2008年1月10日(木)
** 飛 鳥 路 散 策 **
10:20 阿部野橋 (\690-) 〔近鉄南大阪線〕
11:02 岡寺
11:09 見瀬 丸山古墳
11:40 欽明天皇陵檜隈坂合陵
12:08 高松塚古墳
12:15 文武天皇陵
12:42 明日香小学校
12:50 川原寺跡
13:07 弥勒石
13:12 蘇我入鹿首塚&飛鳥寺
13:55 山田寺跡
14:33 安倍文殊院
14:58 桜井駅着
15:09 桜井 (\670-) 〔近鉄大阪線〕
15:54 難波
見瀬 丸山古墳
(前方後円墳墓の円墳部)
古墳時代後期(6世紀後半頃)に築かれた前方後円墳
その全長は奈良県下最大、国内でも6番目の規模
後円部上には南に開く横穴式石室があり、その
全長は石舞台古墳よりも約9m長く日本最大の規模
玄室内には2基の刳抜(クリヌキ)式家型石棺があり、
奥にある石棺(新しい)と手前にある石棺(古い)が
逆L字型に配置されている
被葬者は、欽明天皇とその妃、堅塩媛(キタシヒメ)、
或いは馬子の父、蘇我稲目などの人物が有力視されている
★大和の軽の地の見瀬丸山古墳は、その巨大さから欽明陵とする★
★説があったが、これも偶然、内部が明らかになり、『日本書紀』の★
★推古20年の堅塩媛の合葬記述と符合することが分った。同古墳は★
★間違いなく欽明陵なのである。ただ驚いたことに、合葬に際し推古女帝★
★は、石室の奥の正殿といって良い場所に置かれていた大王・欽明の石棺★
★を前に引き摺り出し、母の堅塩媛の石棺を正殿に置いたことが判明した。★
★これは推古女帝が「大王は堅塩媛なるぞ」といったのと同じで、暴挙に近い。★
★それを成し得たのは、推古女帝の権威と権力が大変なもので、馬子も★
★厩戸(ウマヤド)皇子(聖徳太子)も従わざるを得なかったからである。これが★
★分っただけでも、推古女帝と厩戸との確執の理由の一端が解明された。★
★だが厩戸が、どう対処したかはまだ謎である。★
=★= 黒岩重吾著 『古代史の真相』 あとがきより =★=
文武天皇陵方向 (左側:高松塚)
高松塚古墳
高松塚より文武天皇陵を望む
高松塚古墳を望む
(左:川原寺跡) 岡寺方向 (右:橘寺)
飛鳥川沿いに…
甘樫の丘を望む
蘇我入鹿首塚より飛鳥寺を望む
蘇我入鹿首塚より甘樫の丘を望む
山田寺跡