「楠 公 誕 生 地 遺 跡」 |
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ここは楠木正成が生誕したという伝承の残る地です。くすのきホール 建設に伴い発掘調査を行なった際には、2重の堀を周囲にめぐらせる建物 跡を検出、出土遺物も14世紀のものが認められ、周囲の中世山城群と合 わせて考えると楠氏との関連も推定することが可能です。また、付近には 楠公産湯の井戸の伝承地も残ります。 |
千早赤坂村教育委員会 |
楠 公 誕 生 地 |
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楠木正成は永仁2年(1294年)、この地の誕生したと伝えられている。
文禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以後、楠木
邸にあった百日紅(サルスベリ)を移植したという記録が残っている。また、元禄
年間には、領主石川総茂が保護を加え、その後、明治8年、大久保利通が
楠公遺跡めぐりの際、ここに石碑を建立し顕彰した。 碑文の「楠公誕 生地」は、幕末勤皇派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祠官であった 桃井春蔵直正の揮毫によるものである。 明治41年、近郷有志による 楠公誕生地保勝会が組織され、敷地の拡張や休憩所の新築など、史跡の 整備顕彰にあたったが、終戦とともに活動は衰退してしまった。昭和49年 に楠公史跡保存会が有志で組織され、保存顕彰にあたっている。 |
建水分(タケミクマリ)神社(元 府社) |
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楠木家の氏神で創立古く人皇第十代の崇神天皇の五年天下飢疫
(キエキ)の際勅して金剛葛城の山麓に水神を祭られた。 後醍醐天皇の 勅命に依って、楠木正成が水越川のほとりの下宮にあった社を移して再建 したもので、本殿は三殿より成り、中殿は春日造で天御中主神を祭り、左右 両殿は流造で水分神を祭る三殿は渡廊下で連り其構造巧緻で、建築上の 模範である。神社建築としては全国の唯一の形式である。 明治33年 国宝に、昭和25年に重要文化財に指定せられた。 |
奉建塔(ホウケントウ) |
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奉建塔は、延元元年5月の湊川の戦いで戦死した楠木正成の
死没600年を記念して、楠公崇拝者の一人である徳島県人森下白石
氏が発起人となって、地元の協力と全国の児童・生徒たちの浄財寄付
により昭和12年に起工、15年に完成した。 石塔は総御影石づく りで、高さは尺貫法で43尺(13メートル)あり、これは正成戦死の年令 にちなんだものである。正面に家紋の菊水と、旗印の「非理法権天」、 下段に頼山陽の日本外史による楠公をたたえる句(漢文)が刻まれて いる。 読み下し文:大楠公笠置に於て後醍醐天皇に奉答するの辞 この塔は、「楠公600年記念塔」「宝剣塔」などいろいろ呼ばれているが、 地元では「奉建塔」と呼び、村の史跡公園として親しまれている。 |
赤 阪 城 跡 (下赤坂城跡) |
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標高185.7m、比高61.4m。金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用
して築城された中世山城です。この城は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけ
て活躍した楠木正成(1294?〜1336)によって築城されたといわれています。 元弘元年(1331)、鎌倉幕府倒幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山へ逃れま した。正成はこれにあわせてこの地で挙兵し、護良親王も当地に身を寄せたと伝 えられています。幕府軍が攻め寄せてきた合戦の様子は『太平記』に記述されて います。しかし、にわか造りのため落城、正成は金剛山へと後退しました。 その後、元弘2年(1332)に正成は再起し、この城を奪還しました。ふたたびこの 城は落城しますが、千原城での籠城に間に鎌倉幕府は滅亡しました。 城と しての遺構は明確になっていませんが、千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸) であったといわれています。 昭和9年3月に国史跡に指定されました。 |
千早赤阪村教育委員会 |