上梓【2009.04.12】
Il y a longtemps que je …
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4月
- 3月31日(火) 曇り
- 僕の乗った大韓航空の旅客機は予定の到着時刻より約2時間遅れてパリ郊外のオルリ空港に到着した。機内で知りあった画家の濱田さんがイベリア航空の窓口でマドリッド行きの手続きをするのを見届けて、別れた。現金をフランに変える。時計を見ると、午前10時30分を指している。1時間が経過したことになる。異国の地に立っているのだという実感が初めて湧き出してきた。空は曇っていたが、雨の降る気配は無かった。
大橋君の泊まっているホテルに電話するが、相手の言っていることが解らない。恐らく部屋にはいないと言っているのだろうか……仕事で出て行っていないのなら仕方がない。取り敢えず彼の宿泊しているホテルまで行くことだ。
アンバリッドバスターミナル行きのバスに乗り込む。18フラン。チップとして3フラン渡した。発車間際に学生風の日本人女性が6~7名ドタバタと乗り込んで来た。背広姿の日本人男性の横に座っていたフランス人女性が彼女達に「いらっしゃい」と笑顔で声をかけた。実に自然な日本語だ。彼女達はラッキー、ラッキーと喜んでいる。夫婦なのだろうか、三十代の若さだ。二人は終点の手前、モンパルナスでバスを降りた。
バスターミナルからは地図を頼りに歩くことを考えたが、荷物が重すぎる。タクシーで行くことにした。「ホテルニコール、ポール・ロワイアル、シルヴプレ」と言うと通じたようで、荷物をトランクへ入れてくれた。降りるとき、メーターは15Fを示していた。20フラン渡すと、車内の表示文を指さしながら、もっとお金を要求しているようだ。いくらなのか聞き取れなかったが、10フラン硬貨を一枚渡すと、それでいいのか何も言わなくなった。パリにはタクシー運賃を大目に吹っかけてくる運転手もいると読んだのを思い出す。馬鹿にされてたまるか、闘争心がむらむらと沸き起こって来た。「チェンジス、プリーズ」とやや語意を強めて言うと、2フラン50サンチーム返ってきた。そこで用意してあった2フランをチップとして渡してやった。サービス料10%と手荷物代とでそれだけの料金になったのであろう。運転手はトランクから荷物を出してくれた。「オールヴォアール」と言うと、「メルシ、ムッシュウ」という声が返ってきた。
ホテルに入ると若い男性が受付にいて、英語で応対してくれた。大橋君はやはり仕事で出て居らず、4時頃にならないと帰ってこないだろうとのこと。また今は空き部屋はないとのことであった。荷物を預ける。感謝の意を込めて、マイルドセブン2個進呈する。12時を過ぎていた。
ソルボンヌ大学のあたりまでぶらつく。ほとんど同じ高さの石の建造物がどっかりと居座っている。その威圧感を圧倒的に感じながら、恐る恐る足を運んで行く思いであった。帰りはリュクサンブール公園の中を通って帰ってくる。すれ違った二人連れの若いフランス人からジャッポンとかジャポネとかの声が聞き取れた。自分のことが言われているような気がした。風邪気味でマスクをしていたのが異様に見られたのかも知れない。いや、こちらの気のし過ぎだろう。1時過ぎに戻る。今、ホテル・ニコールの待合室でこれを書いている。
- 4月2日(木) 曇り 於 ホテル・カプシーヌ
- 今、地下鉄ポール・ロワイアル駅の近くにある学生向け簡易食堂から帰って来て、おばさんがベッドのシーツ替えをするのを手伝い、机の前に座ったところ。
おばさんの話は仏語だからすべて理解できなかったが……。おばさんは60歳、二コールで14室の仕事を終え、このホテルのシーツ替えを上から順にやってきて、ようやく地上階1号のこの部屋にやって来た。おばさんは「ボクドタバイ」と僕に訴えるように言った。きつい仕事なんだよ、疲れたよ、くらいのニュアンスか。下腹部を手で押さえて、オペラシオンと言っていたから、手術したのだろう。そして同時に、歯を指さしていた。歯痛で困っているのかも知れない。
食堂は、昨日大橋君が教えてくれた。1階玄関を入った所で、10枚綴りのチケットを50フランで買い、その1枚を渡すと、約250円で腹一杯食べることができる。骨付き豚肉とジャガイモと菜っ葉を煮込んだもの、オレンジ(夏みかんの大きさの半分、上に砂糖を振りかけてある)それにビスケット。パンは好きなだけ食べてよい。これで腹はふくれるが味は不味い。しかし僕は、ある種の感動をもってみんな平らげてしまった。
僕が席に着いてしばらくして、斜め前の席に女子学生が座った。彼女は自分のオレンジを真っ先に食べ終えると、前の黒人の学生が食べないと見るや貰っていいかと断って、テーブルに誰かが残してあったのと一緒に紙に包んで鞄の中に仕舞い込んだ。そして、僕の二倍の速さで食べ終えると、あしばやに出て行った。フランスの学生は貧しい生活を両親からも社会からも強いられている、と何かの本で読んだことがある。不味いなあ…と思いながら食べているときに、彼女のそうした姿を目の当たりにして、僕は深い感動を覚えたのだ。
日本の学生はどうだろうか。裕福な家庭であっても、子供には敢えてつつましい学生生活を送らせる親がいるだろうか。社会もこのような施設を豊富に提供するが、決して甘やかしたりはしない。学生はハングリー、アングリーとなり、社会に対する健全な批判の眼を養うことができる。ここでは学生はほとんど同じように貧しくつつましやかな生活を送っているのだ。このような社会体系では、日本のような、言葉にするにも厭になるほどの腐敗は起こり得ない。腐敗を進行させる力より、それを批判する力のほうが常に勝っているのだ。日本は近代国家の一員であると堂々と言えるのだろうか。近代の行き詰りがとやかく議論される昨今、日本がそうした議論に加わる資格がはたして有りや否や―。
一昨日の午後4時を少し過ぎた頃、大橋君が帰ってきた。久し振りの再会に心躍らせて握手を交した。彼の手から伝わってくる熱の温もりに微かな異変を感じたが、その再会を喜びの感情で祝ったことは間違いなかったのだ。
彼の部屋は6階(日本ふうに云えば7階の)屋根裏にあった。彼はこれから夜の部の仕事があるのですぐに出て行った。僕は彼のベッドに横になり旅の疲れを癒すことにした。
彼は深夜過ぎに帰って来た。駆け足で部屋に入ってきた。息遣いが多少荒く感じられた。彼は大学を卒業しても職に就かずにアルバイトをして暮らしていた。スイス人女性と結婚した彼のお兄さんを頼って昨年の五月の末にスイスに行き、夏山シーズンが終るまで山小屋でアルバイトをし、その後ロンドンに渡り、生活の方途を模索したが果たせず、パリとリッツェルンを行ったり来たりしていて、今年の2月の初めにSUNTORYという名の日本料理店で働き始め、まだ1ヵ月も経っていなかった。「松本さん、おなか空いたでしょう」と言って、手に持っていたハンバーガーの袋を広げた。僕は以前の大橋君を思い出して、幾分ほっとした。彼は僕のために明日の昼の仕事は休みを取ってくれていた。僕たちは明け方近くまで話し込んだ。
飯島三五朗というチェロ弾きと正月二日に初めてストリートミュージシャンをしたときの話。パリの住人の芸術家を見る目は厳しく、自分でも満足のいかない演奏のときは足を止めて聴いてくれる人の数は極端に少なく、当然上がりも少なかったという。
彼の異国での生活は順調に滑り出したようで、スイスの山小屋で働いていたときの思い出を語る彼の口調は滑らかであったが、ロンドンでの孤独な一ヶ月は相当ひどいショックを彼の心の奥底に残したらしく、余り話したがらなかった。
彼の友達、村山君とは日本を発つ飛行機の中で知りあったとのこと。卒業を一年後に控えたフランス語科の私費留学の学生で、彼がロンドンを引き上げ、パリに住み着くようになったのは村山君によるところが大きかったのだろう。
彼の話は、間が空いたときの僕の問いかけにもよるが、時の流れに関係なくあちこちへ飛んだ。彼の今の仕事はデザートの盛り付けが主で、洗い場の仕事を長年やっている画家さんは今、パリでは少し注目されているらしいこと、等々。今の職場の人達との心の葛藤やロンドンでのハングリーな孤独な生活体験に端を発したと想われる過敏な神経の微動――この神経が僕に対しても同じ様に響いてくる。今の彼は必死の思いで生きていて、心の余裕などありはしない、そうした中から沁みでてくる冷ややかさは、理解できる様にも思えたが、僕も生の人間、以前の彼と違っている面を見せつけられて、内心戸惑いを感じ続けていた。<君は異国にいて、観るもの聴くものすべて新しく、そうした体験談をどんどん書いて下さい>というような内容の手紙を彼にかつて書いたのは誰なんだ!。昨年の12月の初めに貰った彼の手紙に「金の切れ目が縁の切れ目……ロンドンを去ります」と書いてあったことに対する、僕のなんという想像力の貧しさであったことか。他者に対する優しい思いやりと、現在及び将来に対する暗さからくる苛立ちと…。すべてみな、思うように言葉の通じない異国の地に今、僕たちは居るのだから―。
