もしも法隆寺に太子一族の虐殺者達によって食封が
与えられているとすれば、法隆寺もまた後世の御霊神社や、
天満宮と同じように、太子一族の虐殺者達によって建てられた
鎮魂の寺ではないか。 …中略… 太子一族と蘇我氏の滅亡、
彼等の犠牲の上に大化改新はなされ、舒明帝の子孫と藤原氏が
支配する時代が来た。殺害者の子孫たちは、彼らの父祖の死に
見えざる怨霊の復讐を感じて、その霊を手厚くまつろうとしたのではないか。 |
古墳のつくられた時期については、古墳時代後期の6世紀後半と考えられています。 内部の構造は、南東方向に開口(かいこう)する全長13.95m、 玄室(げんしつ)幅2.67m、玄室高さ4.41mの両袖式(りょうそでしき)の 横穴(よこあな)式石室で、その玄室の奥壁の近く、横向きに全体を 朱(しゅ)で塗られた凝灰岩(ぎょうかいがん)の刳抜式家形石棺 (くりぬきしきいえがたせっかん)が置かれていました。 石室内からは鎧(よろい)や鉄鏃(てつぞく)などの武器・武具(ぶぐ)、 金銅装(こんどうそう)の馬具(ばぐ)、土師器(はじき)・須恵器(すえき) などの土器類が出土しました。なかでも装飾性豊かな馬具類は、 鞍金具(くらかなぐ)にパルメット、鳳凰(ほうおう)、象(ぞう)、鬼面(きめん) などの姿の透(すかし)彫りをほどこした、類例のないみごとなものです。 石棺内は未盗掘(みとうくつ)で埋葬当時の姿がほぼそのまま残って いました。被葬者(ひそうしゃ)は2人で、北側に17〜25歳の男性、 南側は年齢を特定できないのですが、男性の可能性が高いといわれています。 石棺内の副葬品(ふくそうひん)は豊富で、各種の金属製の玉(たま)類や 1万数千点を超えるガラス玉などの装身具(そうしんぐ)、冠・履(くつ)・大帯(おおおび) などの金属製品、四面の銅鏡(どうきょう)、玉纏大刀(たままきのたち)、剣(けん)などが そえられていました。またその他に遺体を覆っていたと思われる繊維製品も多量に残っていました。 藤ノ木古墳は、このように6世紀後半の埋葬儀礼(ぎれい)を解明するうえにおいて 貴重な資料を提供したばかりでなく、当時の文化の国際性をも示すきわめて重要な古墳といえるでしょう。 【いかるがホールサイト内、「斑鳩 藤ノ木古墳」の説明文より】 |
[伝説]聖徳太子が法隆寺を建立するにふさわしい土地を探しているとき、
竜田明神が翁(おきな)の姿になって現れ「われ、守護神ならん」といい、
太子はこのお告げに従って法隆寺を建てたという言い伝えがあります。
しかし、守護神を祀(まつ)るのに竜田大社(本宮)のある三郷町立野までは遠い
というので、この地に祀り、法隆寺の鎮守としたとしたのがこの竜田神社とされています。 【白髪の老人の伝説】 聖徳太子が16歳の時(589)、飛鳥から来られて法隆寺建立の地を平群川(龍田川)に 沿って探しておられました。この折りに、白髪の老人が現れ「ここから東、ほど近いところに 斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の聖地である。われ守護神となろう」とお告げがあった。 この老人こそ龍田明神の化身でした。 |