和爾下神社古墳 |
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東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である。
全長約120m、後円部直径約70m、高5m、前方部幅50m、である。
前方部が短く、端部が両側へ撥形に開く特異な形態である。当古墳と、
東大寺山古墳、赤土山古墳、及びシャープ総合開発センター内に所在する
古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。 当古墳から東北約 800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼を になった和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城 と考えられる。 内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には 石棺材があり、また昭和59年の防災工事に伴う調査において一基の埴輪 円筒棺が検出された。これらの遺物により古墳の築造時期は、四世紀末から 五世紀初頭と推定されている。 |
柿本寺跡 創建:奈良時代? |
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このあたりにはかつて、柿本寺というてらがありました。この寺は名前の通り
柿本氏の氏寺で、ここに柿本人麻呂の遺骨を葬ったのが今の歌塚だといわれています。
寺跡には今も礫石の一部が残っており、奈良時代の古瓦が採集されています。 文献では延久2(1070)年の『興福寺雑役免帳東諸部』にその名が見えるのが最初で、 寿永2(1183)年の『柿本朝臣人麿勘文』に「春道社の杜の中に寺あり、柿本寺と号す」 と記されています。南北朝時代の建武4(1337)年に北朝軍の陣地がおかれました。 室町時代には現在の櫟本小学校西側の地に移転し、江戸時代には学僧が多く出て 和歌や茶の湯に親しみました。明治時代の初め頃に廃寺となりましたが、南北朝時代 前後に描かれた『柿本宮曼荼羅』ほかの寺宝が今に残されています。 なお、今の 歌塚の碑は享保17(1732)年に森本宗範や柿本寺の僧らによって建立されたものです。 |
ワニ氏の里・櫟本高塚遺跡 |
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天理市の北部、櫟本町から和爾町には、古代豪族ワニ氏の
本拠地が所在した地域です。日本書紀や古事記には、この地域をワニ坂
と呼び、大和朝廷に仕えたワニ氏の祖先が武力にすぐれた集団であった
ことを記載しています。和爾町の地名はそうした古代豪族の名称が地名に
名残を留めたものと思われます。この櫟本高塚公園の一帯は、通称東大寺山
と呼ばれています。東大寺山の丘陵には東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下
神社古墳など古墳時代に築かれた大型の前方後円墳があります。考古学で
は、総称して東大寺山古墳群と呼んでいますが、ワニ氏の祖先にあたる有力
人物の墓と考えられます。 櫟本高塚公園では、発掘調査を行ったところ、 古墳時代の建物跡(柱穴の跡)が見つかりました。掘建柱跡の形態や規模から 特殊な扱いを受けた建物跡と思われ、盆地を見下ろすような丘陵上に造られた 古代の祭祀場ではないかと思われます。 |
天 理 市 |