美 多 彌(ミ) 神 社 | |
---|---|
祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・熊野大神・厳島大神・大国主命・
菅原大神・八幡大神・琴平大神・素盞鳴男命・天之水分大神(アマノミクマリノオオカミ)
を祭る。 当社の歴史は詳らかではないが、延喜式神名帳にも記されてい る古社である。天正年中織田信長の兵火にかかり焼失したが、文禄元年(1592) に至り和田道讃が本殿を再建した。近世では神仏混淆(シンブツコンコウ)となり牛頭 天王(ゴズテンノウ)と改称、神宮寺(得泉寺)と宮座もあって、宮座の長老が寺の僧 侶と共に社務を掌握していた。 その後神仏分離令により寺を廃止し、社名も 八坂神社と改称神官が奉職することになったが、明治の神仏合祀策により同40 年(1907)に付近の村社5社と無格社3社を合祀し社名も旧に復した。 社叢(シャ ソウ)は8,250uあり、しりぶかがし・あらかし・楠・榊等の樹林が広がっている。しり ぶかがしはブナ科の常緑中高木で丘陵地などに生育するが、このように100本近 くの樹林を形成する例は稀である。また分布上でも西日本に多いこの樹林の東限近くに あたる為に昭和48年(1973)3月30日大阪府の天然記念物に指定された。 | |
堺市 |
美 多 弥 の 宮 由 緒 |
---|
鎮座地 堺市三木多上120番地 |
御祭神天児屋根命他六社 往古の事跡悠久にして詳らか ならねど醍醐天皇の(約千年前)延喜式神名帳(神社の戸籍)にはす でに式内社として登載せられている後醍醐天皇の御代には参萬坪を 有する広大なる境内には大樹生いしげり堂々たる社にして商工業繁栄 の福の神として崇敬者の信仰特に厚く又楠木正成一族の守護神であり しが天正年中(約380年前)織田信長の兵火にかかり御炎上その後文禄 元年(約350年前)楠木正成の遺族和田道讃本殿を再建せり現在の本殿 と拝殿は昭和47年改築す 境内の自然林(シリブカガシの森)天然記 念物に指定 大 祭 10月4日 5月上旬 |
牛石(ウシイシ)古墳 (西原公園内) |
---|
牛石の名の由来は諸説あるが、この古墳の石室に用いられた 天井石の地表に現われていた部分の形が、牛の横たわった姿に似て いたことからでたものとも言われている。発掘調査が行なわれていない ので、遺物や遺構について詳しくはわからないが、後期古墳時代(6世 紀後半頃)に作られた円墳で、周濠(シュウゴウ)をまわりにめぐらし、横穴式 石室を主体とするものと考えられる。なおこの古墳の被葬者については、 地理的条件からこの地域で須恵器(スエキ)生産にあたっていた氏族と推定 される。栂丘陵には、このような古墳が十数基みられたが、今では大半が 失われており、この古墳も数少ない貴重な文化財である。 |
式内 多治速比売神社由緒 |
---|
御祭神 素 盞 鳴 尊 (スサノオノミコト) (病 気 平 癒 の 神) 多治速比売命 (タジハヤヒメノミコト)(厄除・安産・縁結びの神) 菅原道真公 (スガワラミチザネコウ)(学 問 ・ 技 芸の 神) 当神社は、延喜式内社で28代宣化天皇(530年)の頃の創立と伝えられ ている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、その後 神仏分離され、明治末期に小字(アザ)にあった鴨田(カモタ)社・阪上社・八幡社 ・弁天社など、当境内に合祀(ゴウシ)された。境内末社に天照社・住吉社・大神 (ミワ)社・春日社・熊野社・白山社・福石神・稲荷社・水天宮など祀られ総称して 荒山(コウゼン)(高山)の宮と呼ばれて厚い信仰を得ている。 本殿は、重要 文化財で、室町時代の優雅な建築様式を残している。古くは二十町歩(約六万 六千坪)の社有地があったが、戦後農地解放にて半(ナカ)ば、昭和38年大阪府 の泉北ニュータウン開発計画により大半がかかり、社殿神域を大改築整備し 祭礼日には隆盛を極めている。 |
祭 礼 日 |
歳 旦 祭 1月1日 福石神事 1月6日 とんど祭 1月第3日曜日 節分祭 2月3日 稲荷祭 3月最終日曜日 夏越の大祓 6月30日 弁 天 祭 8月3日(以降の最初の日曜日) 例 大 祭 10月5日(に近い日曜日) |
多 治 速 比 売 神 社 |
---|
延喜式内社で、多治速比売命(タジハヤヒメノミコト)を主神として、
素盞鳴命(スサノオノミコト)・菅原道真を併祀しています。荒山(コウゼン)の
宮の名でよく知られています。多治速比売命は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
の妃と考えられています。 また近世には天神(テンジン)あるいは高山 (コウゼン)天神とよばれていました。明治40年に大庭寺の厳島神社、翌41 年に太平寺の鴨田神社、翌42年に伏尾の八幡神社、翌43年には平井の 坂上神社、和田の八幡神社の計五社が合祀されました。 本殿は、 国の重要文化財に指定され、解体修理の時に天文8年と10年の墨書が 発見され、文政2年の棟礼の写しには、天文12年2月に再建されたと書か れています。天文8年から12年にわたって建てられたことが明かになりまし た。 八つの蟇股(カエルマタ)と向拝(コウハイ)の二つの手挟(タバサミ)にそれ ぞれ彫刻がありますが、中でも手挟右面の芭蕉にカマキリの彫刻は大そう 珍しいものです。 |