阿 吽 寺 |
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このあたり一帯は、万葉に歌われた巨勢(コセ)山である。 平安時代に巨勢川 が氾濫して、里民が避難に窮したとき、阿吽法師なるものが来て、これを救済したので 人民は、法師を崇めて玉椿精舎に請住せしめたという。 玉椿精舎とは、巨勢寺の ことでこれから阿吽寺の名が起り、巨勢寺の一子院となったものと考えられる。 貞 治元年大災で全焼し、以来荒廃して260年、江戸時代初期に再建されている。その後 も衰退を重ね、無住となる。明治13年有志図って仮堂を建て、正福寺にあづけられて いた仏道を迎えて、さらに昭和60年4月に再建されたのが現在の阿吽寺である。 |
1994年(平成6年)5月 更新 贈 御所ライオンズクラブ |
巨 勢 寺 跡 |
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巨勢寺(コセデラ)は、子院・阿吽寺の縁起によれば、聖徳太子の創建と
伝えられていますが、その草創についての事実は未だ明らかにされていません。
「日本書紀」には、686年に初めてこの巨勢寺の名が見られ、当時の寺院として
はかなり大規模であったと思われます。 その後、平安時代に奈良興福寺の 末寺となり、1308年にはそれまで所有していた財産を春日大社に寄進している ことから、この頃すでに荒廃の一途をたどっていたことがうかがえます。 巨 勢寺の子院には阿吽寺と勝福寺があり、勝福寺は江戸時代には正福寺と改めら れ、共に巨勢寺の礎石や古仏像などを今に伝えています。 巨勢山のつらつら椿つらつらに 見つつ思(シノ)ばな巨勢の春野を (万葉集) 坂門人足 河上の つらつら椿つらつらに 見れども飽かず巨勢の春野は(万葉集) 春日蔵首老 |
天智天皇の死について |
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それは、『日本書紀』から、およそ四百年後の平安末期に、皇円(コウエン)という僧が
書いた『扶桑略記』という本に書かれている。<意訳>これは「書紀」の語る死とは、まったく違う。 天智天皇は病気どころか、当日までぴんぴん していた。そして山科へ馬で遠乗りに出かけたが、そのまま帰って来なかった、というのである。 これは一体どういうことか? 考えられる可能性は二つしかない。一つは事故、もう 一つは暗殺である。 しかし、現場に沓は落ちていたのである。 事故ならば沓だけ あって死体がないというのはおかしい。時の最高権力者が行方不明になったのである。当時の 政府は血眼になって行方を探したはずだ。それでも発見できなかったのである。 そう考え てみると、やはりこれは暗殺である可能性の方が強い。 == 井沢元彦著『逆 説の日本史』より == |
天智の死体は? |
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実は、当時の山科、現在の宇治市に奇怪な伝承が残っていた。 天智の 墓は、御陵とは別のところにあった、という伝承である。 京都市宇治市小倉町 に、天王(テンノウ)という地名がある。 ここに、かつて一基の石碑が立っていた。 「天智天皇」と名のみ刻まれた不思議な石碑である。 天智天皇は、『扶桑略記』 にある通り山科の野で殺された後、この「天王」に葬られたのだ、と唱えたのは郷土 史家で地元宇治在住の山田万吉朗氏である。 天智天皇暗殺説の嚆矢(コウシ) ともいうべき説だ。 山田氏によれば、天智天皇は山科で殺害され、その遺体は 山科川を舟で下った巨椋(オグラ)池のほとりの地(小倉町)に埋められたのではないか、 そしてその地点(天王)に石碑が立てられたのではないか、と言うのだ。 今では 忘れ去られているが、明治時代までこのあたりには巨椋池という巨大な池があった。 それはほとんど湖に近いもので、古代からこのあたりは水運が発達していた。その池 が今はないのは、明治時代以降、大規模な干拓が行なわれて埋め立てられたからで ある。 == 井沢元彦著『逆説の日本史』より == |
社は巨椋神社に、石碑は地蔵院に |
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この石碑のあった天王には、昔は小さな社(ヤシロ)が建てられていた。
祭神は「天押雲命」である。何と読むのかわからない。「神名事典(?)」を引い
ても、そんな名の神はいない。 いつの頃からか、この社の前に「天智天皇」 という石碑が建てられた。もちろん石碑を建てるという習慣も、「天智天皇」という 呼び方もずっと後世のものである。少なくとも飛鳥時代に建てられたものではない。 だから、いわゆる「正統な」歴史学者たちは、この石碑の存在を無視した。 それどころか、明治になってこの社も石碑も、もとあった場所から撤去されてしまっ た。「不敬罪の疑い」があるというのである。 しかし、幸いなことに、社は近く の巨椋神社に、石碑は地蔵院という寺に移転保存されている。 == 井沢元彦著『逆説の日本史』より == |