水度神社 |
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水度神社(みとじんじゃ)は、京都府城陽市寺田水度坂に鎮座する神社である。 祭神は、旧寺田村の産土神(うぶすなかみ)で、 天照皇大御神(あまてらすすめ おおみかみ) 高御産靈神(たかみむすびのかみ) 少童豐玉姫命(わだつ みとよたまひめのみこと) となっている。 鴻ノ巣山のふもとにある。「山城国風土記」逸文に、「久世の郡水渡の社祗社」とあることから、 風土記が編さんされた奈良時代には存在したと考えられる。 創祀は平安時代初期といわ れる。平安時代前期に成立した延喜式には、「水度神社三座」と記されている。1873年(明治6年) に村社、1882年(明治15年)に郷社、1907年(明治40年)には府社に昇格した。現在は社格は 廃止され、神社本庁に属し、「宗教法人 水度神社」と称している。 国指定の重要文化財に なっている本殿は正面一間、側面二間の変化に富んだ流造破風様式で屋根は檜皮葺で正面に 大きな千鳥破風がある。また、庇の正面中央には、透かし彫りの唐草と笹りんどうをあしらった 欄間がつけられ、簡素にして優美な建物となっている。 社伝棟札によれば室町時代の 1448年(文安5年)建立になり城陽市内で最も古い建造物である。 おかげ踊り 水度神社には京都府登録文化財の「おかげ踊り図絵馬」が残っている。 絵馬には1830年(文政13年)11月1日に寺田村北東町の人々が水度神社に奉納したおかげ踊り の様子が描かれている。江戸時代に全国で流行した伊勢神宮への集団参拝「おかげ参り」の後に よく見られたとされる「おかげ踊り」がこの地でも行われていたことを示している。城陽市では寺田や 青谷近辺で昭和の初め頃まで行事ごとに踊られていたようである。現在でも、地元の「おかげ踊り 保存会」により復活・伝承され、水度神社で踊りを奉納している。 |
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森山遺跡 |
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木津川を望む丘陵上に営まれた縄文時代から 古墳時代の集落遺跡です。
縄文時代の集落は、 約4000年前(縄文時代後期)のもので、大きな竪穴(たてあな)
住居と小さな竪穴住居がみつかっています。そこに住んだ人数の違いが、家の大きさ
に反映していると考えられます。 また周囲を溝で囲まれた一辺約45mの四角い 土壇(方形周溝状遺構(ほうけいしゅうこうじょういこう))がみつかりました。その構造や 溝内から出土した土器から、古墳時代前期(約1600年前)の豪族の居館(住居)跡と 考えられています。こ の他には、弥生時代後期や古墳時代後期の竪穴住居もみつ かっています。 |
== 城陽市観光協会-観光便り == |
市辺天満神社 |
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元暦元年(941年)朝廷が創建した北野天満宮から、祭神として
菅原道真公を祀り、市辺天満神社として、それ以後天満宮として一般的
になりました。 1300年代に天神社として祭神、伊邪那岐(熊野 本宮大社)と天照皇大神(伊勢神宮)が祀られてあった。その社と共に 祈雨社があり、この祭神は天之水分神であり、この神は水の神で水分と いって水源を祀る。この祈雨社は、推察するに、大住松井から中世に 移されたと考えられ、中世にこの天満宮の上にあった、市辺城主である 松井氏との関係があるように思われる。 1600年代に入り、 中地区の中天満宮と龍福寺の間を上がった所にあった八王子神社は、 そのままその祭神であった八王子神を、この天満宮に移した。 青谷 村誌によれば、そのご神霊は、市辺押磐の皇子の尊像で、粟神社との 関係がある。 祭神としては伊邪那岐、天照皇大神、天之水分神、 八王神、菅原道真公等が、祀られております。 そして現在では、伏見 稲荷大社も境内にあり、多くの神たちにこの地を護って頂いております。 |
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