午後2時過ぎに僕たちは起きた。ホテルの一人部屋は明日は空くでしょうとマダムは言っていた。それでもう一晩彼の部屋に泊めて貰うことになった。
僕たちはメトロに乗り、シャンゼリゼで降りた。地上に出るや、凱旋門が目に飛び込んできた。まだ少し早いが、仕事に出ると彼は行った。店は6時半に開くとのこと。12時半に待ち合わせるカフェを決める。彼が行った後、僕は当座の生活資金を確保すべく近くの銀行に入った。8万円が1,808フランに替った。懐具合がよくなったせいか、歩く足取りに安定感が戻ってきた感じ。9時頃まで辺りをぶらぶら歩き廻った。アレクサンドル三世橋を渡る頃じわじわとパリの持つ歴史の重みを肌に感じるようになる。アルマ橋を渡り直して再びシャンゼリゼ通りへ。待ち合わせのカフェはバルザック通りのかかりにあった。その前を通り過ぎ少し行くと映画館があったので、そこで時間をつぶすことにする。言葉は理解できず、歩き疲れもあってうとうとしてしまい映画の題名も内容もよく憶えていない。出て時計を見る。まだ30分ある。喫茶店に入りカフェオレを注文する。6フラン。日本円に換算してみる、約270円か。中年の男性がアルコールがまわりだしたのか、盛んに大声を張り上げている。何となく場違いな所へ入り込んでしまった感じで、心の余裕はまったくなくしてしまっていた。退屈で窮屈な30分であった。辛抱しきれずそこを飛び出し、ぶらぶらしていると大橋君がやって来た。店は今日も忙しかったらしい。本当にすまない……。
最終に乗るため、駆け足で急いだ。ぎりぎり間に合ってほっとする間もなく、方向が反対であると彼が言う。ラ・デフォンスで降り地上に出ると、近代的な高層建築が立ち並ぶ所のようであった。大橋君は多少神経質になっている様子。車で帰るしか仕方なく、僕たちはタクシーを拾った。最終に乗り遅れてタクシーを利用することは今迄何回かあったらしい。サン・ミッシェルまで35フラン50サンチーム。50フラン紙幣を運転手に渡すと、彼がすかさず、"Vous prenez quatre francs." と言った。運転手は10フラン硬貨を僕にではなく彼に手渡した。彼の気負いに僕は一瞬ハッとした。チップはこういう具合にタイミングよく渡すものなのだ。彼のゲストとしての態度をとればいいのだと思い直す。パリの生活に溶け込み始めている彼の姿を見せつけられた思いだ。
開いているカフェに入りビールを注文する。32フラン。日本では割り勘を原則としていたが、彼が出すと言う。僕を迎えてくれる彼の気持だ。しかし先程の10フランがポケットにあったので彼に渡した。乾杯!。日本にいたころの気分が甦る。そのカフェを出たのは2時半頃だったか。若い女が金をねだりに来たり、女性っぽい若い男性がホットドッグを買っている時にねだってきた。そんな時彼はすかさずノン、と言うと、相手は諦めてすぐ離れて行った。ホットドッグを噛りながらホテルへ向う。彼はすぐに平らげてしまった。僕がようやく食べ終えると、「松本さんはもう腹一杯になったでしょう」と言う。彼はまだ空腹らしい。僕の状態を羨ましそうに思う口振りであった。ロンドンの惨めな生活を思い起こしていたのかもしれない。部屋に入ると彼はすぐ机に向った。週二回、フランス人から午後の休みに会話を習っていて、その復習である。早い目に仕事場に向ったのはその為であったのかと今思い当たった。彼の頑張りに或る種の気負いが感じられたが、今の彼の姿は必死そのものなのだ。復習を終えると彼はベッドに入ってきた。疲れているのだろう、すぐに鼾が聞こえてきた。僕はなかなか眠られず、ちょっとうとうとした感じで目が覚めた。8時半。彼を起こしては悪いと思い仰向けのままじっとしている。しばらくして彼も目を覚ましたらしい。彼は神経質そうに足を何度か動かした。マダムはああ言っていたが、今日本当に一人部屋が空くかどうか分らない。そうしたら……という気持で彼もなんとなく苛々しているのだろう。「今日もまた4時に帰って来なければならない」という言葉が彼の口から出たのだ。彼の気持は解らなくはないが、なんとなく友情にひびが入ったようで寂しく思う。今の僕は観光客。彼とは違う立場なのだ。
9時過ぎに僕たちは起き下へ降りて行く。彼の心配は当たった。彼も何度かこのようなことがあったのだろうか……。マダムは確か11時まで待ちなさいと言っていたようだ。チェックアウトはその時刻なのだろう。心配するなよ、何とかするから―と僕は作り笑いをした。
ホテルの近くのカフェでエキスプレスという濃いコーヒを飲み、彼は仕事に出かけていった。払いは頼むと作り笑いをしたのが印象に残っている。小銭がなかったので100フラン紙幣を渡すとあのウェイター、レジにしまい込んで他の仕事を忙しそうにやり始めた。日本では想像できないことだ。しばらく黙って見ていたが辛抱し切れず、"Changes,please! " と要求すると、やっとこさ持ってくる。50フラン紙幣は二枚でないか確かめていることを見せつけるように、さも重々しく親指と人差し指でこすりつけながら。3フラン20。一杯1フラン60ということになる。小銭を持っていなかったのだから仕方がない。これから僕は異国の地で自活していかなければならないのだと思うと急に孤独感が襲ってきた。
ホテルに帰り、待合室で12時半まで待った。何も言ってくれないのでしびれを切らして受付にいるマダムの息子に尋ねると、明日は大丈夫だろうと言って、この部屋の鍵を渡してくれた。奥でマダムと何か言い合っているようであったが、どのような内容であるかは分る由もない。こちらに荷物を一つ持ってきて、それから学生食堂へ食事に行ったのだった。――今午後4時15分。
午後7時過ぎに出て、サン・ミッシェル通りをぶらつく。「愛のコリーダ」は深夜零時から上映される。遅くなるので断念。ちょっとすけべ好奇心……むらむらとポルノ映画館に入る。しかしあのように実際そのままを見せつけられると、うんざりしてしまう。すごく眠い。今11時ジャスト。就寝。
- 4月3日(金) 曇天。午後より薄曇り。ぼんやり太陽が見える。
- ニコールホテルヘ空き部屋のことを訊きに行く。息子が奥へ入って行って、マダムに確かめたようだ。今日は駄目、明日はOKだと……。また明日か。明日はどうなるか……。
昨日、大橋君、4時に帰って来なかったとのこと。深夜、握り飯を持って帰ってくれたが、パンだけ食べるのと同じで……、しかし多謝。
学生食堂で昼食。その後、モンパルナス界隈を歩く。モンパルナス大通りの終点、デュロック駅まで行って引き返す。サン・ミッシェル大通りと比べて、学生の街に対して市民の町といった感じ―。モンパルナス駅に入ってみる。ロンドンの駅より明るい。近代的である。パリの他の駅はどうだろうか……。歩いてばっかりで、足の裏が左右ともに疼く。3時半に戻る。
5時半頃に出て、サン・ミッシェルへ。封筒、便箋、絵葉書などを買う。店員に買いたい物を手渡すと、領収明細書のようなものをくれる。これを持って店内にある Caisse へ行き、お金を支払うと領収の印を押してくれる。これを店員に見せて品物を受け取る、という仕組みになっている。最初これが解らず、少し当惑してしまった。
交差点の角に公衆トイレがあった。地下に降りて行く。小用をたして出て来ると、小皿が置いてあるのに気付く。見るとサンチーム硬貨がニ、三枚入っている。ポケットに手を入れると10サンチームが一枚出てきた。それを入れると、大の方への角に立っていた婦人がメルシと言った。この位でいいのだろうか……。大の方には何か書いてあって、1Fとあったように思う。
7時半頃部屋に帰ってくる。足の豆が潰れそうな状態。痛い。今から何をするか。本でも読んで、寝るとするか。
- 4月4日(土) 曇天。明け方、霧雨。
- 11時過ぎにニコールへ行くと、受付にマダムがいて、部屋が空いたとのこと。日本人がつい今しがたチェックアウトしたらしい。最上階(7階)の33号室。大橋君の36号室より暖かい感じだ。窓が少し傾斜している。36号室は通りに面しているが、この部屋は反対側。方向は地図から判断して、窓は南東に向いている。さて、これでやっと荷を解くことができる。
この部屋は一日32フラン。カプシーヌホテル二晩と大橋君の部屋二晩の勘定を頼むと64フラン請求された。大橋君の部屋代は彼が払っているのだから、請求されるはずはない。当然のことだ。シャワーのことを尋ねると、紙に9と書いた。一回、それとも一ヶ月で?。一ヶ月400円ということはないから、一回9フランだろう。高すぎる。
大橋君は「気を使わないで下さいよ」と言っていたが、彼も貧しい生活、30フラン置いてきた。いろいろ世話になった。多謝。仕事は疲れるらしい。
7時頃ホテルを出て、大橋君の指示通りサン・ジャック通りを歩いて行くと、パンテオン広場への通りと交差する少し手前に「京子」という店があった。そこで夕食。トンカツ定食22フラン。お茶1フラン。客は日本人が多く、あのような所で働いていては、生きたフランス語の勉強にはならないだろう。店には日本から輸入された食品が多く並べられてあり、日本料理の各レストランに材料を卸しているという。
