2009年11月30日(月)

** 羽曳野周辺紅葉めぐり **



12:20 自宅を自転車で出発する
13:10-30 羽曳野市役所(…私用…)
13:30-45 向墓山古墳&墓山古墳
14:00-25 誉田(コンダ)八幡宮
14:33-37 誉田山古墳(伝応神天皇陵)
14:40-45 古室山古墳
14:48-54 仲津山古墳(伝仲津姫皇后陵)
15:00-06 市野山古墳(伝允恭天皇陵)
15:26 羽曳野市役所前
15:37-48 軽里大塚古墳(伝日本武尊白鳥陵)
16:21-24 来迎寺
16:25-28 丹南(タンナン)天満宮
16:47-53 大泉緑地
17:00 帰宅



墓山古墳
 古市古墳群の中心部にある大型の前方後円墳で、墳丘長225m、 後円部の径135m、高さ20.7m、前方部の幅153m、高さ19.3mの規模をもち、 古市古墳群で5番目の大きさがある。周囲には濠と外堤がめぐり、一部では その外側にも浅い溝が掘られている。墳丘は途中2か所に平坦面を設けて 3段に築かれ、くびれ部の左右には方形の造り出しがある。墳丘の頂上部や 平坦面には埴輪列(ハニワレツ)があり、要所には家や盾(タテ)、衣蓋(キヌガサ)を模 した埴輪が立て並べられていた。
 現在、墳丘部分が宮内庁によって 応神陵の陪冢(バイチョウ)に指定され、内部の状況は詳しくわからないが、 竪穴(タテアナ)式の石室に大きな長持型石棺を納めてあるらしい。
 また、 周辺にある4基の方墳は墓山古墳に付属する倍塚(バイヅカ)(冢)で、この中の野中(ノナカ)、 西墓山古墳には、冑(カブト)や甲(ヨロイ)、刀剣などの武器を中心に農工具などの 鉄製品が多量に埋納されていた。
 古墳の構造や規模、貴重な鉄製品を 多量に納めた倍塚(冢)の存在からみて、墓山古墳の主は大王、あるいはこれ に次ぐ高い地位にあった人物と推定される。古墳時代中期(5世紀前半)の政治 や社会を考える上で、きわめて重要な古墳である。


誉田八幡宮(コンダハチマングウ)
 誉田別命(ホンダワケノミコト)(応神天皇)を祭神とし、永享(エイキョウ)5年(1433) につくられた。『誉田宗廟縁起』には、欽明(キンメイ)天皇が命じて応神陵の前に 営んだ社(ヤシロ)を、後冷泉(ゴレイゼイ)天皇の頃(1045〜68)になって、南へ1町 (約109m)離れた現在の場所へ造り替えたことが伝えられている。
 鎌倉 時代から室町時代にかけては、源寺の氏神である八幡神を祀る社として、幕府 の保護を受けて大いに興隆したが、戦国期にはたびたび合戦場となって兵火に かかることもあった。その後、豊臣氏から社領の寄進や江戸幕府に庇護のもとに、 社殿の再建と整備が進められた。『河内名所図会』や天保9年(1838)の『河内国 誉田八幡根本社内之図』を見ると、本社や摂社(セッシャ)、神宮寺の塔頭(タッチュウ)など、 多くの建物が並び、参詣(サンケイ)の人々で賑わうようすがしのばれる。
 源頼朝 の寄進と伝えられる神輿(ミコシ)や、丸山古墳で出土した鞍(クラ)金具などの国宝、重 要文化財の『誉田宗廟縁起』や『神功皇后縁起』など、多数の貴重な文化財が社宝 となっている。


誉田八幡宮境内

誉田八幡宮境内

誉田八幡宮境内(3倍ズーム)

