由 緒 |
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淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるが、当神社はその
総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る。 神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(すくなひこなのみこと)と 大己貴命(おほなむじのみこと)の祠が加太の沖合いの友ヶ島のうちの神島(淡島) に祀られたことが始まりとされる。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での 突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫を海に投げ、 その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたこと を感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納した。その数年後、 神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、 島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築した ことが淡嶋神社の起こりとされる。 また、淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで 婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは、淡島が住吉大社の社領と なっていたことによる後世の附会と考えられている。このことにより、淡嶋神社は、 婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社と なった(ただし、加太淡嶋神社では少彦名命が医薬の神であるからと説明している)。 また、加太の地は奈良時代頃から、役行者による葛城修験による影響を受け、 友ケ島はその修行場である関係から淡嶋神社も修験道の聖地としての役割も果たす こととなる。 江戸時代には、淡島願人と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、 淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がった。 現在の社殿は豊臣秀吉の紀州征伐で焼失したが、その後浅野幸長が再建、 紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復を加え、さらに江戸時代末期に第十代・ 徳川治宝が造営、1979年に現在の新社殿となった。 |
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