2008年4月26日(土)

** 巨勢の道〜御所駅 **



9:20 阿部野橋 (\750-) 〔近鉄南大阪線〕
10:16 吉野口

10:28-48 玉椿山 阿吽寺(アウンジ)
11:03-12 巨勢寺塔跡&大日堂
11:37 葛城山 安楽寺
11:40 御霊神社
11:48-12:10 安楽寺塔婆&(昼食)
12:17-23 新宮山(シングウヤマ)古墳
12:39 大口峠
13:13 金比羅神社
13:17-25 孝安天皇玉手丘上陵
13:32 JR玉手駅
14:03 近鉄御所駅着

14:09 御所 (\610-)
14:23 尺土
15:07 阿部野橋



阿 吽 寺
このあたり一帯は、万葉に歌われた巨勢(コセ)山である。
平安時代に巨勢川 が氾濫して、里民が避難に窮したとき、阿吽法師なるものが来て、これを救済したので 人民は、法師を崇めて玉椿精舎に請住せしめたという。
 玉椿精舎とは、巨勢寺の ことでこれから阿吽寺の名が起り、巨勢寺の一子院となったものと考えられる。
貞 治元年大災で全焼し、以来荒廃して260年、江戸時代初期に再建されている。その後 も衰退を重ね、無住となる。明治13年有志図って仮堂を建て、正福寺にあづけられて いた仏道を迎えて、さらに昭和60年4月に再建されたのが現在の阿吽寺である。
     1994年(平成6年)5月 更新
        贈  御所ライオンズクラブ


巨勢寺塔跡&大日堂

巨 勢 寺 跡
 巨勢寺(コセデラ)は、子院・阿吽寺の縁起によれば、聖徳太子の創建と 伝えられていますが、その草創についての事実は未だ明らかにされていません。 「日本書紀」には、686年に初めてこの巨勢寺の名が見られ、当時の寺院として はかなり大規模であったと思われます。
 その後、平安時代に奈良興福寺の 末寺となり、1308年にはそれまで所有していた財産を春日大社に寄進している ことから、この頃すでに荒廃の一途をたどっていたことがうかがえます。
 巨 勢寺の子院には阿吽寺と勝福寺があり、勝福寺は江戸時代には正福寺と改めら れ、共に巨勢寺の礎石や古仏像などを今に伝えています。

  巨勢山のつらつら椿つらつらに
       見つつ思(シノ)ばな巨勢の春野を (万葉集)
                       坂門人足

  河上の つらつら椿つらつらに
       見れども飽かず巨勢の春野は(万葉集)
                        春日蔵首老


御霊神社

御霊神社側から安楽寺を望む

安楽寺&御霊神社のある方を振り返る

大口峠へ…

大口峠を過ぎると、二上山が視界に飛び込んできた…

孝安天皇陵
陵を一周して…戻って来る…
水越峠&葛城山が垣間見える…




2008年4月28日(月)

** 地蔵院&巨椋神社 **



1233 天満橋 (\390-) 〔京阪電車〕
13:09 中書島 〔宇治線〕
13:23 宇治

13:30-50 宇治川堤で(昼食)
14:24-30 地蔵院(浄土宗)
14:30-42 巨椋(オグラ)神社
15:28 宇治駅着

15:38 宇治 (\390-)
16:28 天満橋



宇治橋方向を望む

あれが巨椋神社の森だろう…

天智天皇の死について
 それは、『日本書紀』から、およそ四百年後の平安末期に、皇円(コウエン)という僧が 書いた『扶桑略記』という本に書かれている。
<意訳>
 十二月三日に (天智)天皇が亡くなり、五日に大友皇太子が即位した。二十五歳である。一説に言う(天皇は) 山階(山科)の郷に遠乗りに出かけたまま、帰ってこなかった。山林の中に深く入ってしまい、 どこで死んだかわからない。仕方がないので、その沓(クツ)の落ちていたところを陵(ミササギ)(墓) とした。その地は現在の山城国宇治郡山科郷(京都府山科区)北山である。
 これは「書紀」の語る死とは、まったく違う。
 天智天皇は病気どころか、当日までぴんぴん していた。そして山科へ馬で遠乗りに出かけたが、そのまま帰って来なかった、というのである。
 これは一体どういうことか?
 考えられる可能性は二つしかない。一つは事故、もう 一つは暗殺である。
 しかし、現場に沓は落ちていたのである。
 事故ならば沓だけ あって死体がないというのはおかしい。時の最高権力者が行方不明になったのである。当時の 政府は血眼になって行方を探したはずだ。それでも発見できなかったのである。
 そう考え てみると、やはりこれは暗殺である可能性の方が強い。

      == 井沢元彦著『逆 説の日本史』より ==


地蔵院

天智の死体は?
 実は、当時の山科、現在の宇治市に奇怪な伝承が残っていた。
 天智の 墓は、御陵とは別のところにあった、という伝承である。
 京都市宇治市小倉町 に、天王(テンノウ)という地名がある。
 ここに、かつて一基の石碑が立っていた。 「天智天皇」と名のみ刻まれた不思議な石碑である。
 天智天皇は、『扶桑略記』 にある通り山科の野で殺された後、この「天王」に葬られたのだ、と唱えたのは郷土 史家で地元宇治在住の山田万吉朗氏である。
 天智天皇暗殺説の嚆矢(コウシ) ともいうべき説だ。
 山田氏によれば、天智天皇は山科で殺害され、その遺体は 山科川を舟で下った巨椋(オグラ)池のほとりの地(小倉町)に埋められたのではないか、 そしてその地点(天王)に石碑が立てられたのではないか、と言うのだ。
 今では 忘れ去られているが、明治時代までこのあたりには巨椋池という巨大な池があった。 それはほとんど湖に近いもので、古代からこのあたりは水運が発達していた。その池 が今はないのは、明治時代以降、大規模な干拓が行なわれて埋め立てられたからで ある。

     == 井沢元彦著『逆説の日本史』より ==


地蔵院境内にある「天智天皇」と刻まれた石碑

社は巨椋神社に、石碑は地蔵院に
 この石碑のあった天王には、昔は小さな社(ヤシロ)が建てられていた。 祭神は「天押雲命」である。何と読むのかわからない。「神名事典(?)」を引い ても、そんな名の神はいない。
 いつの頃からか、この社の前に「天智天皇」 という石碑が建てられた。もちろん石碑を建てるという習慣も、「天智天皇」という 呼び方もずっと後世のものである。少なくとも飛鳥時代に建てられたものではない。
 だから、いわゆる「正統な」歴史学者たちは、この石碑の存在を無視した。 それどころか、明治になってこの社も石碑も、もとあった場所から撤去されてしまっ た。「不敬罪の疑い」があるというのである。
 しかし、幸いなことに、社は近く の巨椋神社に、石碑は地蔵院という寺に移転保存されている。

     == 井沢元彦著『逆説の日本史』より ==


巨椋神社