2007年7月19日(木)

** 岡宮天皇陵〜見瀬 丸山古墳 **



10:20 阿部野橋 (\690-) 〔近鉄南大阪線〕
11:07 壺阪山

11:30 岡宮天皇 眞弓丘陵
11:33 素盞鳴命(スサノウノミコト)神社
11:45 佐田・束(ツカ)明神古墳
11:56 庚申(コウシン)さん
12:07 マルコ山古墳を遠望する
12:25-35 飛鳥駅前 (昼食)
12:40 岩屋山古墳
12:50-13:03 欽明天皇陵&吉備姫王墓
13:17-34 見瀬 丸山古墳
13:47 橿原神宮前駅着

14:04 橿原神宮前 (\610-) 〔近鉄南大阪線〕
14:43 阿部野橋



高取中学校を過ぎ、北方に向う道を
歩いていくと、左前方に岡宮天皇陵が見えてくる。

《草壁皇子》:天武天皇の皇子。日並知皇子ヒナメシノミコともいう。
文武・元正天皇の父。681年皇太子に立ったが、天武天皇崩後は
母の持統天皇が継ぎ、その3年に没。後に岡宮御宇天皇
オカノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトと追尊。(662〜689) 【広辞苑】

岡宮天皇陵からの眺め
(近鉄壺阪山駅は正面竹林の向こう…)

束明神古墳
岡宮天皇陵の北方、約300mに位置する春日神社の境内にある。

昭和59年4月16日から発掘調査が行なわれた。
石槨の規模等についはこれまで調査された
終末期古墳にみられなかった大規模なものである。
石槨の変遷・棺の構造・須恵器等から総合的に
判断して、7世紀後半から末頃と考えられる。
歯の鑑定結果は、男女の性別は不明で、
年齢は青年期から壮年期と推定される。

天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子、
草壁皇子の墓である可能性が大きいといわれている。

庚申(コウシン)さん
百姓の神様です、と教えてくれた

あそこがマルコ山古墳だ!
…行ったことがあるので今回は遠望するだけ…

吉備姫王墓(キビヒメノミコノハカ)
舒明天皇の皇后であり、孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母

墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側の水田から
掘り出された、いわゆる猿石と称される石造物4体がある

猿石4体

吉備姫王墓より談山神社のある多武峰を望む
左手:欽明天皇陵

見瀬 丸山古墳
(前方後円墳墓の円墳部)

古墳時代後期(6世紀後半頃)に築かれた前方後円墳
その全長は奈良県下最大、国内でも6番目の規模
後円部上には南に開く横穴式石室があり、その
全長は石舞台古墳よりも約9m長く日本最大の規模
玄室内には2基の刳抜(クリヌキ)式家型石棺があり、
奥にある石棺(新しい)と手前にある石棺(古い)が
逆L字型に配置されている

被葬者は、欽明天皇とその妃、堅塩媛(キタシヒメ)、
或いは馬子の父、蘇我稲目などの人物が有力視されている

★大和の軽の地の見瀬丸山古墳は、その巨大さから欽明陵とする★
★説があったが、これも偶然、内部が明らかになり、『日本書紀』の★
★推古20年の堅塩媛の合葬記述と符合することが分った。同古墳は★
★間違いなく欽明陵なのである。ただ驚いたことに、合葬に際し推古女帝★
★は、石室の奥の正殿といって良い場所に置かれていた大王・欽明の石棺★
★を前に引き摺り出し、母の堅塩媛の石棺を正殿に置いたことが判明した。★
★これは推古女帝が「大王は堅塩媛なるぞ」といったのと同じで、暴挙に近い。★
★それを成し得たのは、推古女帝の権威と権力が大変なもので、馬子も★
★厩戸(ウマヤド)皇子(聖徳太子)も従わざるを得なかったからである。これが★
★分っただけでも、推古女帝と厩戸との確執の理由の一端が解明された。★
★だが厩戸が、どう対処したかはまだ謎である。★
=★= 黒岩重吾著 『古代史の真相』 あとがきより =★=