村山君に会う。山本君もフランス語科なので、知っているか訊いてみるとゼミが同じだったとか。世間は広いようで狭いとはこのことか、と思う。卒業を延ばして当地へやって来たらしい。話し声が他の従業員に聞こえたらしく、「初めて聞いたぞ、仏文科の学生だったのか、すごいな……」と言うやつがいた。羨望とも、皮肉ともとれそうな口振りであった。あのような言い方は実に厭なものだ。彼に悪いことを訊いてしまったような気がして申し訳なかった。彼、マイルドセブンを大変懐かしがっていた。9時半頃帰室。
- 4月5日(日) 曇天。風が冷たい。
- 朝、当地に来て始めてフランス語の勉強を始めるが、熱が入らず。正午過ぎに外出。
学生食堂は開いていたが、混んでいたので、入らず。ブルス広場にある年中無休と旅行ガイドに書かれてあった郵便局へ行く。地下鉄に乗るのは二度目。一人で乗るのが今日が最初。シャトレ・レ・アルで乗り換えたが、非常に複雑。しかしはっきりと案内表示がなされてあるので、地下鉄線路図を見れば間違うことはない。路線図を頼りに案内表示を見ながら歩いて行く。初心者にとっては少し複雑な道筋を辿ってゆかなければならない圧迫感もあったが、歩いて行くにつれ、何か数学の方程式を解くときの手続きに似たような感じがしてきて、必ず解に到達できる安心感があった。ようやくブルセ駅に着き、地上に出ると郵便局はすぐに見つかったが、閉まっていた。ガイドには無休とあったのに―。
パレ・ロワイヤル、コメディ・フランセーズのそばを通り、ルーブル美術館に入る。モナリザの実物を初めて見る。大橋君は大変感動したらしいが、僕はそれほど大きな感動に捉えられることはなかったが、モナリザの右手が実にふくよかで魅力的だと思った。
その頃には疲れを感じ、足も痛み出していた。昼食をとっていなかったのでかなり空腹感を覚えていた。セーヌ河を渡り、サン・ミッシェルに辿り着くや、サンドイッチを買い腹を充たした。その後ノートルダム寺院へ。やはり絵葉書にあるように、左岸からの眺めが一番よい。実に素晴らしい、繊細な建築物。いつまで見ていても飽きない光景だ。
パンテオンにはルソーの像が立っていた。サン・ジャック通りを通って帰る。
夜、中島みゆきのカセットをかけていると、隣室32号の宿泊客が入ってくる。日本の歌声に非常な懐かしさを覚え、じっとしていられずついノックしたのだと言う。商学部二回生の学生で、一ヶ月ほどヨーロッパ各地を旅行してきて、9日にヒースロー空港から帰国する予定らしい。気軽に海外にやって来る学生が年々多くなってきているのだろう。因みに隣は36フランとか。
- 4月6日(月)
- 朝方7時頃、太陽が一瞬顔を覗かせたがすぐ雲に覆い隠される。10時、太陽がまぶしい。今日は比較的晴れ間が多かった。
手紙を出しに正午前に外出。封書は2フラン70。絵葉書2フラン20。学食で昼食。夕方6時半にホテルに帰る。足の裏の豆がひとまわり大きくなっていた。本当に疲れた。風邪が悪化するのではないかと心配したくらいだ。
モンパルナス大通りからアンバリッドへ、セーヌ左岸沿いに歩いて行き、エッフェル塔に上る。1階は閉鎖されていて、2階へ。エレヴェーターを利用(16F)せずに、6フランの入塔料を払い歩いて上る。2階に近付くにつれて頭がフラフラしだした。最初に視界に飛び込んできたのは、シャイヨ宮からブローニュの森の一端をかすめ、その向うに近代的なビルが林立する光景だ。素晴らしい!。しばらくじっと魅入っていた。眼を転じてモンマルトルの丘を眺望する。雲が動いてサクレ・クール聖堂に太陽光線が当ると、パッと聖堂全体が輝き始め、白い大きな花が開いたような鮮やかさであった。雲ひとつない晴天の日なら、もっと遠くの方まで見渡せるのだろう。
トイレで小用をたす。サンチーム硬貨や1フラン硬貨が入れられてある小皿に使用料として1フラン置いて出る。何気なく振り返って見ると、出口に立っていた婦人がさっと溜った硬貨を仕舞い込み、1フラン硬貨だけを二三枚残して何食わぬ顔をしていた。
シャイヨ宮からクレベル大通りを通り凱旋門へ。シャン・ゼリゼ通りに沿いルーブル宮へ直進。シテ島の左端ポン・ヌフ広場を抜ける頃から疲れを覚え始める。サン・ジェルマン・デ・プレ界隈を素通りして帰ってくる。リュクサンブール庭園に入る手前にオデオン座があった。
- 4月7日(火) 曇り。夕方少し晴れ間が見えた。
- これから午前中は仏語の勉強に当てることにする。
10時半頃だったか、大橋君の部屋をノックすると、もう出かけていない筈の彼の声がした。ノック音で目が覚めたらしい。遅刻する、タクシーを拾う、と言い残して慌てて駆け降りていった。何故ノックしたのか、居るような勘が働いたのか、よく分らない。起してやってよかったのだと自分に言い聞かせる。昨夜はよく眠れなかったらしい。僕も眠りは浅いらしく、いろんな夢を見ていたようだ。昨夜、雷鳴があったように思うが、夢であったのかも知れない。
部屋に戻り、本を開いて勉強に取りかかるが、気がのらず、気分転換にと外に出る。サン・ジェルマン・デ・プレ界隈をほっつき歩いて、3時半に帰宅。郵便局で切手を買ったが、まだフランス語の発音になっていないのだろう、15枚がなかなか通じなかった。バゲットをかじり昼食とする。「ル・グラン・モーヌ」を読む。面白くなってきたところ。
夕方「京子」へ食事に出かける。客はほとんど日本人。村山君に会えず。昼間だけ働いているとのこと。腹は満腹、ぶらりぶらり歩いて帰る。9時。ヴァン1リットル瓶を1本買う。5フラン40なり。
送別会を開いてくれた1組の生徒に絵葉書を書く。10枚だと意外に時間がかかってしまった。10時半就寝。
- 4月8日(水) 目が覚めた頃出ていた太陽が、間もなく雲間に消え、以後一日中日が照っているのかいないのか判然としない朧な状態が続いた。
- 相変わらず夢をよく見る。10時半起床。疲れているのだろうか。
今日はバスチーユ。広場の中央には革命記念塔。デモ隊が通る。何の為のデモかは分らない。その間10分、車は通行止め。オーステルリッツ橋を渡り、植物園を通り抜け、帰ってくる。6時。
あと、サン・マルタン運河とサクレ・クール聖堂を見たい。しかしパリ見学は時間をかけてやればよい。もう大方のパリ市の概略は頭に入ったようだ。勉学と生活のことを考えないといけない。
パン、ワイン、チーズ、イチゴジャムの食事。これは安くつく。チーズの味は日本のと大分違うようだ。あまり口に合わない。食べられないという程ではないが。
- 4月9日(木) 午前朧天気。午後より晴れ間、歩くと汗。夕方素晴らしく晴れ渡る。
- 昨夜は1時過ぎまで起きていたが大橋君のノックはなく、眠ってしまう。夢は見なかった。熟睡したようだ。
ポール・ロワイアル通りで朝市。中国人とフランス人の果物店が隣り合わせていて、通りかかったとき中国人の店には客はなく、フランス人の店の前には人が多かったのが印象に残っている。何か理由があったのだろうか、それともたまたまそうだったのか、詳しく観察することなく通り過ぎてしまった。
3時半に「京子」の前のカフェで仕事の終えた村山君と会う。まだ24歳の若さ。これからアリアンスへ授業を受けに行くと言うので、場所を教えて貰うために同行する。その語学学校はリュクサンブール庭園の中央を東から西に通り抜けて少し行った所に在った。受講申し込みに七、八名の人が並んでいた。明日あらためて手続きに来ることにして、そこを出る。
4月13日号「タイム」を買い、リュクサンブール庭園のベンチに座って読む。ほとんど半分の紙面を割いてレーガン暗殺未遂事件を報じていた。幸い大統領は軽傷ですんだようだが、ジェイムス・プレイディー報道官は頭を撃たれて即死。他二名も銃弾を身体に受けたようだ。アンカレッジ空港の待合室で発砲直後の場面がテレビ画像に映っており、何かあったなとは思っていた。
村山君に教えられたように、JISUはサン・ミッシェル大通りの南端近くにあり、通りに面していた。これまで西側の通りはほとんど歩いたことはなく、気付かなかった。彼はそこの張り紙で今の下宿を探したとのこと。僕も、日本を発つ前航空券を購入する為ではあったが、そこの俄か会員になった。安い下宿情報が得られるかも知れない。
概算してみると、今日までに約680フラン使った。ホテル代は含まれていない。
今食事をしていると電話がかかってきた。マダムの声のように思った。 Vous avez トンベ?。トンベかタンベか、そのように聞き取れたが、よく解らず、 Who are you? と訊いたら、切れてしまった。不安な思いで下へ降りて行ってマダムに、 "Vous avez telephoné moi ? " と尋ねたら、返事が返ってきたが、悲しいかなマダムのフランス語が理解できず、しばらくしてもういいと言っているようなので、上がってくる。言葉が通じないということは実に不愉快なことだ。本を読んでいると、10時半頃にまた電話の鳴る音。受話器を取ると、すぐ切れてしまったようだ。僕に向って言っているような声ではなかった。一体何だと言うんだ!