古室山(コムロヤマ)古墳
 国府(コウ)台地の西側縁辺(エンペン)の地形を利用して造られた前方後円墳 です。墳丘は三段に築造され、造り出しは現在東側にのみ残存しています。墳丘 には葺石(フキイシ)が施され、円筒埴輪列が確認されています。また、発掘調査に よって後円部西側からくびれ部にかけて堤が確認されています。埴輪には円筒 埴輪のほかに家、盾、蓋形(キヌガサガタ)埴輪が用いられています。
 埋葬施設 や副葬品については不明ですが、出土した円筒埴輪の特徴から仲津山古墳(仲津 姫陵)や誉田後廟山古墳(応神陵)よりも先行して築造されたと考えられ、古市古墳 群の中では初期に築造された前方後円墳の一つに挙げられます。


仲津山古墳(伝仲津姫皇后陵)
… 仲津姫は応神天皇の妃で、仁徳天皇の母 …

渋柿 水のない堀

市野山古墳(伝允恭天皇陵)
 国府(コウ)台地の北縁に位置し、前方部を北側に向けた前方後円墳です。 墳丘は三段に築かれ、くびれ部の両側に造出(ツクリダ)しを備えています。周濠は 盾形(タテガタ)にめぐり、堤の外側にも周濠をもつことが発掘調査によってわかりま した。
 出土した埴輪の特徴から、誉田御廟山古墳(応神陵)より新しく、岡 ミサンザイ古墳(仲哀陵)より古い5世紀後半の築造時期が考えられます。
 周囲には、前方後円墳の唐櫃山(カラトヤマ)古墳や長持山古墳、宮の南塚古墳、 衣縫塚(イヌイヅカ)古墳などがあり、市野山古墳に葬られた人物との関係が推定で きる中・小規模の古墳が多く認められます。
 この案内板から西に焼く150m にある道明寺小学校には、長持山古墳出土の石棺2基を復元展示しています。


軽里大塚古墳(伝日本武尊(ヤマトタケルノミコト)白鳥陵)
(正面)

軽里大塚古墳(伝日本武尊白鳥陵)
(左方向)

軽里大塚古墳(伝日本武尊白鳥陵)
(右方向)

軽里大塚古墳
 軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん、前の山古墳とも)は、 大阪府羽曳野市軽里3丁目にある前方後円墳。現在、宮内庁によって、 日本武尊(景行天皇皇子)白鳥陵に治定されており、羽曳野市の名前の 由来ともなっている。
 古市古墳群の南部、墓山古墳の南、白髪山 古墳の北東に位置する。全長約190m、後円部径約106m、高さ約20m、 前方部幅約165m、高さ約23mで、古市古墳群で7番目の大きさである。 墳丘は三段築成で前方部を西に向け、くびれ部の両側には造り出しがある。 周囲には幅約35mの周濠と上面幅21mの堤がめぐらされている。
 主体部や副葬品については不明である。1981年の発掘調査で、後円部の 円筒埴輪列が確認されたほか、朝顔形埴輪や家、蓋などの形象埴輪が出土 した。これらの出土品や、前方部幅が後円部径に比べて約1.5倍もあるという 墳形上の特徴から、古市古墳群では市ノ山古墳とほぼ同時期、5世紀後半の 築造と推定されている。
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来迎寺(ライゴウジ)
来迎寺は、融通念仏宗の旧中本山格で、阿弥陀如来を本尊とする。
 寺伝によると、天平3年(731年)、狭山池の水利工事による死者を供養する ため僧行基が毘沙門天を祀ったのが始まりで、天治元年(1124年)鳥羽上皇 の勅願により融通念仏宗を勧進し、天承元年(1131年)に再興して阿弥陀院 とした。元亨(ゲンコウ)3年(1323年)、法明(ホウミョウ)上人が再建、菅生(スゴウ)天 満宮より感得した阿弥陀如来の画像を本尊として正中元年(1324年)、来迎 寺に改めた。大坂夏の陣で焼失したが、正保4年(1647年)高木丹南藩主の 援助で再興し、菩提寺となった。境内墓地には、丹南藩主高木家の代々に墓 が並んでおり、府の天然記念物に指定されているイブキの名木が有名である。    == 松原市 ==


大泉緑地