丸山古墳より畝傍山を望む

前方部より後円墳部を望む



【マルコ山古墳】



[大和古代ニュース]

石敷き、墳丘外周巡る?明日香マルコ山古墳


マルコ山古墳の墳丘西側で出土した扇状の石敷き=明日香村真弓で、同村教委提供
立派に見せる狙いか

 キトラ古墳や高松塚古墳と並ぶ飛鳥時代の終末期古墳の一つ、明日香村真弓のマルコ古墳(国史跡)で6月に出土した石敷きが、墳丘の外周を取り巻くように広がっていた可能性の高いことが明日香村教委の調査でわかった。村教委は「マルコの石室の規模はキトラ、高松塚と同じだが、墳丘は直径24メートルと大きく、石敷きを巡らせるなど手が込んでいる。より立派に見せる効果を狙ったのではないか」とみている。

扇状の広がり確認

 6月の調査で、幅約3メートル、長さ約6メートルの範囲で石敷きが出土した。その後、墳丘西側に幅約8メートル、長さ約7メートルにわたって扇状に広がっていることが確認された。全面にこぶし大の河原石が敷き詰めてあった。

村教委は78〜79年と89年の調査で墳丘の北側と東側でも石敷きが一部確認されていることから、未確認の両側を含め、墳丘の周囲を石敷きが巡っていた可能性が高いと判断した。

発掘担当の西光慎治技師補は、「古墳をより荘厳に見せるための装飾だったのではないか。こうした石敷きはキトラや高松塚古墳にはなく、終末期古墳の構造を考えるうえで重要だ」と話している。現地説明会の予定はない。

霊魂を守るためか

広瀬和雄・国立歴史民俗博物館教授(考古学)の話
終末期の古墳は皇族とごく一部の高級官僚に限定された数しか造られてあらず、それぞれが個性的だ。石敷きは格差を付けるためというより、被葬者の霊魂を守るためにキトラや高松塚古墳は壁画で、マルコ山は石敷きで飾ったのではないか。
(2004/11/6)

マルコ山古墳は六角墳-明日香村-


作業員の指しているところが西側の角。右側は墳丘を囲んでいた石敷き=奈良県明日香村で
天皇に近い被葬者?

 奈良県明日香村のマルコ山古墳(7世紀末〜8世紀初め、国史跡)の墳丘は1辺約12メートルの六角形だったと同村教委が5日発表した。これまでは円墳とみられていた。六角形墳が見つかったのは全国3例目で、天皇陵が集中する飛鳥地域では初めて。八角形墳は天皇か皇太子級の墓とされ、同村教委は「六角形墳にすることで天皇に近い存在であることを示したのではないか。円墳の高松塚、キトラ両古墳より格上の被葬者だった」とみている。

  マルコ山古墳は、77年の墳丘北側の発掘で円墳と判断された。今回は西側の民家が立ち退いた跡地約54平方メートルを発掘し、墳丘を取り囲む石敷きなどが出土。墳丘と石敷きの境が直線で、約140度折れ曲がっている角があることが判明した。77年の調査資料を再検討したところ、北側でも角を確認できた。未発掘の東側や南側についても推定すると、やや膨らみを帯びた六角形になることがわかった。

  六角形墳は兵庫県安富町の塩野六角古墳(7世紀中ごろ)、岡山市の奥池3号墳(同)の例がある。いずれも1辺約4メートルと小規模で、当時の畿内の政権とは直接かかわりはないとされる。

  マルコ山古墳は飛鳥地域を一望する丘陵の斜面を削って築造された。高松塚、キトラ両古墳と時期は近いが、壁画は描かれていなかった。出土した人骨の分析から被葬者は30代の男性とみられている。

  前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は被葬者について、691年に30代前半で亡くなった天智天皇の川島皇子が有力とみる。「八角形墳は天皇か皇太子に限定され、六角形墳はこれに近い格式だろう。万葉集には、川島皇子をマルコ山近くの越智野(おちの)へ葬送する歌があり、人骨鑑定とも年齢が一致する」と話している。

(2004/12/6)