- 4月10日(金) 晴。夕方より雲多くなる。
- 今日は夕方までずっと晴れ渡り、雲はほとんど見えなかった。しかしその空は真っ青に澄み渡っているのではなく、雲が薄い膜となって空全体を覆っているような感じで、その為青い空とはいってもその色調は淡くやわらかである。この時期だけの特徴なのか、五月六月になるにつれてどのように変化していくのか、多少興味を覚える。
今日は非常に充実した一日であった。
昼食を「京子」でした後、アリアンスへ入学手続きに行く。今月の21日から早朝8時30分~の授業を受けることになった。授業料は今月分100フラン、5月分400フラン、入学金50フラン、テキスト代27フラン。
手続きを済ませたとき、受け付けてくれた40代のがっしりした体格のひげを生やした紳士に、テキストは何処で買えますかと、たどたどしいフランス語で尋ねると、英語で応えてくれる。奥さんは京都の人で、旧姓は僕と同じだそうだ。家族は今京都に住んでいるとのこと。別れ際「さよなら」と覚えたてのような日本語が発せられた。その日本語に釣られて僕も「さようなら」と言うと、隣のフランス人も "Au revoire." オウヴァーと聞こえた。僕も "Au revoire."と何故返せなかったかと悔やまれるが、その時の僕はかなり緊張していたに違いない。しかし非常な親しみと安堵感を覚え、その後しばらくは幸福な気分の中にいた。
リュクサンブール庭園のベンチに腰を下ろし、買ったテキストのページを繰る。天気も良く、大勢の人があちこちのベンチに思い思いに座っている。このような広い公園を持っているパリ市民に羨望の念を覚える。心にも余裕が生まれるというものだ。4時頃まで座っていた。
JISUの掲示にアルバイト募集と出ていた「東風」というレストランを探そうとぶらつくが、見つからず。サン・ミッシェル広場近くの映画館で「白痴」を観る。すごく感動する。今日は金曜日である為か、最終9時からの上映に、約200名入りの館内は八割位の人で埋め尽くされていた。パリの黒沢人気を思い知る。字幕がフランス語だから語学の勉強にもなった。11時45分終了。
部屋に帰り、身体を拭き、日誌をつけていると大橋君が入ってくる。1時前。2時半頃まで話して帰る。3時10分就寝。
- 4月11日(土) 晴。
- オペラ座の近くにある「サクラ」という日本料理店へ。仕事決まる。4月30日より、夜6時~11時。皿洗い、月1,300フラン。寮にも入れることになる、月400フラン。これでフランス語習得に専念出来る。この喜びをどう表現しようか!。しかしこれから、まだまだ多くの障害が待ち構えているだろう。決して気を弛めることなかれ。
朝、パリ在住の日本人向け情報誌「オブニ」に広告が出ていた店四、五軒をピックアップし、求人広告の出ていない「サクラ」に何故か真っ先に電話を入れた。求人広告を出している店もある。数撃ちゃ当るだろうと、むしろ楽天的な気分であった。語学学校へ行きたいので夜だけ働けないでしょうかとこちらの条件を述べると、雇ってくれそうな口振りであった。2時半に店で会う約束をする。まだ時間はたっぷりあったので「東風」を探しだし、そこで蛙の唐揚定食とビールを飲む。「今日のこの閑散としたこと。嵐の後の静けさですわ」と30半ばの和服姿の、雇われマダム風の女性が応対してくれる。彼女の優しそうな微笑みに異国での緊張感が一瞬和らぐ。「サクラ」が駄目ならここに電話しようと思った。
「サクラ」の主人は前川さんといって、少し太り気味で、丁度作家の小松左京氏に似た体格の持ち主であった。ひとあたりが柔らかで、気のよさそうな人柄に見受けられた。今皿洗いをしている学生が今月一杯でやめることになっていて、求人広告を出そうと思っていた矢先であったらしい。話が決まり、帰り際、家主だという人がいたので、覚えたフランス語を使ってやれと思い、 "Je vais travailler ici." と言うと、待ち構えていたようにぺらぺらと喋り出した。ちょっとあっけに取られていると、前川さんがそれを受けて何か言った。何を言っていたのかまったく解らずに、僕は会釈をして店を出た。
オペラ座の前の石段には、多くの観光客が暖かい日差しを浴びて座っていた。僕もその人達の中に混じって座り、煙草を喫った。これからの生活をあれこれと思い描く。不安はなかった。日本の観光客であろうか、若い女性が一人誰かを待っているのだろうか、石段の下のほうで座っている。その女性の何と淋しげに見えたことか!
4時に帰る。しばらく部屋にいたが、村山君訪ねて来ず。その後「京子」に行く。とっくの昔に仕事を終え出て行ったと云うから、僕も大橋君も部屋に居なかったのでアリアンスへ行ったのだろう。
「ル・グラン・モーヌ」読了。傷つかない青春なんてあろうか。傷つき苦悩しもがいた後に人生の何たるかを思い知る。またそれを知った者こそ、人生における青春の意義を深く認識出来るのだろうか……。優れた青春小説であると言える。
うたた寝をしていると、12時過ぎにノックがして大橋君が入ってくる。バイト先と下宿が決まった祝いだ、早速サン・ミッシェル広場へ繰り出し、ビールで乾杯!
