墓山古墳 |
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古市古墳群の中心部にある大型の前方後円墳で、墳丘長225m、
後円部の径135m、高さ20.7m、前方部の幅153m、高さ19.3mの規模をもち、
古市古墳群で5番目の大きさがある。周囲には濠と外堤がめぐり、一部では
その外側にも浅い溝が掘られている。墳丘は途中2か所に平坦面を設けて
3段に築かれ、くびれ部の左右には方形の造り出しがある。墳丘の頂上部や
平坦面には埴輪列(ハニワレツ)があり、要所には家や盾(タテ)、衣蓋(キヌガサ)を模
した埴輪が立て並べられていた。 現在、墳丘部分が宮内庁によって 応神陵の陪冢(バイチョウ)に指定され、内部の状況は詳しくわからないが、 竪穴(タテアナ)式の石室に大きな長持型石棺を納めてあるらしい。 また、 周辺にある4基の方墳は墓山古墳に付属する倍塚(バイヅカ)(冢)で、この中の野中(ノナカ)、 西墓山古墳には、冑(カブト)や甲(ヨロイ)、刀剣などの武器を中心に農工具などの 鉄製品が多量に埋納されていた。 古墳の構造や規模、貴重な鉄製品を 多量に納めた倍塚(冢)の存在からみて、墓山古墳の主は大王、あるいはこれ に次ぐ高い地位にあった人物と推定される。古墳時代中期(5世紀前半)の政治 や社会を考える上で、きわめて重要な古墳である。 |
誉田八幡宮(コンダハチマングウ) |
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誉田別命(ホンダワケノミコト)(応神天皇)を祭神とし、永享(エイキョウ)5年(1433)
につくられた。『誉田宗廟縁起』には、欽明(キンメイ)天皇が命じて応神陵の前に
営んだ社(ヤシロ)を、後冷泉(ゴレイゼイ)天皇の頃(1045〜68)になって、南へ1町
(約109m)離れた現在の場所へ造り替えたことが伝えられている。 鎌倉 時代から室町時代にかけては、源寺の氏神である八幡神を祀る社として、幕府 の保護を受けて大いに興隆したが、戦国期にはたびたび合戦場となって兵火に かかることもあった。その後、豊臣氏から社領の寄進や江戸幕府に庇護のもとに、 社殿の再建と整備が進められた。『河内名所図会』や天保9年(1838)の『河内国 誉田八幡根本社内之図』を見ると、本社や摂社(セッシャ)、神宮寺の塔頭(タッチュウ)など、 多くの建物が並び、参詣(サンケイ)の人々で賑わうようすがしのばれる。 源頼朝 の寄進と伝えられる神輿(ミコシ)や、丸山古墳で出土した鞍(クラ)金具などの国宝、重 要文化財の『誉田宗廟縁起』や『神功皇后縁起』など、多数の貴重な文化財が社宝 となっている。 |
古室山(コムロヤマ)古墳 |
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国府(コウ)台地の西側縁辺(エンペン)の地形を利用して造られた前方後円墳
です。墳丘は三段に築造され、造り出しは現在東側にのみ残存しています。墳丘
には葺石(フキイシ)が施され、円筒埴輪列が確認されています。また、発掘調査に
よって後円部西側からくびれ部にかけて堤が確認されています。埴輪には円筒
埴輪のほかに家、盾、蓋形(キヌガサガタ)埴輪が用いられています。 埋葬施設 や副葬品については不明ですが、出土した円筒埴輪の特徴から仲津山古墳(仲津 姫陵)や誉田後廟山古墳(応神陵)よりも先行して築造されたと考えられ、古市古墳 群の中では初期に築造された前方後円墳の一つに挙げられます。 |
市野山古墳(伝允恭天皇陵) |
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国府(コウ)台地の北縁に位置し、前方部を北側に向けた前方後円墳です。
墳丘は三段に築かれ、くびれ部の両側に造出(ツクリダ)しを備えています。周濠は
盾形(タテガタ)にめぐり、堤の外側にも周濠をもつことが発掘調査によってわかりま
した。 出土した埴輪の特徴から、誉田御廟山古墳(応神陵)より新しく、岡 ミサンザイ古墳(仲哀陵)より古い5世紀後半の築造時期が考えられます。 周囲には、前方後円墳の唐櫃山(カラトヤマ)古墳や長持山古墳、宮の南塚古墳、 衣縫塚(イヌイヅカ)古墳などがあり、市野山古墳に葬られた人物との関係が推定で きる中・小規模の古墳が多く認められます。 この案内板から西に焼く150m にある道明寺小学校には、長持山古墳出土の石棺2基を復元展示しています。 |
軽里大塚古墳 |
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軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん、前の山古墳とも)は、
大阪府羽曳野市軽里3丁目にある前方後円墳。現在、宮内庁によって、
日本武尊(景行天皇皇子)白鳥陵に治定されており、羽曳野市の名前の
由来ともなっている。 古市古墳群の南部、墓山古墳の南、白髪山 古墳の北東に位置する。全長約190m、後円部径約106m、高さ約20m、 前方部幅約165m、高さ約23mで、古市古墳群で7番目の大きさである。 墳丘は三段築成で前方部を西に向け、くびれ部の両側には造り出しがある。 周囲には幅約35mの周濠と上面幅21mの堤がめぐらされている。 主体部や副葬品については不明である。1981年の発掘調査で、後円部の 円筒埴輪列が確認されたほか、朝顔形埴輪や家、蓋などの形象埴輪が出土 した。これらの出土品や、前方部幅が後円部径に比べて約1.5倍もあるという 墳形上の特徴から、古市古墳群では市ノ山古墳とほぼ同時期、5世紀後半の 築造と推定されている。 |
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来迎寺(ライゴウジ) |
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来迎寺は、融通念仏宗の旧中本山格で、阿弥陀如来を本尊とする。 寺伝によると、天平3年(731年)、狭山池の水利工事による死者を供養する ため僧行基が毘沙門天を祀ったのが始まりで、天治元年(1124年)鳥羽上皇 の勅願により融通念仏宗を勧進し、天承元年(1131年)に再興して阿弥陀院 とした。元亨(ゲンコウ)3年(1323年)、法明(ホウミョウ)上人が再建、菅生(スゴウ)天 満宮より感得した阿弥陀如来の画像を本尊として正中元年(1324年)、来迎 寺に改めた。大坂夏の陣で焼失したが、正保4年(1647年)高木丹南藩主の 援助で再興し、菩提寺となった。境内墓地には、丹南藩主高木家の代々に墓 が並んでおり、府の天然記念物に指定されているイブキの名木が有名である。 == 松原市 == |