[大和古代ニュース] |
||
---|---|---|
石敷き、墳丘外周巡る?明日香マルコ山古墳 | ||
キトラ古墳や高松塚古墳と並ぶ飛鳥時代の終末期古墳の一つ、明日香村真弓のマルコ古墳(国史跡)で6月に出土した石敷きが、墳丘の外周を取り巻くように広がっていた可能性の高いことが明日香村教委の調査でわかった。村教委は「マルコの石室の規模はキトラ、高松塚と同じだが、墳丘は直径24メートルと大きく、石敷きを巡らせるなど手が込んでいる。より立派に見せる効果を狙ったのではないか」とみている。 扇状の広がり確認 6月の調査で、幅約3メートル、長さ約6メートルの範囲で石敷きが出土した。その後、墳丘西側に幅約8メートル、長さ約7メートルにわたって扇状に広がっていることが確認された。全面にこぶし大の河原石が敷き詰めてあった。 村教委は78〜79年と89年の調査で墳丘の北側と東側でも石敷きが一部確認されていることから、未確認の両側を含め、墳丘の周囲を石敷きが巡っていた可能性が高いと判断した。 発掘担当の西光慎治技師補は、「古墳をより荘厳に見せるための装飾だったのではないか。こうした石敷きはキトラや高松塚古墳にはなく、終末期古墳の構造を考えるうえで重要だ」と話している。現地説明会の予定はない。 霊魂を守るためか 広瀬和雄・国立歴史民俗博物館教授(考古学)の話 終末期の古墳は皇族とごく一部の高級官僚に限定された数しか造られてあらず、それぞれが個性的だ。石敷きは格差を付けるためというより、被葬者の霊魂を守るためにキトラや高松塚古墳は壁画で、マルコ山は石敷きで飾ったのではないか。 | ||
(2004/11/6) | ||
マルコ山古墳は六角墳-明日香村- | ||
奈良県明日香村のマルコ山古墳(7世紀末〜8世紀初め、国史跡)の墳丘は1辺約12メートルの六角形だったと同村教委が5日発表した。これまでは円墳とみられていた。六角形墳が見つかったのは全国3例目で、天皇陵が集中する飛鳥地域では初めて。八角形墳は天皇か皇太子級の墓とされ、同村教委は「六角形墳にすることで天皇に近い存在であることを示したのではないか。円墳の高松塚、キトラ両古墳より格上の被葬者だった」とみている。 マルコ山古墳は、77年の墳丘北側の発掘で円墳と判断された。今回は西側の民家が立ち退いた跡地約54平方メートルを発掘し、墳丘を取り囲む石敷きなどが出土。墳丘と石敷きの境が直線で、約140度折れ曲がっている角があることが判明した。77年の調査資料を再検討したところ、北側でも角を確認できた。未発掘の東側や南側についても推定すると、やや膨らみを帯びた六角形になることがわかった。 六角形墳は兵庫県安富町の塩野六角古墳(7世紀中ごろ)、岡山市の奥池3号墳(同)の例がある。いずれも1辺約4メートルと小規模で、当時の畿内の政権とは直接かかわりはないとされる。 マルコ山古墳は飛鳥地域を一望する丘陵の斜面を削って築造された。高松塚、キトラ両古墳と時期は近いが、壁画は描かれていなかった。出土した人骨の分析から被葬者は30代の男性とみられている。 前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は被葬者について、691年に30代前半で亡くなった天智天皇の川島皇子が有力とみる。「八角形墳は天皇か皇太子に限定され、六角形墳はこれに近い格式だろう。万葉集には、川島皇子をマルコ山近くの越智野(おちの)へ葬送する歌があり、人骨鑑定とも年齢が一致する」と話している。 | ||
(2004/12/6) |