歓びを話せる友がいるのは実に楽しい。舟を漕ぐ手応えだけは確かに感じ始めている。
- 4月12日(日) 晴。
- 昨夜は気持の高ぶりがあった為だろう、眠れない。それに腹の調子も何だか変だ。トイレに行く、……下痢。おそらく牛乳が原因だろう。こちらの牛乳は粉末乳のようで少し甘みがある。成分にも違いがあり日本人の胃には合わないのか、それに昨夜は喉が渇いていて不節制にも飲み過ぎたようだ。
正午前に起きる。熟睡したとはいえない。夢を見ていたようだ。……教師をしている、煙草を喫っている生徒に注意をするが、その生徒がまた僕の目を盗んで喫い始める、注意をしなければと思っているが、そのような自分に嫌気を覚えている……何故あのとき教師を辞めたのかと問い直す……そうだ、外国へ行きたいんだったなあ、生きた英語をマスターしたいんだったなあ……そして今フランスにいる自分を再認識してほっとしている……そんな夢。
村山、大橋君達と近くのレストランで昼食。彼らは眠り直すと言って部屋に戻る。僕は公園で読書。5時前に帰り、恩師に手紙を書く。
夜、大橋君とモンパルナス通りの中華料理店で食事をした後、ホテルの近くのカフェで話す。<C'est la vie>の僕流の解釈を喋り一人大いに悦に入っていたようで少し反省している。要するに、人生とは幾多の困難があるだろうが自分のやりたい事を力一杯やり、結果はたとえ失敗に終ろうとも、自己の運命を大きな心で受容し、これが人生なんだと言えるような人間でありたい、<C'est ma vie>、そのように人生を送りたいと僕は言いたかったのだ。
- 4月13日(月) 朝方、雨。正午前より晴れる。歩くと汗が滲む。
- 7時半頃目が覚め、残りのバゲットを噛り、また眠る。10時過ぎ掃除のおばさんが入ってくる。今日はいいですからと言うとすぐ出て行った。11時過ぎに起床。郵便局へ封書を出しに行く。
セーヌ左岸沿いのノートルダム寺院を目前にする、ごく小さな公園のベンチに座ってサンドイッチを食べていると、50歳位の白人の女性がそばに座り、何か話しかけてくる。日本から来たのかと言っているようである。身なりは薄汚い。話せないんだと言って、無視して食べていると、フリッツと言ったようだ。そしてしばらくして公園を出て行った。両足がまるで棒のようで、見るからに痛々しい。何だか複雑な気持になる。フリッツが欲しかったのかも知れない。おそらくそうだろう。あのような乞食同然の人がまだいるんだ……。すぐ近くに、英書とシェイクスピアの書物を集めた古本屋があるのに気付く。
ポンピドゥー・センターへ。各国からの観光客で一杯。広場には観光客相手に似顔絵を描く者、音楽演奏をする若い男性グループ、大きな人の輪ができている所では油を口に入れ、一瞬パッと火を吹き出して見せている。ここは大道芸人たちや芸術家の卵たちが観光客を相手に生活費を稼ぐ場所でもあるのだ。その時は霧が立ち籠めていて、エッフェル塔は見えず、サクレ・クール聖堂は白くぼんやりと霞んでいた。
好奇心に駆られてサン・ドニ門まで歩く。サン・ドニ通りと交差する小さな通りには売春婦が真っ昼間から道行く人に流し目を送っている。この界隈は場末と言った感が強くごみごみした所だ。黒人や東洋系の人が多く、人相の良いとは思われない男達も多く見受けられる。足がかなり疲れていたのでメトロを利用して帰りを急いだ。4時帰宅。
8時頃部屋を出て「京子」で夕食。村山君の友達が二、三人いて紹介されるが、話の糸口が見つからず彼らと言葉を交すことはほとんどなかった。
夕食後の散歩、ノートル・ダムへ。観光客が大勢たむろし、賑っている。若者はグループになってギターを弾き歌っている。セーヌの橋下の河岸では黒人が中心になり太鼓を敲きマンボを踊っている。丁度その時照明灯を明るく照らしながら遊覧船がやって来た。ノートル・ダム寺院が遊覧船のライトで一層明るく照らし出され、橋の上の人々と船上の人々が互いに手を大きく振り交わす。何か祭りのような雰囲気が一瞬醸し出され心が浮き立つ思いだ。が、それも束の間、船が行ってしまうと、その喧騒も止み、後に何か寂しい余韻が残った。そばにいたフランス人の青年がマンボ踊りの者達を指して、僕に何か尋ねているようだ。申し訳ないがまだフランス語が解らないんだと言うと、いいんだと言うように手を振って去って行った。
- 4月14日(火) 晴。午前中快晴。空、滑らかで光沢のある淡いブルー。
- 午前中はリュクサンブール公園で読書。「フランス物語」
サン・ミッシェル通りの靴屋で運動靴を買う。店員の若い女性の応対がすごくぞんざいで不愉快であった。最初一目見たときから厭な印象を受けた。日本にもあのような女性がいた。機械的で無愛想で―。3時頃帰る。
早く言葉を習得しないといけない。久し振りに「フランス語作文の基礎」のページを繰る。
夜、本を読んでいて、うとうとしてしまったらしい。ノック音に目が覚める。大橋君は明日の昼の仕事は休みなので、翌朝5時頃まで話す。珍しく彼の人生に対する考えを聞く。こちらへ来てほぼ1年、精神的にすごく成長したようだ。僕の話がくどくなる時があると言う。そのような時は、その話はもう止めましょう、とこれからは言います、と―。大いに結構。話題を転じてくれれば会話も膨らみ面白くなる。
- 4月15日(水) 終日朧天気。
- 10時前起床。夢……登場人物は国際色豊か、その中に大学で講師をしていた人に似たインド人がいたような気がする、大橋君のような僕の連れ合い、ここは日本ではない、どこか異国の地、日本人が何か演説しながら歩いてくる、…ミサイルが発射され、核戦争が勃発したのか、びくびくしている、連れは科学的知識が豊富らしく今後の成り行きを予測しようとしている、空中を小型トラックのような物が飛んでいたが、それが紙飛行機のようにスーイスイと揺れながら地上に落ちて来る、科学の知識の豊富な連れを僕は羨ましく思っている……等々。全くおかしな夢。
少し勉強した後、部屋を出る。「東風」で昼食。背広姿で行ったので、「何処かで見た方だとは思っていたのよ、あなた四、五日前に来て下さったわね、見違えてしまいましたわ」と人の気をそらさない、愛想のいい女将さんだ。開店して明日で二ヶ月になるとか。ご主人は中国人だと聞いている。あの女の人、日本で水商売の経験があったに違いないとにらんでいるが…。
シャンゼリゼへ出て、この前と同じ銀行で8万円を替える。今回はトラヴェラーズチェックなので手数料、18フラン取られる。1万円が236フランに上がっている。昨年末は200フランだったとか。強い日本経済。いつまで続くのか―。
ホテルに帰ってきて17日振りにシャワー(douche)を浴びる。さっぱりした気分だ。但し、9フラン取られるから毎日というわけにはいかない。
6時頃大橋君と一緒に出る。彼は仕事へ。ノートル・ダム寺院の中に初めて入る。ミサの最中、賛美歌が合唱されている。宗教心のない僕だが荘厳な雰囲気は身体の中まで沁み込んできた。
8時過ぎにホテルに戻る。階段の途中ですれ違った女性と言葉を交わす。3日前にパリに着いたばかりだと言う。コルク栓を抜く道具がなくて困っていると言うので、お貸ししましょう、部屋まで来て下さいということになった。彼女の名前は高田恵。パリには語学学習にやって来たらしい。連れの女性は画家志望で、美術学校に入学するとか。二人とも西宮の人らしい。
10時過ぎに二女性の訪問を受ける。栓抜きのお礼にするめ二枚頂く。高田さんの連れの画家志望の女性は相川さんといって、高田さんよりひとつ年上。二人は高校卒業後就職した会社で知りあった仲。高田さんは保母さんになりたくて退職。その後会社は石油ショックのあおりを受け倒産。相川さんはその時一大決心、好きな絵の勉強をする為に一人メキシコへ。二年後相川さんが帰国すると、高田さんがスペインへ旅立ち、ベビーシッターをしながらスペインに住み着き、1年半が経過した。相川さんはその間日本でお金を貯め、二人はスペインで久し振りの再会を果たし、その後イタリア等を旅行して、先日パリにやって来たばかりなのだと言う。二人ともこれから6ヵ月ほど当地でそれぞれの勉強をして帰国する予定とか。二人ともしっかりした考えを持っていて、気さくな人柄に見受けられた。11時半頃まで話をする。二人のこれからの生活に幸いあれ!
