… ==
五条まで歩く予定を変更して…
橋本駅まで戻ることにする

大和街道沿いの阿弥陀堂
この前(11月3日)隅田八幡神社からの帰りこの街道を歩いたが
利生護国寺に寄ったので、ここは通らなかった…

阿弥陀森阿弥陀堂由来
 紀元六世紀比 日本は女帝多く邪僧政を執(?)り国民は貧窮した。その時大阪?の人 行基上人が単身自費をもって此の地にも布施場を作り阿弥陀佛を祀って貧窮者を救済した。
 第四十五代聖武天皇が東大寺建立の為に行基を奈良に留めて離さず、仍ってわが阿 弥陀堂の布施場もすたれたと認められ?。行基はその後間もなく八十二才で仙化した。
 その後江戸時代迄千二百五十年の間小祇と此の地を守ったのは境原の横?の一族である。
 明治末に白石明神を祠る人があった。
 昭和になり地蔵尊を祀ること??なった が、昭和六十一年阿弥陀森講が中心となり篤志家及び阿弥陀森住民は右の歴史に鑑み阿弥陀 佛の?蹟として整地の上 阿弥陀堂の改修と建立に奉仕した。
   昭和六十一年八月