雨山は、標高312m、本町南部成合地区に位置し、中世には
和泉地方における南朝方の拠点、雨山城として山城が築かれました。 雨山城については諸説がありますが、貞和2年(1346)に橋本正高により、 城として整備されたようです。城域は、出ノ丸として隣接する泉佐野市の城ノ 山にまでおよび、紀州と泉州を結ぶ粉河街道を押さえる山城として戦略上重 要な城であったと考えられます。 今でも、千畳敷・馬場・射場・月見の亭 などの名が残り、本町朝代地区には、橋本正高の業績を刻んだ崇忠の石碑が 残っています。 頂上に残る石祠は、闇お神(クラオカミ)を祭神とした雨山神社 跡で、明治41年(1908)に大森神社に合祀合併されました。 平成6年 3月 熊取町教育委員会 |
名勝 雨 山 |
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雨山は、熊取町の南端に位置し、山頂には雨山龍王社(雨山神社)
が鎮座し雨乞いの神として古くから熊取の人々に親しまれています。 寛政8年(1796)に書かれた『和泉名所図会』(江戸時代の名所案内書)に、 「熊取荘にあり、円頂、秀麗にして、松檜森?たり。歳旱(サイカン)に及ぶときは、 ここに雨を祷る也。」と記述があるように、雨山は景色がきれいであり、干ばつ 時には雨を祈ったと書かれています。 現在も雨山は、生活に密着した 美しい山で歴史的にも有名であることから、文化財保護条例により雨山を名勝 として、町指定文化財に指定しました。 (平成3年8月13日) |
熊取町教育委員会 |
日 根 神 社 |
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延喜式の式内社です。日根荘全体の鎮守で、和泉国五社の
一つでもありました。 『日根野村絵図』には大井関大明神とし て、溝口大明神(現在の比売神社)とともに描かれています。 『政基公旅引付』には、春の祭礼での催し(猿楽の奉納、競馬など) や連歌の様子などが記されています。 九条政基の帰洛後、日 根神社は秀吉の紀州攻めで焼失しますが、秀頼によって再建されま した。江戸時代以降は日根野・上之郷・長滝など樫井川流域の村々を 氏子としました。 |
泉佐野市教育委員会 |
意賀美神社本殿 重要文化財 |
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意賀美(オガミ)神社は延喜式神名帳に記載されている古い
神社です。祭神はタカオカミで、竜神即ち水を支配する神です。 本殿は一間社春日造(カスガヅクリ)、向拝軒唐破風(コウハイノキカラハフ)。 建立年代は室町時代中期の嘉吉2年(1442)で、泉佐野市の神社建築 では最も古く、一間社春日造りでは大阪府最古のものです。 本殿 全体に彩色を施し、虹梁形(コウリョウガタ)の頭貫(カシラヌキ)、禅宗様の木鼻、 緻密な彫刻の蟇股(カエルマタ)、和洋の繋梁(ツナギバリ)などの細部様式に 室町時代の特色をあらわしています。 |
1994年3月 泉佐野市教育委員会 |
足 の 神 様 堂ヶ谷神社 祭神 猿田彦命 |
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起 源 今を遡る二千有余年前、当神社より約六町、 山に入った滝ノ池から殿尾山お菊松に通じる山間に村落を形造って生活 を送った祖先の足跡があり、其の人々が生活の上に信じた神を敬った所 に鎮座されていると言われるのがこの堂ヶ谷神社である。 当、意賀 美神社に合祀されたのは、約七十年前(大正六年ごろ)であると言われ、 現在は、当寺の壮麗を知る由もないが、お社は鶴を描いた立派な岩絵具 の彩色であったと言われている。 御 神 徳 天孫 降臨の案内役をした猿田彦命(サルタヒコノミコト)は、道開きの神として交通安全、 海路・国土の守護や五穀豊穣商売繁盛、長寿祈願に信仰が厚く、当神社で は特に足の神様として御神徳がある。 |