- 4月16日(木) 快晴。
- 正午前、やっとベッドを抜け出す。
昨夜二女性が帰った後、村山君来訪。1時半頃大橋君帰ってくる。三人で4時過ぎまで話をする。ベッドに入ったのは5時前か。
彼等二人の話を聞いていてなかなか面白かった。年齢が近いこともあろう、大橋君は村山君を厳しく戒めていた。日本料理店でそんな風にしていては、仏語の勉強にはならんぞ、勇気を出してフランス料理店へ飛び込んで働いてみろ―と。そんな言葉に大橋君の村山君に寄せる友情を感じた。聞いていて悪い気はしなかった。
正午過ぎにアダプターを買いに外に出る。半袖だったので、大気と触れ合っている手や顔が少しではあるが刺されるような冷たさを感じた。晴れ渡っていたが、早春のような気配がした。帰ってきて、カセットをかけてベッドに寝転んでいると、そのまま眠ってしまったらしく、目が覚めると4時になっていた。顔の左半分にはベッドカバーの縞目模様がくっきりと―。折角の良い天気を享受できなくて残念、すごく惜しい。大橋君も同じことを言っていた。二人は部屋に帰ってからもいろいろと話をし、寝たのは陽がかなり昇ってからだったのだろう。村山君の鼾で大橋君は眠れなかったらしい。11時頃マダムが部屋に入ってきた。彼は眠っている振りをしていた。マダムは何も言わずに電灯を消して出て行ったとのこと。村山君の声が大きく、隣室から苦情があったのかも知れないと言う。その後彼もやっと眠りに落ちたとか。
夕食は「京子」で。夜、読書。
- 4月17日(金) 終日雲一つない快晴。風強く、肌寒い。
- 朝方、夢を見た。夢というのは全くおかしなものだ。……芝居をすることになっている様で、兄と僕が出る場面の稽古を始めようとするが、口論になりそうな気配、僕は必死に感情を抑制しようとしている。その時だれかがやって来て、慥かおふくろであった様に思うが、「俺の死に場所はここだと決めている」と親父が言った―と。普段の親父ではない。どこか知的な老人のような感じであった。その時、夕焼け!…すごく鮮やかな真紅の夕暮れに、ぼくは泪が流れて流れて仕方がなかった。そこで目が覚めた様なのだが、その夢の中では僕の家は、信州か何処かの山の番をしている様で、雪解けの終った山の姿が映っていた。冬山登山者たちには、右の道を行ってはいけない、真っ直ぐに登って行かないと危険なのだと、後を追って行って忠告したこともある、等と話をしている……。
素晴らしく晴れ渡った良い天気。しかし風は冷たく、2時間近くリュクサンブール公園で読書していたが、身体が冷えてきて、最後は小刻みに震えだした。「誤解」読了。
市立近代美術館でモジリアーニ展を鑑賞する。彼の絵画の解説が流れてきて、意味が解らないが耳には非常に心地よく、フランス語の言葉の持つ音楽性に初めて感動を覚えた。帰りはアルマ橋を渡り、セーヌ左岸沿いに歩いて帰る。7時着。夜、読書。
- 4月18日(土) 快晴。昨日同様、風強く冷たい。
- 10時前に大橋君を約束通り起してやる。彼、昨夜眠れず、5時頃やっと眠りについたとか。まだ眠そう。気分が悪そうなので、一人リュクサンブール公園を散歩。
フロントに僕宛ての封書を見つける。恩師の手紙を読みながら、昼食。部屋で読書。
7時半頃、中島みゆきのカセットをかけていると、隣の部屋の宿泊客が入ってくる。前にも同様の状況で部屋をノックされた。北海道の医科大を今春卒業した人で、医局に入る前の時間を利用して旅行。ドイツに7日間、昨日パリに。明日ド・ゴール空港より帰国。
三人で「東風」で食事。森君は大橋君より一つ年下。なかなか落ち着いた感じのいい青年。医師としての雰囲気はもう充分に備わっている。来月の16日に国家試験の発表があるとか。初めての海外旅行で1週間も日本人と話をしないでいると、やはり人恋しくなってくるそうだ。彼の前途を祝して三人で乾杯。
二度あることは三度とか。中島みゆきは今度はどのような日本人を僕に引き合わせてくれるだろうか……。
- 4月19日(日) 曇り、時々小雨。夕刻より晴れ間。
- 正午に外出。ポンピドゥー・センター広場では、ロボットの形態模写をしている青年の周りに大きな人の輪ができていた。観客の間を廻り帽子を差し出している人がいた。その芸は大変受けたようで、帽子の中には紙幣札もたくさん入っていた。その後マレ地区の旧い建物のそばを通り、ルーブル美術館へ。ミロのヴィーナス像を初めて観る。黒山の人盛り。4時半帰宅。少し疲れた。
夜10時過ぎ、階段で例の二女性とすれ違う。僕の部屋で大橋君も加わり、12時過ぎまで四人で大いに語らい、楽しい時を過す。
彼女達の話し振りは、まるで周五郎さんの「おたふく物語」の姉妹の様で、聴いていてこちらも楽しくなってくるおかしみがある。どちらも高校を卒業後就職。高田さんは保母さんになる為に退職。肺を痛め約半年療養したこともあったそうだが、働いて金を貯めスペインへ。相川さんはオイルショック後会社が倒産。やむなくバスガイド等のアルバイトをやり金を貯め、メキシコへ絵の勉強に2年間。二人ともインテリ臭さはなく、非常に庶民的でバイタリティに溢れ、女性としての魅力もあり好感を覚えた。
異国で知り合った男女が情報を交換しあい、協力して各々の生活の場を築いていく。こういう異国体験は明治の時代には出来なかったわけで、ここに歴史の移り変わりを明治大正生れの人達は感じないわけにはいかないだろう。
- 4月20日(月) 晴れたり曇ったり。時々小雨。夕方から晴れ渡る。
- 四人でヴェルサイユ宮殿を見学。月曜日はあいにく閉館で、宮殿の中へは入れなかったが、庭園の広さと素晴らしさに驚愕する。ルイ14世から16世の統治の間、王や貴族が贅沢の限りを尽くした場所であったのが、革命により市民の立派な共有財産となり、現在は世界の財産であるともいえる。そこで今日は楽しい一時を過せたことに感謝しておこう。
帰って来て、そこのル・クリスタルで4時過ぎから6時半頃まで食事をしながら大いに語り合った。まるでみんなが十代終わりの青年男女に戻った気分で、お互いの目標等を語り、終には、日本人論やこれから国際化してゆく中で果たすべき日本の役割や、現在日本が抱え込んでいる急成長による歪み等の問題、しかしふと我々の現実に立ち返り、これからこの国で如何に生きてゆくべきか、等、大いに気焔をあげた。不思議なものだ。日本にいてはこのような議論は気恥ずかしくて到底できそうにもないが、こちらでは日本人としての誇りを自覚するところから自然と気持が昂ってくるのだ。大いに愉快である。
明日からは、新しい生活への一歩を踏み出す。
- 4月21日(火) 晴。
- またもや夢。5時頃に醒める。内容は今はよく憶えていないが、友との心の葛藤があったようで、それとは別に目が覚めた時、親父のことが気になっていた。
暖炉の戸が吹き込んでくる風でガタガタ音を立てていて、以前から心は不安であった。セロテープを買ってきて音のしないように補修してみたのだが、あまり良くはならなかった。よく夢を見るのは、あの音が眠っている僕の無意識界を不安定にしているからかも知れない。
今日アリアンスの授業の初日。自己紹介が主だったのでテキストは使わなかった。何を言っているかは8~9割状況からほぼ察しがついた。モンテス先生。まだ30歳には達していないと思われる若い先生。好感が持てる。生徒の数は37番教室の僕のクラスで20名位いたと思う。空いた机はなかったようだ。国際色豊かで日本人3名、中国人2~3名、ヴェトナム人2名、カンボジヤ人1~2名、セイロン人1名、タイ人1名、エジプト人1名、アメリカ人1名、ノルウェイ人1名、ポーランド人2名、スイス人1名。他にフランス人の男性が1名混じっていたが、この人は授業参観が目的であったようだ。アリアンスの職員なのだろうか。授業は8時半に始り10時15分に終った。楽しくなりそうだ。帰りリュクサン公園を通った時、ここのベンチに腰をかけて復習するといいんじゃないかとふと思った。
学校は6日から2週間春休みだったらしい。イースター休日だったのではないか。今日から学生食堂も再開。今日は昼食夕食とも世話になった。二食続けると日本食が恋しくなる。夕食時、浮浪者風の30代の男が食事の済んだ学生の食器を貰い受け、食べ物を入れて貰いに行った。おかわりは可能なのか、それとも拒まないだけのことなのか。その男は浮浪者風の男達が座っているテーブルへ持って行き食べていた。
リュクサン公園で夕方の景色を眺めようとベンチに腰掛けていた。8時20分頃、呼び笛の音があちこちから聞えてきた。警備員が鳴らしているのだ。閉門となる時刻なのだ。今まで知らなかった。
時間があったにも拘らず、今日は殆ど勉強できなかった。何となくだらだらした感じ。時間をもう少し有効に使わないといけない。熟睡できていないせいか、今も目の奥が重く、眠気が残っている感じ。
- 4月22日(水) 曇。
- かのフランス人は今日も教室にいた。おそらく研修生かなにかであろう。
山本君から手紙。消印が19日となっているから、速いものだ。僕の後を追ってやって来るかと思いきや、金の問題もあり、熱は冷めつつあるようだ。これからどの方向に向かうのか、多少心配でもある。
時間がありすぎて、少し持て余し気味。早起きの為か、昼間は眠い。緊張感が足りないのかも……。
学生食堂で二女性と遇い、一緒に食事。部屋探しに専念している様子。JISUのアパート情報を教える。この近くにもアパートを斡旋してくれる所があるが、まず30フラン払って会員にならないと住所を教えてくれないとのこと。一番安い所で1ヶ月400フランとか。しかし、安かろう悪かろうでは―。二人と別れて部屋に戻る。眠気を催す。
夕食は「京子」で。夜、村山君来訪。40分位喋って10時前に帰る。二女性訪れず。
- 4月23日(木) 曇天。午後より晴。
- 部屋で勉強を終え、外出。オペラ座通りへ。カルチェ・ラタンとはやはり大いに雰囲気が異なる。学生風の者は殆ど見かけない。歩いているのはみな旅行者のような気がしてくる。日本人の多いこと。背広にネクタイ、目付きの鋭い商社マンらしき人の姿も混じっている。免税店の前で二度も日本人観光客に呼び止められた。運動靴を履き、無精髭を生やした全くヴァガボン同然のこの僕を二度とも旅行者だと思っている様子だったのだから驚きだ。日本料理店「伊勢」を見つけたが、日本の書籍を扱っている店「ジュンク」は終に見つからなかった。コメディ・フォンセーズの向い側に日本料理店「大阪」があり、そのすぐ横に「ラーメン亭」があった。入ってラーメンを食べる。13フラン。味は少し辛い。日本の芸能人の自筆の色紙がたくさん飾ってあった。イヴ・モンタンのもあった。
学食で彼女達に遇う。JISUに掲示してあったのは一つを除いて全て決まってしまったとのこと。残る一つも電話が通じないから、もう既に決まってしまった可能性が強いと言う。学生の下宿斡旋所で50フランを出して会員になり、掲示されていた物件の電話番号を教えて貰ったが、仏語では思い通りに用がたせず困っている様子。相川さんは風邪気味で微熱があるらしい。あの小さな身体で頑張っているのを見ると、少し痛々しい感じもする。しかし今は見守っていることにしよう。自分達の力で何とかやってみたいという気持を大切にして―。明日決まらなければ、土曜日は手伝う約束をする。
- 4月24日(金) 快晴。
- 昨夜11時頃、隣室34号室で大きな音。しばらくして35号室をノックして何か言っている。10分程してまた大きな音。おそらく壁を叩く音であろう。ちょっとして、34号室の人が35号室の人に怒りを交えた声で「ここは下宿じゃないんだぞ!」と言う声がはっきり聞えた。これで日本人であることが判り少しは安心(?)。またしばらくして壁を叩く音。35号室で何かしている(?)ことが、34号室の日本人には神経にさわるのだろう。おかげで昨夜は寝つきが悪く、今朝起きても気分が良くなかった。35号室の人も日本人なのだろうか。隣室の神経がこの部屋にも伝染しかねない。これが毎晩続けられるとしたら……。今晩はどうか止めてくれ!
