土塔を作った僧 −行基− |
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行基は天智天皇7年(668)に現在の堺市西区家原寺町付近で生まれました。
地名の由来にもなっている家原寺は、行基が慶雲元年(704)に生家を寺としたもの
です。 行基は50歳半ば以降、精力的に活動範囲を広げ、仏教の布教だけで なく、橋を架け、灌漑用の溜池を造り、布施屋(フセヤ)(人々の救済施設)を建てるなど 社会事業にも尽力します。行基が大野寺土塔を建立するのはそうした活動のさなか、 神亀4年(727)行基が60歳の時です。この他、堺市西区草部に残る鶴田池も天平9 年(737)に行基が造ったとされています。 こうした事業には、行基を慕う多くの 民衆の協力がありましたが、その一端は土塔から多量に出土した人名瓦に見ること ができます。 行基が布教を始めた当初は国から迫害を受けましたが、後に こうした活動が認められ、天平17年(745)には聖武天皇から東大寺の大仏建立を託 され、大僧正という当時の僧侶としての最高位を贈られます。 天平21年(749)、 行基は82歳でその生涯を終え、奈良県生駒市にある竹林寺に葬られます。鎌倉時代の 文暦2年(1235)に行基の生涯の事績を記した墓誌が発掘され、現在その墓誌の断片は 奈良国立博物館に所蔵されています。 |
堺市 |
式内 多治速比売神社由緒 |
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御祭神 素 盞 鳴 尊 (スサノオノミコト) (病 気 平 癒 の 神) 多治速比売命 (タジハヤヒメノミコト)(厄除・安産・縁結びの神) 菅原道真公 (スガワラミチザネコウ)(学 問 ・ 技 芸の 神) 当神社は、延喜式内社で28代宣化天皇(530年)の頃の創立と伝えられ ている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、その後 神仏分離され、明治末期に小字(アザ)にあった鴨田(カモタ)社・阪上社・八幡社 ・弁天社など、当境内に合祀(ゴウシ)された。境内末社に天照社・住吉社・大神 (ミワ)社・春日社・熊野社・白山社・福石神・稲荷社・水天宮など祀られ総称して 荒山(コウゼン)(高山)の宮と呼ばれて厚い信仰を得ている。 本殿は、重要 文化財で、室町時代の優雅な建築様式を残している。古くは二十町歩(約六万 六千坪)の社有地があったが、戦後農地解放にて半(ナカ)ば、昭和38年大阪府 の泉北ニュータウン開発計画により大半がかかり、社殿神域を大改築整備し 祭礼日には隆盛を極めている。 |
祭 礼 日 |
歳 旦 祭 1月1日 福石神事 1月6日 とんど祭 1月第3日曜日 節分祭 2月3日 稲荷祭 3月最終日曜日 夏越の大祓 6月30日 弁 天 祭 8月3日(以降の最初の日曜日) 例 大 祭 10月5日(に近い日曜日) |
多 治 速 比 売 神 社 |
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延喜式内社で、多治速比売命(タジハヤヒメノミコト)を主神として、
素盞鳴命(スサノオノミコト)・菅原道真を併祀しています。荒山(コウゼン)の
宮の名でよく知られています。多治速比売命は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
の妃と考えられています。 また近世には天神(テンジン)あるいは高山 (コウゼン)天神とよばれていました。明治40年に大庭寺の厳島神社、翌41 年に太平寺の鴨田神社、翌42年に伏尾の八幡神社、翌43年には平井の 坂上神社、和田の八幡神社の計五社が合祀されました。 本殿は、 国の重要文化財に指定され、解体修理の時に天文8年と10年の墨書が 発見され、文政2年の棟礼の写しには、天文12年2月に再建されたと書か れています。天文8年から12年にわたって建てられたことが明かになりまし た。 八つの蟇股(カエルマタ)と向拝(コウハイ)の二つの手挟(タバサミ)にそれ ぞれ彫刻がありますが、中でも手挟右面の芭蕉にカマキリの彫刻は大そう 珍しいものです。 |