観 心 寺 |
---|
奈良時代に役小角が開き、弘法大師の弟子実恵が827年に創立
したこの寺は、楠木正成幼年時代の学問所でもあり、南朝ゆかりの寺と
しても有名。広い境内には、国宝の金堂をはじめ後村上天皇の檜尾陵・
楠公首塚・楠公建掛塔などがあり、また寺宝としては、国宝の如意輪観音
坐像をはじめとする重要文化財や、楠木家文書などの貴重な資料が多数
所蔵されている。 境内は、昭和9年国の史跡に指定された。 |
薬樹山 延命寺 由来 |
---|
弘法大師が諸国巡礼の砌(ミギリ)、この地に薬樹薬草多く霊水の
湧出するをみて仏法弘宣の霊地と考え、一寺を建立して地蔵の石仏を
刻み本尊としたのが当寺の起りであると伝えられる。 寛永16年 高僧浄厳(ジョウゴン)和尚がこの地に誕生し、地蔵尊の衰退を歎き佉羅 (キャラ)山延命寺の寺号をつけて中興したが、延宝5年再び御室仁和寺 の宮の令旨を受けて薬樹山延命寺と改称し、本尊も如意輪観音に改め、 西代藩主本多伊予守忠恒公より山林田畑の寄進を受けて、名実共に 真言密教の道場とした。爾来、当山は真言宗御室仁和寺末に属し現在 に至る。 浄厳和尚は江戸仏教界の革新者で、如法真言律を提唱し て僧風の刷新を計り、儀軌と悉曇の研究を復古して批判的仏教研究を行 い新安流の流祖となった。その学風は国学者契沖に影響を与えている。 その門徒帰依者は関西より関東に及び、将軍綱吉を始め幕閣諸大名の 帰依を得て江戸湯島に霊雲寺を創建し幕府の祈願所となした。 第 二世蓮体和尚は天性文才に恵まれて多くの仏教説話書を著述刊行し、 真言念仏を勧化して民衆教化に偉大な足跡を残し、又?戸藩主本多忠 統公と親交があった。第二世法瑞和尚も本多忠永公の帰依を得て真俗 二諦にわたり寺門を興隆し、七世真常和尚は当山秘蔵の聖教を集大成 して浄厳和尚の学風を宣楊した。 明治の廃仏毀釈時代に十三世 に晋住した照適和尚は護法運動に身を挺し、その学徳兼備の声望天下 に高く世人称して鬼住の活仏(イキボトケ)という。その資?城和尚は伽藍の 荘厳、寺域の美観に尽力し、殊に前山を開いて楓樹林となし西国観音の 石仏を奉安して、今日の「もみじの名所延命寺」をきづいた。 |
昭和50年11月 当山執事 |
僧 浄 厳 の 墓 |
---|
浄厳(ジョウゴン)は、延命寺を建立した江戸時代を代表する高僧です。
寛永16年(1639)に河内国錦部(ニシキベ)群鬼住村(現在の河内長野市神ヶ
丘)で生まれ、その後、高野山で修行をしました。梵字(ボンジ)の研究を行っ
たり、それまで細かく分かれていた真言宗の儀礼を統一しようとして努力し
ました。将軍や大名をはじめ、民衆からも広く尊敬され、第五代将軍徳川
綱吉にも、仏教の講義を行いました。元禄15年(1702)に亡くなりました。
東京都台東区の妙極院にも墓があります。 (後略) |
河内長野市教育委員会 平 成 15 年 3 月 |