勉強を終え、3時半頃外出。もう一度「ジュンク」を探す。見つからず、ラーメン亭に入る。カレーを食べていると、「煙草を一本貰えませんか」と言ってきた日本人がいた。旅行者には見えない。この人なら知っているかも知れないと思い、ジュンクの場所を尋ねたところから話が弾んでいった。彼は1969年から12年間こちらで生活している絵描きさん。大学受験に失敗し浪人しているときにパリにやって来た。4~5年美術学校に籍を置いたこともあったようだが、今は自由に絵を描いて過しているらしい。生活資金は今でも日本から送金して貰い絵画の修業中の様子。生活の匂いが全く感じられないからだろうか、ちょっと、ひ弱な印象を受けた。パリの南方、アントニイの近くに住んでいるとのこと。日曜日に彼の下宿を訪ねる約束をする。確か南條と名のったように思う。哲学にも興味があるらしく、カントの純粋理性批判について何か言っていた。手に持っていた岩波文庫もその類か。
- 4月25日(土) 曇、後小雨。
- 昨夜何時頃であったか、ドン!という音で目が醒める。朝方8時頃、34号室をノックする音。ドアを開けると、隣のドアの前に日本人が立っている。事情を訊くと、その人は35号室の人で、ドンという音はその人が壁を叩いた音だと言う。34号室の住人が深夜しきりと小刻みな金属音をたてるので、壁を叩いて注意すると、金属音は消えたのだが、今度は水を流す音が聞えてきた、云々。そういうことで35号室の日本人の神経はかなり苛立っている様子。昨夜は5時まで一睡もできなかった、何人か知らないがちょっと頭がおかしいんじゃないか、と憤懣やる方なしといった様子であった。
大橋君によれば、その日本人の方こそおかしいのではないか―と。確かに、夜の夜中、あんな大きな音をたてておきながら、他の人の迷惑は全く省みないのもどうかしている。二人とも理由はともあれ、神経が過敏になっていることだけは確かなようだ。
山本君に手紙を書く。書き終えて、何故か気分は沈みがち……。こちらへ来て以来初めてのこと。
夜12時過ぎに大橋君と村山君来室。4時過ぎまでにワイン3本空ける。日本料理店「大阪」が強制捜索を受け、働いていた学生が一人強制送還されたと大橋君が言ったが、それは彼の誤解で、村山君が言うには、そういうことはない、急にチェーン店展開をしだしたが正社員が少ないことに対して注意を受けた程度なのだ―とか。しかし服装には注意をしたほうが良い、とは二人の一致した意見。村山君、持って来た金もあと僅か、でフランスを脱出しスイスで働くことを考慮中とか、……さてどうするのか。日本料理店で働いて日本人と話しマージャンをする―こんなことで仏語の習得が可能か。金も少なくなってきている……彼は焦りと苛立ちを酒に紛らわせているように見受けられた。
ところで、二人の日本人女性の下宿探しはどうなったのか。報告がなかったところを見ると、うまくいかなかったのかも知れない……。
山本君、お便り有り難う。
この地に足を踏み入れてもうそろそろ4週間が経過しようとしている現在、出国当初思い描いていた生活(働きながら学ぶ)の半分を既に体験しつつあります。2、3ヶ月の間にけりを付けようと思っていた仕事三件が、2週間を経過した時点で幸運にも落着し、これから何年続くか判らないが、その生活の基礎固めが終りました。―それでは詳しく、君の質問に答える方向でペンを進めましょう。
リュクサンブール庭園の近くにあるアリアンス・フォンせーズという語学学校の初級コースの授業を受けて1週間が経過、初級なので何とかついてゆけそうです。入学金50フラン。授業料は4月分100フラン、5月分400フラン。
残り二件、仕事と安い下宿は同時に解決。「オヴニ」という日本人向け情報誌(月2回発行)に店の広告が出ていた「サクラ」という日本料理店に試しに電話したところ、丁度皿洗いをしている学生が4月一杯で辞めることになっていて、幸運にも5月から夜(6時~11時)働くことが決まり、同時に店の寮の一室に入ることができました。週1回休みで、月1,300フラン。寮費は風呂電気代込みで月400フラン。夏には1ヶ月休みを取ってよいと言っていましたが、これは経済的に余裕のある者にとっては有り難い話ですが……。夜は店で食事できるから、昼は学生食堂を利用すれば(1食5フランの安さ)金は貯まらないが何とかやってゆける。
仕事は常に何処かの日本料理店で募集しているから、ボーイ、皿洗い等厭わなければ何とかなりそうです。労働許可証は持っていなくとも、経営者の立場からすれば経費が少なくて済むからでしょうか、暗黙裡に問わない所が多いそうです。
問題は安い下宿。これは難しい。1、2ヶ月かかると思っていたほうが良い。僕は今1日32フランのホテル住いだが、これだと月に千フラン(5万円弱)かかる。食費に関しては、学食を利用すれば1日20フラン以内でやれそうだが、それでは空腹を満たすだけのこと。安レストランで食事をしても最低1食30フランはいる。それで1日平均40フランと計算すると月1,200フラン。従って、月2,200フランとなる。現在の為替レートでは、1万円=220~230フランだから、1ヶ月最低10万円かかると思わなければならない。
滞在許可証を持っている学生は非常に少ないと聞いています。入国時に持っていても更新の手続きが面倒なのでしないものが多く、またそのままでも別段問題が生じないからなのでしょう。過激派対策の一環として、不審尋問を受ける時がたまにあるそうだが、パスポートを見せれば何ということはないとの事。或る日本料理店が一度強制捜索を受け、働いていた学生が国外追放になったことがあると人伝に聞いているが、真偽の程は定かではない。まあ、その時はその時で、帰国すればいいんだと覚悟を決めていれば、それほど神経質になることはないと思っている。服装に注意し、細心の注意を払うにこしたことはないが……。
先生からも、君より先に手紙を貰いました。11日に君が訪問したとの由。君は半分も話は通じていないと思っているようですが、先生の手紙によれば、就職のこと、今後の身の振り方について話を持ちかけたが、君の声が小さ過ぎて殆ど聞き取れず、話は一方通行に終始し、「……惜しみても尚余りある2時間でした」と。その時の君の気持、その場の雰囲気は何となく想像出来る気もするが、要は君がもっと明瞭に喋ること―心が決しかねているのならその状態を相手に聞き取れるように伝えないといけない。先生にすれば、君の気持が解らない限りアドバイスの与えようがない。
僕の場合は、君の手紙にあるような未練は無かったから、案外すんなりと飛んで来たが、君の場合は僕とは状況が違うのだから、僕としては来いとも来るなとも言えない。君自身の生き方にかかわる問題だから、決断は君自身がしないといけないと思う。若し来るのなら、僕に出来る範囲で力になります。
先日カルチェ・ラタンを歩いていたら、ロンサールの石像に出くわしました。フランスの魂とか何とか彫り付けてあったようです。勉強した君と、一行も読んだことのない僕とでは、その感慨もまた違ったものとなるでしょう。どちらの道を選択するにしろ、後に悔いを残さないように―。
- 4月26日(日) 曇、時に晴、時に小雨。
- 正午前まで眠る。午後南條さんに一応了解の電話を入れ出かける。Bourg-La-Reine 駅は Port-Royal 駅から七つ目ですぐ着いたが、そこからが一苦労であった。途中道に迷い同じ道を行ったり来たり、雨が降ってきて雨宿りをしたりして、15分位の道のりを1時間以上もかかってしまった。ようやくの思いで辿り着いた時は3時を過ぎていた。
日曜日であるせいか人通りは殆どなく、樹木の多い静かな街並みの中に南條さんの住居はあった。年老いたマダムが空いた部屋を貸しているらしい。何人下宿人がいるのか尋ねなかったが、他に人が住んでいるような物音は一切聞えてこず、南條さんと老いたマダムの二人しかいないのではないかと想われるような静けさであった。
部屋はかなり広く、独り寝にしてはやや大きめのベッドがあり、一人用のゆったりとしたソファがあり小さなキッチンがあった。細長いテーブルが置かれてある。その椅子に腰掛けるよう指示された。南條さんは僕の向い側に腰掛けた。最初多少の警戒心があったのかも知れないがすぐに打ち解け、僕に関心を示すよりもむしろ彼自身のことをゆっくりと淡々とした口調で語り始めた。
