2010年3月27日(土)

** 男神社〜波太神社 **



10:36 堺市 (\540-) 〔JR阪和線〕
11:11 和泉砂川

11:37 泉南市役所&泉南中学校
11:50 双子池交差点
11:58 雄信(オノシン)小学校
12:00-37 男(オノ)神社
12:37-13:00 金熊(キンユウ)寺川堤で休憩
13:07-12 平野山 長楽寺(和泉西国第30番札所)
13:17 山中川・東打合橋
13:18 莵砥川・西打合橋
13:30 阪南市立東鳥取公民館
13:40-14:10 波太(ハタ)神社
14:10-13 鳥取神社(鳥取戎)
14:27 第2阪和国道の下をくぐる
14:29 莵砥川・下亀川橋
14:46 山中川・和泉鳥取橋
14:48 和泉鳥取駅着

15:05 和泉鳥取 (\540-) 〔JR阪和線〕
16:00 堺市



泉南市役所傍の交差点を左(ほぼ南西方向)に曲がり、
12、3分歩いてくると、たくさんのお地蔵さんのお迎えを受ける…
どちらでも道のりはあまり変らないが、右へ…

双子池から
男(オノ)神社の森&雄信(オノシン)小学校を望む

男神社へ向けて…
左手:雄信小学校


男 神 社 (おたけびの宮)
御祭神 彦五瀬命(皇兄) 神日本磐余彦命(神武天皇)
 配   天児屋根命     熊野速玉命

元府社男神社(オノジンジャ)は大阪府泉南市男里即ち古の呼唹郷(オノサト)の 地である延喜式内神社で、本殿には彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、神日本磐余 彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)を祀り、相殿には天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、熊野 速玉神(クマノハヤタマノカミ)を祀る。境内1万5千平方メートル(5千坪余)老樹鬱蒼 として幽邃絶塵(ユウスイゼツジン)の神域をなしている。その北方1キロ余の処に 摂社浜宮がある。本社の元宮で境内9千平方メートル松樹茂って海風に鳴っ ている。聖蹟雄水門(セイセキオノミナト)は即ち此の地である。神武天皇御東遷の砌 (ミギリ)孔舎衛坂(クサカノサカ)で長髄彦(ナガスネヒコ)と激戦した。此時、皇兄彦五瀬命 が賊の流矢に中って肱脛(ヒジ)に瘡(キズ)を負はせられ「吾(ア)は日神(ヒノカミ)の御子 として日に向ひて戦ふこと良(フ)はず、故(カ)れ賤奴(ヤッコ)が痛手をなも負(オ)ひつる、 今よりはも行き廻(メグ)りて日を背負ひてこそ撃(ウ)ちてめ」と仰せられた。よって血沼 (チヌ)の海即ち今の大阪湾を南進し紀伊に向わせられよとして、紀元前3年5月8日( 太陽暦6月20日)此の地に着き給ふたが、彦五瀬の御瘡いよいよ重(オモ)らせられた 命は剣の柄(ツカ)を堅く握られ「假哉(ウレタキカヤ)大丈夫(マスラヲ)にして被傷於虜手、報い ずして死(ヤミ)なむや」と雄詰(オタケ)び給ふた。よって此の地を雄水門(オノミナト)といふ。
       (後略)


男神社内の桜(満開間近…)

金熊(キンユウ)寺川 左手:男神社

男神社の森を振り返る
この男神社の森の土の中から
姫蛍(ヒメボタル)が今も毎年生まれ出てくる!…
という事をお聞きし、驚く…、とともに感動する…
土を掘り返したりしないで、自然のままにしていたからとのこと

平野山 長楽寺(和泉西国第30番札所)

長楽寺−平野寺跡(真言宗)
 創建等については明確ではありませんが、縁起は以下のようなこと が記されています。奈良時代に行基によって開設され、七堂伽藍(ガラン)の 巨利を造り一寸八部(約5.5cm)の胎蔵大日如来を安置したということです。
 その後、天正13(1585)年に豊臣秀吉が紀州の根来寺を攻めた時にこの寺も 焼かれ、伽藍がことごとく灰になったということです。一方、江戸時代に著わされ た『泉州志』という泉州の地理を扱った書物にも、「昔は金堂、大日堂、白山社、 大門及び六坊あり」と記されており、かなりの大寺院であったことが伺えます。
 実際に山内からは、平安時代から鎌倉時代のものと思われる軒瓦や鬼瓦が出土 しています。そのうちの数点が町教育委員会で保管されています。
 また、この 寺の本尊である十一面観世音菩薩像は、弘法大師の作と伝えられており、天正の 火災の時には単身向いの松の木に飛来したことから、この松を、「影向の松」と称さ れるようになったという伝説も残っています。
泉南ライオ ンズクラブ


波太(ハタ)神社


波 太 神 社
 鳥取氏の祖神である角凝命を桑畑に祭ったことから、「波太(ハタ)」 の名がついたものと思われます。
 正確な創建の年代はわかりま せんが、927年に完成した「延喜式(エンギシキ)」という当時の政治に関する 規則を記した書物には、鳥取郷の総社として記載がみられることから、そ の当時には既に創建されていたようです。
 桑畑から現在の地に移 されたのは、いつ頃なのかはわかっていませんが、貝掛の指出(サシデノ)森 神社を合祀し神々をひとつの神社に祭ることとしたため、本殿には波太宮( 祭神は角凝命)と八幡宮(祭神は応神天皇)が祭られ、末社三神社には天 湯河板擧命(アメノユカワタナノミコト)、神功(ジングウ)皇后、武内宿禰(タケノウチノスクネ) が祭られています。
 天正5(1577)年には織田信長の紀州雑賀攻めの時、 本陣がおかれたという記述が「信長公記」にみられます。
 所蔵品には大 阪府指定有形文化財「三十六歌仙扁額(カセンヘンガク)」があります。これは宮廷 絵師である土佐光成(ミツナリ)の作によるもので、元禄年間(1700年前後)の作 品です。
 本殿の前にある石燈籠は慶長5(1600)年の銘があり、豊臣家の 重臣片桐且元(カタギリカツモト)が寄進したものと伝えられています。
阪南ライオンズクラブ


元気にランニングしている4人の小学生に教えられ、
波太神社の裏手に咲いている桜を鑑賞する(本殿の方向)

本殿近くまで戻ってくると、また出会い、見送る…
あの桜の傍を通り、彼等の校庭へ戻って行くのだろう…
10月の秋祭りには、やぐら(地車と違い車輪が2つ)が
何台もこの波太神社に宮入りし、この道を引いて行くのだと言う…

波太神社鳥居前の桜の老木