熊野古道 (熊野街道) 山 中 宿 (紀州街道) |
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この地は、和泉山脈から流れ出る山中川の渓流地帯にあって、雄山峠越えで
和泉と紀州を結ぶ古道が通っており、神武天皇の御東征の道でもあったといわれて
います。 古くは、「南海道」とよばれ、平安時代の中期頃から摂津和泉を経て、 ”紀州の霊場”「熊野三山」へ向う熊野詣の道となり「熊野街道」(熊野古道)「紀州街 道」ともよばれてきました。 「熊野詣」は平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに 行われ時の上皇御幸から公卿、庶民に至るまで多くの人々が参詣して「蟻の熊野詣」 と云われたほどです。 京から淀川を下り和泉から紀州を南下して熊野まで約百 里、往復25日の苦行の旅でした。その道筋に熊野権現の分身として設けられたのが 「熊野九十九王子社」で、山中村の域内にも「地蔵堂王子」「馬目王子」「長岡王子」の 三王子社があり、現在もその跡地が残されている。 また、当地には熊野街道(熊 野古道)で、一番険しい難所とされる「琵琶岸懸(ビワガケ)」があって、「石壁の上に聳(ソビ) え片岸(ヘキガン)、下に懸(カカ)れり行路陜阨(キョウアイ)にして動(ヤヤモス)れば車倒れ馬たおる」 (和泉名所図会)と紹介されています。 この熊野街道と山中川沿いに、古くから家が 建ちはじめ、平安の時代から江戸時代にかけて全盛をきわめた宿場町がここ山中宿です。 旅籠も本陣をはじめ20数軒あり、紀州徳川藩の参勤交代時には近郷より3千人もの 人夫、助人がこの山中宿に集り炊飯、運搬、補給などの仕事にあたった。 街道沿い の宿駅、馬継ぎ場として栄えた面影は、今も、残されています。 また、平成6年にはこ の山中渓地区内の旧街道は、国の指定する「歴史街道」として整備(石張、照明等)され、 永久に保存されることになりました。 |
山 中 神 社 |
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承歴3年(1079年)8月8日、澤四郎善眞が紀州の岡崎より、信仰する
八王子神(あまのほひの命)をもって当山中に移り住みこの地におまつりした。
後日、神のお告げにより当地の西北にある高山の頂上に社(八王子神 社上之宮で現在は跡地)を建ておまつりした。 この山中神社には、上之 宮より移記した八王子神(本地十一面観音)をおまつりする社と、馬目王子(熊 野古道九十九王子の一社)の社とがある。 元和3年(1613年)ごろ、この 観音は盗難にあったが、いつの間にか元の社にかえされていたといわれている。 |
旧庄屋屋敷(江戸時代) |
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この古い屋敷は、江戸時代中期の建物(筑后250年。一部補強改修)
で、当時の庄屋の屋敷である。 広い土間、数多くの部屋、太い梁の木 組、土蔵、煉瓦づくりのアーチ型の裏門、広い庭園など泉州路屈指の屋敷で ある。 庄屋は村の統率者で、組頭、百姓代と共に村方(むらかた)の三 役で、その最上位である。郡代、代官の命をうけて村の統治にあたり、村の 雑事から年貢の割当てなど責任のある仕事にあたった。 一般に関西で は庄屋といい、関東では名主とよばれていた。 |
子 安 地 蔵 尊 縁 起 |
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当所に安置し奉る子安地蔵尊は平安期嘉祥年間参議小野篁卿の
深き御信仰のもとに一刀三礼、御自作の(ヲ+大)霊?仏と伝えられ座像一尺五寸の
尊体なり。 爾来一千有余年、利益あまねく遠くは宇多法皇、後鳥羽上皇、 御嵯峨上皇、平城天皇、後白河院の諸帝御参拝あらせ給いし史実は熊野山 御幸記、大阪府誌泉州誌等の古記録に明らかな所です。往古この堂は琵琶 岸懸(ビワガケ)の辻にあり如何なる時にか炎上、その時奇しくも本尊は煙の中 より飛び去りこの地に安座し給ふ、後来ここに一宇を建立、地蔵院地福寺と号 するに至る。由来婦人と御産は天来の深き関係にあり一たび子を宿す者誰人 か無事安産を願はぬ者はありましょう。 然るに人力を尽しても、なを難産に 苦しみ、子なきを憂う者多々あり、これが救済はただ子安地蔵の(ヲ+大)霊?験に すがるよりほか道なくここに深き信仰が要求されるゆえんであります。 |
1月6日 白 地 座 行事 4月6日 花まつり 毎月6日 御 命 日 |