2007年9月29日(土)

** 池上曽根遺跡 **



9:43 長居 (\210-) 〔JR阪和線〕
10:25 信太山

10:40-11:15 池上曽根遺跡
11:20 曽根神社
11:50 泉穴師神社
12:40 信太山駅通過
13:05 八阪神社
13:25-40 聖(ヒジリ)神社
14:10-25 葛葉稲荷神社
14:31 北信太駅着

14:44 北信太 (\290-) 〔JR阪和線〕
15:08 天王寺



航空写真
大阪府和泉市池上町から泉大津市曽根町にかけて広がる池上曽根遺跡は、
南北1.5km、東西0.6km、総面積60万uと全国屈指の規模をもつ弥生時代の
集落跡です。集落の周囲が大きな溝で囲まれていたことから、環濠集落と
呼ばれています。弥生時代前期から後期(紀元前3世紀〜紀元後3世紀)
にわたって営まれ、中期(2200年〜2000年前)にもっとも栄えました。

池上曽根遺跡
復元された「掘立柱建物」&「くり抜き井戸」
「いずみの高殿」&「やよいの大井戸」と呼ばれている
曽根神社の森が見える

立柱: 男と女のシルエット
 1994年に発見された北側のものは一辺2.2mの四角く深い穴に、直径60cmものケヤキの巨木を 立てていました。
 1995年に発見された南側のものは一辺1.4mの穴に直径40cmのマツの柱を 立てたものでした。
 池上曽根遺跡にある立柱は、春分秋分には池上曽根の神奈備山(カンナビヤマ) である信太山からさす朝日によって、北の柱の影が刳り抜き井戸に落ちます。井戸を女性の象徴とする のは世界共通で、春分秋分の日の出の光景はまさしく女性を貫く男性の姿を想起させます。これらの ことから北の柱は男性を示し、南は女性を示す柱と考えました。
 春にまかれた一粒のモミが、秋には 数百倍に増えることを実感していた弥生ビトにとって、再生と繁栄は切実な祈りの対象だったのです。
 二本の柱は祭祀空間を明示するとともに、再生と繁栄を象徴的に示すものだったのでしょう。
=パンフレットの説明文より適当に抜粋=

曽根神社
天武天皇四年(675)に創建
祭神は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)等、七柱を祀る
秋祭りには6〜7台の地車(ダンジリ)が宮入りする

曽根神社境内から「いずみの高殿」を望む

泉穴師神社
農業の神と紡績の神が祀られている

聖神社への参道
秋祭りの時、この参道を通り十数台の地車が宮入りする

聖(ヒジリ)神社
白鳳三年(674年)、天武天皇の勅願によって信太首(シノダノオビト)が創建
素戔鳴尊(スサノオノミコト)の孫神「聖大神」を主祭神とし、
天照大神、饒速日命他三柱の神々を配祀している
かつての境内地は信太山丘陵の大半約百万坪を有していた

信太森葛葉稲荷神社
元明天皇がこの森を訪れ保食神(ウケモチノカミ)
への祈りをこめて祭事を行なった、とある
創建は708年といわれている
保食神: 五穀をつかさどる神。食物の神。【広辞苑】

葛葉稲荷神社の伝説
 約千年余り前、今の大阪市阿倍野の里に阿倍野保名が住んでいた。
 父は豪族であったが、人にだまされ所領を没収されたので、保名は家の 再興を願い、当地信太森葛葉稲荷に日参していた。
 ある日のこと、 数人の狩人に追われた一匹の白狐を助けた。そのとき、保名は手きずを受け その場に倒れた。
 白狐は葛の葉という女性に化け、保名を介抱して家まで 送りとどけた。それから数日後、葛の葉は保名を見舞い、やがて互いの心が通じ 合い、妻になり、童子丸という子供をもうけた。
 その子が五歳のとき、正体が わかり、
  「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる
            信太の森の  うらみ葛の葉」
 の一首を障子に書き残して信太の森へ帰ったといい伝えられる。
 この葛葉伝説にまつわる狐がおまつりされているのがこの神社で、今も人々の 信仰をあつめている。
和泉市  (財)和泉市産業・観光振興会