黒 門 |
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黒門は金峯山寺の総門で、いうなれば吉野一山の総門でも
あります。 こういう様式の門を高麗(コウライ)門といい、城郭に よく用いられています。昔は公家大名といえどもこの門からは、槍 を伏せ馬をおりて通行したという格式を誇っていました。 ちな みに金峯山というのは吉野山から大峯山に至る峰続きを指し、修験 道関係の寺院塔頭が軒を連ねていました。それらの総門がこの黒門 だったのです。 現在の黒門は昭和六十年秋、金峯山寺本堂 蔵王堂の大屋根大修理にあわせて改築されたものです。 |
概 要 |
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創立年代不詳。寺伝によると白鳳年間(7世紀)に修験道の開祖役行者によって
創建されたという。金峯山寺は平安時代(794〜1192)からの修験道の隆盛により、天皇
家をはじめ公家や武家からの厚い帰依を受け、数多い末葉寺院や広大な寺領を誇って
いたと伝えられている。 この本堂は、山上ヶ岳頂上にある山上蔵王堂(大峯山寺) に対して山下蔵王堂と呼ばれ、修験道の霊場である吉野・大峯の中心的伽藍として信仰 を集めてきた。文献上では康和5(1103)年に存在したことが確認されるが、現在の建物は 、天正20(1592)年に再建されたものである。高さ33.9m、桁行7間25.8m、梁間8間27.3m の一重裳階付入母屋造り檜皮葺の木造建築で、修験道の中心寺院として相応しい威容を 誇っている。堂内には修験道の本尊である金剛蔵王権現の巨像三体(国指定重要文化財) や役行者などを安置している。堂内の柱は全部で68本あり、一本として同じ太さのものは なく、すべて自然木を素材のまま使用している。柱の材質も様々で、杉、桧、欅などの他に 梨やツツジの柱もあり一定しない。 この堂では、本尊に桜花を供えて人々の罪科を 懺悔する「花供懺法会(花供会式)」や、神仏を侮ったために蛙の姿に変えられた男が懺悔 して、僧侶の法力によって人間の姿に戻されたという伝説に基づいた「蓮華会蛙とび行事」 などの伝統行事が、毎年盛大に行われている。 |
吉 水 神 社 |
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元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役の行者が創建したものと
伝えられ、格式の高い僧坊であったものが、明治八年寺号を廃して吉水神社と
改め、後醍醐天皇・楠木正成・吉水院宗信法印を合祀しています。 当社 は吉野の歴史を代表する殿堂で、文治元年(1185)源義経が兄頼朝の迫害を逃 れて、最愛静御前・弁慶らと共にここに身を隠されて、世にその純愛物語を伝え ています。 また延元元年(1336)後醍醐天皇が京の花山院を逃れて吉水院 宗信の援護のもとに当社を行宮とされ、血涙の歴史を記された南朝の大舞台で もあります。降っては文禄三年(1594)豊太閤が当社を本陣として大花見の盛宴を 催し、天下にその権勢を示したのは有名です。したがって当社に所蔵する宝物は すこぶる多く、百二十数点を展観しており、重要文化財の宝庫といわれています。 この神社を有名にしたのは、その由緒もさることながら、実は現存する書院で あってわが国書院建築史の第一頁に位する本格派の建物で、初期書院造の代表 的傑作とされています。 いまもなお書院内に「義経潜居の間」、「弁慶思案の 間」、「豊太閤花見の間」等が残されています。 |
西 行 庵 |
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この辺りを奥の千本といい、この小さな建物が西行庵です。鎌倉時代の
初めのころ(約八百年前)西行法師が俗界をさけて、この地にわび住まいをした
所と伝えています。 西行はもと、京の皇居を守る武士でしたが、世をはか なんで出家し、月と花とをこよなく愛する歌人となり、吉野山で詠んだといわれる 西行の歌に とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすまでも なきすみかかな 吉野山去年(コゾ)の枝折の道かへて ま だ見ぬ方の花をたずねむ 吉野山花のさかりは限りなし 青葉 の奥もなほさかりにて 吉野山梢(コズエ)の花を見し日より 心は 身にもそはずなりにき この歌に詠まれた「苔清水」はこの右手奥にあり、 いまなおとくとくと清水が湧き出ています。 旅に生き旅に死んだ俳人松尾 芭蕉も、西行の歌心を慕って二度にわたり吉野を訪れ、この地で 露とくと く試(ココロミ)に浮世すすがばや と詠んでいます。 |
吉 野 町 観 光 課 |