高野街道 六地蔵第一 |
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ここ橋本市清水の地蔵堂は「紀伊続風土記」に「村の東域にあり高野山街道六地蔵第一といふ」
とみえ、当地から高野山までの6か所に地蔵があって、「高野街道六地蔵」と呼ばれていたことが知
れる。これは、江戸時代の後半頃に高野参詣の旅人の安全を祈念して置かれたものといわれ、当地を
第一とし、第二が橋本市南馬場、第三と第四が伊都郡九度山町河根の繁野と河根峠に、第五と第六が
伊都郡高野町西郷(?)の作水と桜茶屋と伝えられている。 それぞれが当時どのような規模で、 どのような地蔵が安置されていたか明らかでないが、旅人が一つ一つ手を合わせながら旅の安全を願い、 また、そのたびに近づく高野山に思いを馳せたことが想像される。こうした信仰の道に残された跡は、 かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産であり、高野山への登山口として発展してきた橋本市に おいても高野信仰と参詣道の関わりを示す貴重な文化遺産の一つである。 また、当地は平安末期 の歌人、西行が一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内に残されており、西行ゆかりの地と して「西行庵」とも呼ばれている。 平成18年2月 |
橋 本 市 教 育 委 員 会 清 水 区 |
船 越 喜 右 衛 門 |
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喜右衛門は文政5年(1822)学文路に生まれ、船頭をしていました。性格は豪胆で仁慈に厚く、
明朗痛快な人であったといいます。この喜右衛門が紀の川氾濫の危険も顧みず、舟を出して多くの
村人を救った偉大な功績は、今もこの地域の人々に語り継がれています。 嘉永5年(1852)7月、 紀の川に大洪水があり、当地南馬場の下田地区も一部の村民は危険を感じて近くの村へ避難したもの の、多くの村人は村の東のやや高い大師堂へ難を避けました。ところが、夜になって紀の川は益々増 水し、ついには清水と下田の間の百余間にわたる堤防が決壊して四十余の家が流され、さらに濁流は 山裾にまで及んで、村人の避難した大師堂を残して泥海と化してしまいました。しかし、紀の川の増 水はとどまることを知らず、流れてきた材木が堂に衝突したときなど、一度に悲鳴があがり、あたか も地獄のようであったといいます。 この時、学文路から救助の舟を出そうとしましたが、激流 のため二回も転覆しそうになり、恐れてこれ以上進もうとする者がなくなってしまいました。そこで、 喜右衛門は単身船を出して大師堂に漕ぎ寄せ、村人を乗せて無事帰着したのです。村人たちは互いの 無事を喜びあうとともに、喜右衛門の勇気ある行動に深く感謝したということです。 |
人魚のミイラと石童丸伝説 |
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加藤左衛門繁氏は、平安末期、筑紫の国の領主でした。繁氏は、表面上仲睦まじく振る舞っていた
妻桂子と千里の髪の毛の影が、互いに争い絡み合う蛇に見えたところから、二人の本心を知り、わが身の罪
の深さを悔いました。そして、領地も地位も捨て、高野山に上り修行の日々を送りました。 やがて 苅萱道心と呼ばれるようになります。 繁氏の息子である石童丸が14歳になったとき、出家した父 が高野山にいるという噂を耳にし、父に会いたい一心から、母千里と共に高野をめざします。当時の高野 山には「女人禁制」の掟があり、仕方なく母を学文路に残し、一人で父をたずね歩きました。そのさなか、 奥の院に架かる無明の橋の上で一人の僧と会いました。実はこの僧こそ、苅萱道心その人だったのですが、 浮世を捨てて仏門にはげむ苅萱道心は、「そなたのたずねる人は、すでにこの世の人ではない。」とだけ 話し、父親と名乗ることなく母のもとへ帰しました。 悲しみの中、学文路に戻った石童丸を待って いたのは、母千里が急病で亡くなったというさらに厳しい現実でした。石童丸は再び高野に戻って苅萱道 心の弟子となりましたが、生涯父子の名乗りをすることはありませんでした。 学文路苅萱堂には、 千里が肌身離さず信仰していた「人魚のミイラ」が収められており、苅萱堂の秘宝の中で最も謎に包まれた もので、人々の信仰を受けています。 |
== 橋本市観光協会のパンフレットより == |
苅萱道心・石童丸関係信仰資料 |
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石童丸(苅萱)物語は高野山の女人禁制の掟から生まれた悲劇で、中世以後、高野聖の一派である
萱堂聖によって全国に広められ、江戸時代には、説教節や浄瑠璃、琵琶歌となって広く世に知られた。高
野山の参詣口に位置する学文路の地は、この物語の舞台として、また、高野参詣の人々への物語の唱導の
場として賑わった。こうして庶民信仰化していった結果、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の像が
造られて、堂内に安置されるようになった。また、参詣人には、苅萱物語を素材としたお札が配られ、こ
れに因んだ絵馬などが奉納された。さらに、学文路苅萱堂では、絵解きが行われたとみられ、石童丸の守
刀、人魚、夜光の玉、銘竹など、この信仰にかかわった品々が今に残されている。苅萱の旧跡は、高野山
や善光寺にも残るが、学文路の地は、高野参詣口にあたること、物語の舞台となったことから、こうした
資料がこの地に残され、信仰されてきたのであろう。いずれにしても、苅萱の信仰が残したこれらの資料
は、高野山とのかかわりの中で、当地域の歩んできた歴史を物語る貴重な資料ということができる。 平成16年3月 |
橋 本 市 教 育 委 員 会 学 文 路 区 学文路 苅 萱 堂 保 存 会 |