ボ・ザールに籍を置いていた若い頃、もちろん最初の1,2年は真面目に学校に通ったのだろうが、頭はつるつるに剃り、赤い服を着、赤い靴を履き、黒いマントに身を覆い、夜な夜な陽が昇るまでパリの街路を徘徊した。昼と夜の逆転した生活。一般の生活者のしないような大胆な行動を気の向くままにやり、人々の注目の的となっていたと言う。
その当時この家には下宿人がたくさん居たらしい。絵の勉強に来ていたドイツ人女性は、夜独り寂しくなるとよく彼の部屋に入って来た。こちらではトイレで使う紙は日本のように柔らかくはなく、それにシャワーもあまり使わないからだろう、固くなってこびりついていた等とリアルなことまでも―。女性との精神的なことにはあまり関心がなかったのかも知れない。
夜は部屋の電気を消し、代りにローソクの灯を点し夜通し起きていたことがあった。変な日本人画家がいると町の人々の話題になり、新聞記者が面会を求めて来たことがあったそうで、これがその証拠だと言って新聞の切り抜きを見せてくれた。
話に夢中になり時の過ぎるのも忘れていたようだ。8時頃だったろうか、腹が空いたでしょうと言って、スパゲティーを作ってくれた。夕食後、会心の作なのだろう、かなり大きな絵を見せて貰った。詩人であり今は美術評論家もしている人がこの夏パリにやって来るが、その時に今まで描き溜めたのを見てくれることになっていると言う。その絵は宇宙空間を描いたような印象を受けるもので、抽象的で僕の心はあまり動かなかった。彼のアトリエは他にあるのか、今は活動を中断しているのか、その部屋には絵の道具は見かけなかった。
話を聴いていて一昨日受けた印象とは大いに異なるものを僕は感じ始めていた。僕なんか到底出来そうにない、経験したことのない世界だ。パリ生活12年の重みが何とはなく伝わってくる。芸術家の持つ自由奔放さ、大胆さ、反逆精神が、あの最初受けた弱々しそうな顔の奥に隠されていたことに少し驚いている。また僕の人を観る眼の浅いことに少しの恥かしさも感じている。大いに興味をそそられた人物であった。11時頃暇を告げた。
- 4月27日(月) 曇時々小雨。
- 彼女達、夜来訪。Bourg-La-Reine のすぐ近くに下宿が決ったとのこと。まずはよし。二部屋で月1,200フラン。風呂、台所、家具付。電気代、ガス代は含まれていない。家主は心理学者で60歳位の人だとか。来月の初めに引っ越す予定。落ち着いたら食事に招待してくれるとのこと。
高田さんに、パリ第九大学(経済学部)へ行けば交換教授を希望するフランス人を紹介してくれる、と聞く。彼女は今日頼んできたそうだ。明後日電話して確かめることになっているとか―。
- 4月28日(火) 薄曇。
- 映画 "Gosse de Tokyo" は、上映時刻(12時15分~)に遅れたので諦め、学食で昼食をすませた後、第九大学へ行ってみることにした。地下鉄 Porte Dauphine 駅で下車。123号室は閉っていたので、時間潰しにブローニュの森を散策。
3時頃に再訪。丁度タイミング良く部屋にいた女性を紹介される。
ドアを開けて部屋に入ったとき、その女性の後ろ姿が目に入り日本人かと思っていたが、ヴェトナム女性で、名前は聞いたが忘れてしまった。こちらで生れ育ち、今パリ大学の4回生。昭和54年に三一書房から出版された『倒産』という本を持っていた。その書物のレジメを来週出版社に提出し、それで良かったら彼女が翻訳することになっているらしい。意味の把めないところを質問したいとのこと。その本は日本の留学生(彼はこの夏帰国の予定)と一緒に読んだらしい。僕はフランス語の発音を主として指導して貰うことに話が決まり、早速明日、大学の図書館で午後1時に会う約束をする。
- 4月29日(水) 曇天。
- アリアンスは今日から進むペースが速くなった。1課を1回で終ってしまう。これからは予習は欠かせない。
パリ大第九へ行く途上、地下鉄オペル駅から乗ってきた学生がギターを弾きながら実にいい声で歌を歌いだした。乗客の殆どが彼の美声に聞き惚れているようであった。日本では見られない光景に芸術の街の雰囲気を一瞬嗅ぐ思いがした。彼はエトワールで降りた。
午後1時より交換授業第1日目。彼女のファーストネームはダニエル。ややこしいが、今は父親の代になり彼女の祖父の氏名が彼女の一家のファミリーネームになっていると説明していた。
DANIELLE NGUYEN-DUC-LONG (院-徳-龍)
(彼女の祖父のファミリーネームが NGUYEN-DUC 、ファーストネームが LONG)
鎌田慧著『倒産』の6頁位を読む。来週の水曜日にその書物のレジメを出版社に出さないといけないと言うので、僕が教える時間が大部分であった。翻訳料は安く、書物の売れ行きにかかわりなく1万5千フラン(約65万円位)しかないらしい。
12年前に家族そろってフランスに帰化したとのこと。彼女の祖父はフランス政府で働いていて、彼女達が来る以前に既にフランス国籍を取得していた。彼女の父は貿易関係の会社に勤務、現在パリの郊外に住んでいる。家族は多く、8人の子供のうち彼女は上から2番目。上に兄がいる。
彼女の知り合いにフリーのジャーナリストがいて、その彼が日本に行き『倒産』を買って帰ったのがその本を読むきっかけとなったらしい。彼女の将来の夢はジャーナリストになること。そのフリーのジャーナリストの友達がル・モンドの記者をしていて、その関係からなのだろう、近く、ル・モンドに彼女の記事が掲載されるらしい。その時は辞書を片手に読ませて頂きますと言うと、彼女は頬を少し赧らめた。
5時過ぎに「サクラ」へ。店主は不在。寮の住所だけ教えて貰う。引っ越しは5月の1日か2日になりそうだ。「京子」で夕食。村山君と話す。
- 4月30日(木) 曇。
- 昨夜寝たのが2時。今朝7時半起床。目が充血していた。
アリアンスの授業、頭がぼんやりしていて授業に集中出来なかった。
正午より『倒産』、2時で切り上げる。彼女も用事があるとか。その後、「サクラ」へ行ってみる。社長は留守。しかし従業員の口振りから明日引っ越せそうな感触を得る。
夕刻6時から仕事初め。今日で終りの皿洗いは高橋君。彼は外大英語科を卒業後、ヒッピーのようにヨーロッパ各地を放浪しているらしい。従業員の多くは社長の前川さんに対してあまり良い感情を持っていない様子だ。この前、帰る時、家主のあのフランス人のおじさんは前川氏に、この従業員にも掃除をきちんとするように指導しないといけないよ、位のことを言っていたのかも知れない。今日前川氏が寮について「いつもきれいに掃除していれば賠償金を請求されることもないからね」と言った時、その口振りから何故かそのような内容のことをあの時家主に言われていたのだと一瞬思った。この直感は間違っているかも知れないが。
電気代、水道代、ガス代は含まれていない。それで寮費は1ヶ月500フラン位になるらしい。あの時は興奮のあまり、電気代等は込みだと自分に都合のいいように思い込んだのかも知れない。また従業員の話を聞いていると、当初前川氏に対して抱いた僕のイメージは大分違ったものになってくるようだ。一つに観点のみから早計に判断を下していては全体を見間違ってしまうだろう。僕はお人好しというか単純というか、人を観る眼はまだまだ甘いのではないか。僕は水曜が休み。夏は旅行するかなどと思っていたが、そんな経済的余裕があるのか。甘い、甘い。まずは仏語習得に専念することだ。
11時40分頃帰宅。玄関に入るや、犬が突如襲いかかってくる。制止する声。今日で二度目。マダムのよそよそしい態度!
高田さんも相川さんも明日引っ越し。相川さんの風邪は治ったが、今度は高田さんがひいたとか。 douche の水が冷たくて、それが最大の原因らしい。持ってきた風邪薬を分け与える。
このホテルの最後の夜、大橋君と話す。 今3時43分。 Bonne nuit !
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