旧高野街道 高野山五里道標石 |
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昭和56年8月28日指定 |
高野山へ向かう街道で最も古く、多くの人々に利用されたのが東高野 街道である。この街道は京都から八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、 河内長野から紀見峠を越え、町石道から高野山へ至るもので、その成立は 平安時代後期にまで遡(サカノボ)るといわれている。その後、堺からの西高野 街道、平野(大阪市)からの中高野街道がひらかれ、河内長野でこれらが合 わさって高野山へ登ることができるようになった。なかでも西高野街道は近世 に大いに栄え、今も堺の大小路橋を起点に高野山女人堂まで1里毎に道標石 が残る。これらは「南無大師遍照金剛」の文字とともに、高野山女人堂までの 里程が記され、高野参詣の人々はこれを見るたびに1里ずつ近づく高野に思い を馳せたことであろう。これらはいずれも幕末の安政4年(1857)茱萸木村(クミノキ ムラ)(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立され、すべて 現存する。この道標石は元々約300メートル南に建てられていたが、国道の建 設により現在地に移設された。橋本市にはこのほか紀見峠に六里道標石、東家 に四里道標石、学文路に三里道標石が残され、高野参詣の歴史の一端を今日 に伝えている。 |
平成16年3月 |
橋本市教育委員会 橋 谷 区 |