2010年11月3日(水)

** 万葉飛び越え石〜隅田八幡神社 **

(隅田駅⇒橋本駅)



11:33 中百舌鳥 (\540-) 〔南海高野線〕
12:15 橋本

== 13:02 東家 〔橋本市コミュニティバス〕〜13:18 恋野橋南 ==
== 来ないので、確認すると、日・祝は運休!…迂闊であった… ==
== 紀の川の南側の集落をバスから見学し… ==
== 恋野橋から隅田駅への予定であったのだが… ==

14:05 橋本 (\180-) 〔JR和歌山線〕
14:10 隅田

15:25-35 万葉古道・飛び越え石
14:40-50 真土(マツチ)の街並み (14:46 真土山 極楽寺)
15:10 隅田八幡横一号橋(隅田川)
15:14-26 隅田八幡神社
== 大和(伊勢)街道を歩く… ==
15:55-16:02 利生護国寺
== 大和(伊勢)街道を歩く… ==
16:21 南海高野線の上を渡る
16:31 橋本駅着

16:33 橋本 (\540-)
17:13 中百舌鳥



隅田駅からここまで1分もかからない
真土(マツチ)山(であろう)への上り坂を…

上り坂の半ばで、振り返る
紀の川が左から右へ流れ、
その向こうが恋野地区なのだろう…

笠朝臣金村(カサノアソミカナムラ)作歌の歌碑

大君の 行幸(ミユキ)のまにま もののふの 
八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)と 出で行きし  愛(ウルハ)し夫(ツマ)は 
天(アマ)飛ぶや 軽(カル)の路より 玉襷(タマタスキ) 
畝傍(ウネビ)を 見つつ あさもよし 
紀伊路(キヂ)に入り立ち 真土(マツチ)山 越ゆらむ君は 
黄葉 (モミジバ)の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 
我れは思はず 草枕 旅をよろしと 
思ひつつ 君はあるらむと あそそには 
かつは知れども しかすがに 
黙(モダ)も えあらねば わが背子が 
行きのまにまに 追はむとは 
千(チ)たび思へど たわや 女の 
我が身にしあれば 道守(ミチモリ)の 問はむ答えを 
言ひやらむ すべを知らに と 
立ちてつまづく
万葉集 巻四−五四三
== 新潮日本古典集成より引用(歌碑と異なる個所有り) ==

その注釈に「旅中の解放感による夫の移り気を案ずる心
をおしはかりながら女の立場で述べた歌」とある…

金剛山方向
ここを下って、右手へ…
落合川の流れがあり、「飛び越え石」を見に…

金剛山方向
畦道に沿って下り右手へ行くと落合川へ…
   手前右下に犬養孝著『紀ノ川の万葉集』より抜粋された歌碑がある

石上乙麻呂卿配土佐国之時歌
石上(イソノカミ) 布留(フル)の尊(ミコト)は たわやめの まとひによりて
馬じもの 縄取りつけ ししじもの 弓矢かくみて
大君の みことかしこみ  天ざかる 夷(ヒナ)べに罷(マカ)る
古衣(フルコロモ) 又打山(マツチノヤマ)ゆ 還り来(エ) ぬかも
(巻六− 一0一九)

== 新潮日本古典集成より:注&訳 ==
石上乙麻呂:左大臣麻呂の第三子。天平11年(733)藤原宇合(ウマカイ)の
未亡人久米若売(クメノワカメ)に通じた罪で土佐に流される。
石上布留の殿様は、可憐なおとめの色香に迷ったために、馬のように
身には縄がかけられ、鹿のように弓矢で囲まれて、天皇の仰せを恐れ
畏(カシコ)んで遠い田舎へ下って行く。古い衣を又打つという真土山(マツチヤマ)
から、引き返して都へ帰っては来ないものだろうか。

落合川の飛び越え石
右:大和 左:真土山(紀伊)

真土(マツチ)の街並み
大和街道

隅田八幡神社へ向けて歩いて行く…

途中で隅田駅方向を振り返る

あれが隅田八幡神社の森だろう

隅田八幡神社(スダハチマンジンジャ)
主祭神 : 誉田別尊 足仲彦尊 息長足姫尊
創建 : 貞観元年(859年)  例祭 : 10月15日

 京都府石清水八幡宮から勧請された神社である。ここに伝わる人物画象鏡は、日本最古の金石文の ひとつとして国宝に指定されている。
 10月中旬の例祭は、県の無形民俗文化財に指定されている。
 永禄3年(1560年)、松永久秀によって社殿堂塔が一時焼亡したが、慶長年間に再建されている。
== フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ==


境内に人物画像鏡の大きなレプリカが見える

「隅田八幡神社人物画像鏡」を参照
 国宝に指定されている隅田八幡神社所有の銅鏡(東京国立博物館に寄託)。
 銘文に、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今 州利二人等取白上同二百旱作此竟」

 (癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の 宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱 を取ってこの鏡を作る)(判読・解釈には異説あり) とあり、

 「癸未年」 (503年)、「男弟王」が大和の「意柴沙加宮」(忍坂宮)にいたときに「斯麻」が鏡を作 らせて「男弟王」の長寿を祈ったことが記される。「斯麻」は日本書紀のみならず墓誌に も別称の記された武寧王であるとの見方が強まっている。「男弟(おおと)王」は 「男大迹(おほど)王」に比定することができ、その場合は継体天皇をさすと考えられる。 この解釈では、継体天皇は503年に大和の忍坂宮にいたこととなり、継体天皇が畿内勢力の 抵抗のため晩年まで大和盆地に入れなかったという見解は成り立たなくなる。ただし、 ヲホドとヲヲトでは、6世紀初頭では相当発音も異なっており、「癸未年」として443年を あてる考えもあるなど、さまざまな問題を含んでいる。
== フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ==


隅田八幡神社前からの眺望
地図によると、恋野橋(紀の川)方向となる
隅田駅は左手方向