史跡 弘川寺境内 |
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弘川寺は天智天皇四年(665)役行者の草創にかかり、天武天皇白鳳五年
(677)勅命あって当寺に請雨を祈り、験著しかったので、龍池山弘川寺の寺号を
賜り勅願寺となる。天平九年(737)に行基がこゝで練行、また弘仁年間には弘法
大師が嵯峨天皇の命により中興された。 歌聖西行は晩年当寺の座主空寂 上人の法徳を慕って来られ、文治六年(1190)二月十六日ここで入滅する。その後 南北朝時代には楠木氏の戦場となり、また戦国時代には河内国の守護畠山政長 はこの寺に陣し、弟義就これを攻めて寛正四年(1463)四月十五日堂塔ことごとく 焼失した。 西行法師を慕うこと深く今西行と呼ばれた歌僧似雲法師は、享保 十七年(1733)当寺境内にその墳墓を発見し、墓域に草庵を結んで隠棲した。遺言 により当寺境内の西行墳の傍らに葬られた。 昭和十三年五月十一日大阪 府古文化記念物 保存顕彰規則により、史蹟として指定 |
大阪府教育委員会 |
似 雲 墳 |
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江戸中期広島の歌僧似雲法師は西行を慕い、その終焉の地を
求めて、この地に西行の古墳を発見しました。 その後、西行墳の 周辺に千本桜を植え、その中に「花の庵」を建てて住み、西行堂を建 立し、生涯を西行追慕にささげました。 |
持 尾 城 跡 |
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標高336mの高台で、河内平野を一望のもとに見渡せる
景勝の地である。茶臼山または城が塚とも呼ばれる。 元弘 2年、楠木正成の築いた城で、平岩氏が拠って戦ったといわれる。 大和から河内へ侵入する関東軍の様子がよく見えるため、のろし 台の役割を果たしたのではないかと思われる。 中世の「とり で」の形がよく残っていて、尾根のところどころを削り取って平らに した跡など、注目に値する。 |