2007年8月2日(木)

** 余呉湖 & 賤ヶ岳 **



7:45 民宿を出る
(市内見学)
9:11 長浜 (\320-) 〔JR北陸線〕
9:29 余呉

10:10-13 中川清秀の墓
10:20 猿が馬場
10:56-11:20 賤ヶ岳山頂 (432m)
11:42 国民宿舎・余呉湖荘
12:02 斎部路通句碑
12:20 新羅崎の森濠
12:25 菊石姫と蛇の目玉石
12:43 民宿着
(シャワー&休憩)
(北陸線路近くにあるレストランで昼食)
(民宿には16:30頃に戻る)



余呉駅から賤ヶ岳(南方向)を望む

賤ヶ岳より余呉湖(北方向)を望む
台風5号の影響で湖面が波立っている…

賤ヶ岳山頂展望台
賤ヶ岳の戦いは、1583年(天正11年)、近江国伊香郡(現:滋賀県伊香郡)の
賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。
織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって、
織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
【 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 】

賤ヶ岳より伊吹山(南東方向)を望む
…曇天でその雄姿をはっきり見ることができない…

賤ヶ岳より琵琶湖(南西方向)を望む

賤ヶ岳より余呉湖畔、川並地区(左方向)を望む

菊石姫と蛇の目玉石
 仁明天皇(平安初期)の頃、この地に住む領主桐畑太夫に菊石姫という娘があった。 姫はある年、干ばつに苦しむ村人を救わんと、余呉湖に身を投じ蛇身となって 雨を降らせた。もう人間にもどれぬ姫は、長年世話になった乳母へ、疫病の 薬にと蛇の目玉を抜きとり、湖中から投げ与えた。目玉は石の上に落ち、その 跡を残したので、以来この石を「蛇の目玉石」という。
 また姫が枕にして、 しばし休んだといわれる「蛇の枕石」は、南側にある椎の老木下の湖中にある。 干ばつの年、この枕石を地上にあげ雨を乞うと、不思議に雨が降ると伝えられる。
昭和五十六年十月吉日
余 呉 町 観 光 協 会

民宿がある川並地区の家並みが見える!
昨日は4〜5時間、今日は2時間歩いている…
両足の肉刺が疼きだし、…もう限界か!…

民宿の窓からの眺め
シャワーを浴び、ホッとするも、足は疼く…、
台風5号の影響か、小雨が時たま落ちてくる
しかし腹は減る…時間はまだある…
レストランは線路の近くにあるらしい
それで、我が重い足に言い聞かせた



2007年8月3日(金)

** 胞衣(エナ)塚 & 鴨稲荷山古墳 **



天女の衣掛柳
 往古 天の八乙女が白鳥となって此の所に舞い降り柳の木に羽衣をかけて水浴中 伊香刀美と云う人が白犬を使って末女の羽衣をかくした。天女は羽衣が無くては 天に帰れず仕方なく伊香刀美の妻となって二男二女を生んだ。その子孫が伊香地方 を開発した祖と伝えられる。
 又別の説によると余呉の豪士、桐畠太夫の妻となり 一男を生んだ。その後天女は羽衣の隠し場所を見つけて天に帰った。残された幼児は 母恋しく泣き続けた。
 ここより一キロ程北に夜泣石がある。その泣き声が法華経 の様に聞こえるので菅山寺の僧が引き取り養育した。菅原是清卿が菅山寺へ参詣さ れた切 その子を養子として引き取られ京都で成人された方が後の菅原道真公である。
 又この柳は中国系のものである。学問の神として祀る菅原公はこの衣掛柳の古説と 北野神社の旧跡は余呉町の旧跡として保存している。
== 説明板より ==

8:58 余呉 (\570-) 〔JR北陸線〕
9:03 近江塩津
9:42 近江塩津 〔JR湖西線〕
10:01 近江今津 10:10
10:18 安曇川

10:35 胞衣(エナ)塚
10:42 鴨川・天皇橋
10:45 志呂志神社
10:47 稲荷山古墳
;〜;〜;::小雨降り始める::;〜;〜;
11:35 中江藤樹記念館
11:55 今宮神社
12:03 萬木(ヨロギ)公園
12:12 安曇川駅着

12:18 安曇川 (\1,620-)
13:28 大阪

胞衣塚(エナヅカ)
 継体天皇は高島の地に誕生され、その母・振姫(フリヒメ)がお産のあと天皇の 「へその緒」を埋めたのが、この胞衣塚だと伝える。
 左の川は「御殿川(ゴンデンガワ)」とよばれ、付近を「御殿」といい、継体天皇に まつわる伝承の多い土地である。
== 説明板より ==

鴨川・天皇橋より
稲荷山古墳(左) & 志呂志神社(右)を望む

稲荷山古墳
 明治35年の県道拡幅工事のさいに発見されたこの古墳は、後円部に 横穴式石室を持つ前方後円墳で、発見当時は、長さ9メートル、幅・高さ ともに約1.8メートルの石室があったとされ、内部には凝灰岩質の刳抜(クリヌキ)式 石棺が納められていた。棺内からは金銅製の冠(カンムリ)や沓(クツ)などの装飾品や 馬具類などが、棺外からは須恵器類などの豊富な副葬品が出土しており、古墳の 造られた時期は六世紀前半と位置づけられている。
 また、この付近は古代の 三尾郷に想定され、石棺や副葬品の状況などから、継体天皇に二人の妃を嫁がし た三尾氏に関係する古墳の可能性が高いとされ、滋賀県を代表する古墳のひとつ として注目されている。
== 平成8年3月 滋賀県教育委員会 ==