安 倍 山 城 跡 |
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この付近が安倍山城の跡である。暦応四年(1341)に、南朝方の
西阿が篭る戒重城を攻めるため、北朝方の細川顕氏らが陣を構えたという。
のち、永禄八年(1565)に、松永久秀が布陣したという。小規模な曲輪跡が
残る。 この南側は、小字名土舞台から、聖徳太子が少年を集め、 伎楽を伝習させた土舞台跡とみなし、顕彰碑を建て、桜井公園として 整備している。 |
桜井市教育委員会 |
土 舞 台 |
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この附近の地名は土舞台と称し、推古天皇の御代、摂政をされていた 聖徳太子がはじめて国立の演劇研究所と国立の劇場を設けられた所です。 すなわち推古天皇紀20年(西暦612年)に帰化人百済の味摩之(ミマシ)に より伝えられた呉の「伎楽舞」を桜井村にて児童に伝習せしめられたと 日本書紀にしるされています。 |
国史跡・安倍寺跡 |
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この地域一帯は、安倍氏一族の本拠地であったといわれ、氏寺である
安倍寺(崇啓寺)の建立は山田寺の創建時代(641年〜685年)とほぼ同じ頃で
「東大寺要録」では安倍倉梯麻呂(クラハシマロ)の建立であると伝えています。 ほぼ伽藍が整備されたのは安倍朝臣御主人(ウミシ)の時代だということもわか ってきました。 また寺の範囲は約200メートル四方で、伽藍は南面し、東 に金堂、西に塔を配し、北に講堂という法隆寺式、あるいは川原寺式に近いよ うです。この基壇は塔跡と云われています。 |
桜井市 教育委員会 |
神社名「稚櫻」の由緒 |
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履中天皇が磐余の市磯池(イチシノイケ)(神社の東側にあった池)
に船を浮かべて遊宴(アソ)ばれたとき、盃に櫻の花びらが散ってきた。 季節外れに珍しく散ってきたこの花を不思議に思われ、物部長真胆連 (ナガマイノムラジ)にその探索を命じた。長真胆連は掖上(イケノヘノ)室山で 花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで宮の名とされた。 == 「日本書紀」による == |
稚櫻神社の御祭神 |
○出雲色男命(シコオノミコト) 「新撰姓氏録」によると物部氏の先祖、
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の三世の子孫であり、櫻の花を探し求めた物部
長真胆連の四代前の祖先にあたる。 ○去来穂別命(イザホワケノミコト) (履中天皇) ○気長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト) (神功皇后) |
御厨子山 妙 法 寺 (御厨子(ミズシ)観音) |
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当寺院は霊亀二年(西暦716)右大臣吉備真備(キビノマキビ)発願の寺にして
入唐留学無事帰朝の願いがかなえられた謝恩の為天平七年(西暦735)その子
善覚律師に観音堂を創建せしめたものである。 北室院・南室院等の寺院跡 が残りこの附近の地名「大門」は当山の山門跡である。 御厨子神社は当山の 鎮守八幡大明神を合祀し、二十二代清寧天皇の磐余甕栗(イワレミカグリ)の宮は、 この山にあったと推定される。 当本堂より東を見下ろした低地は磐余池の あった所である。 |
ももづたふ磐余(イワレ)の池に鳴く鴨を 今日 のみ見てや雲隠(ガク)りなむ |
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「巻三 − 四一六」 大 津 皇 子 |
磐余の池に鳴く鴨を見ることも今日限りで、私は雲の彼方に去ってしまう
のだろうか、という意味です。 この碑の東側に磐余の池があったと伝えら れています。 |
この碑文は写真家 入江泰吉氏による |
橿 原 市 教 育 委 員 会 |